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桜田大臣の失言に怒る「プロ市民」の倫理

プレジデントオンライン / 2019年2月27日 15時15分

2019年2月14日、衆議院予算委員会でオリンピック憲章を読む桜田義孝五輪担当相(写真=時事通信フォト)

■桜田義孝五輪担当相「本当にがっかりしている」

今回は著名人の「失言」について考えたい。

2月12日、競泳の池江璃花子選手が病気を公表した件について、桜田義孝五輪担当相が「本当にがっかりしている」などと語ったことが問題になった。これに対し、桜田氏の発言は全体を読めば穏当で、メディアの悪意ある切り取りこそが問題だ、という声もあがった。

ここで問いたい。いったい「適切な言動」とは何だろうか。

この問いには、何らかの「正解」がある、と誰もが思う。だから非難もされれば、反省もし、謝罪も撤回もするのだ。しかし、何らかの言動が、その場面で「適切」であることを理路整然と証し立てるのは、思いのほか難しい。

「適切な言動」とは、具体的にはどんな意味か。誰かの気分を害さないことだろうか? あるいは、伝えるべきことを臆さずに言うことだろうか? さもなければ、自分の立ち位置や役割に対する周囲の期待に即すことだろうか? それとも、それ以上の、以外の観点も踏まえることだろうか?

■「適切な言動」は、本当に存在するのか

これらのすべてを満たすことができるなら、それに越したことはない。とはいえ、伝えるべきことを臆さず言うことで、誰かを傷つけることもあれば、誰かに配慮するあまり、自分の担う役目や役割を果たせなくなる場合があることは、誰もが経験済みだろう。

私たちは、問題にならなかったからと言って、そこでの言動が、必ずしも「適切」だったとは言えないことを知っている。さらに言えば、「配慮する」ということの中には、婉曲に表現することや、言及しないこと、場合によっては、嘘をつくことも含まれることを知っている。ある人にとっては「適切」でも、別の人には「不適切」だということはあり得る。このように考えると、何かの言動が問題化するか否かはその人の運次第だ、という結論に飛び付きそうになる。誰もが理解でき、納得のいく言動の「適切さ」などは無いのだ、と言いたくなる。

けれども、このように結論できるためには、少なくとも、次の前提を受け入れることが必要だ。つまり、もし言動の普遍的な「適切さ」があるのなら、それを誰もが直ちに理解できるに違いない、という前提だ。

この前提は自明ではない。理解できる人には理解できるが、そうでない人には理解できない、ということだってあるからだ。別の人が「不適切」だと思うのは、その人が、十分に理解できていないだけかもしれない。

ところで、私たちは学ぶことができる。少なくとも、そう信じられている。他者や書物からも、経験からも学ぶことができる。その過程の中で、どうにかこうにか、場面に応じた言動の「適切さ」を理解できる者になるのだとしたら、どうだろう?

■私たちは「有徳」になる努力を惜しむべきではない

その者が理解した「適切さ」は、さまざまな理由を比較考慮し「作り出した」結果かもしれないし、他の理由を退ける一つの理由を「見つけた」結果かもしれない。言動の適切さは、「発明」されたものか、それとも「発見」されるものか、という議論は倫理学上の一大テーマだが、大半の読者には、それよりも次のことのほうが重要だろう。

つまり、その場面での「適切な言動」はある、と私たちが考えている限りは、それを体現する人物となる努力は惜しむべきではない、ということだ。倫理学の古めかしい言い方を借りれば、「有徳」になる努力が必要だ。

この穏当な意見に賛同する読者が、賛同するがゆえに、著名人や公人の言動を気軽に非難するのだとしたら、非難されるべき対象には、自分自身も含まれることに気付かねばならない。

言動が非難される時には、しばしば、「プロ意識に欠ける」と言われる。著名人や公人は、その世界の「プロ」であるから、プロとして、自らの言動に配慮していて然るべきだ、というわけだ。実践的に、どのようにするかはともかく、この指摘が、自分の言動や価値観を自明視するのではなく、反省的になるべきだということを意味するなら、なるほど、軽率な言動は「プロ意識に欠ける」と言える。

■市民は「政治のアマチュア」だから責任はない?

桜田氏の発言全体を読めば、何も目くじらを立てる必要はないではないか、という人たちも、桜田氏の発言が軽率だったことは認めるのではないだろうか。その意味では、政治家としての、あるいは担当大臣としての「プロ意識に欠けていた」と言う人もいるだろう。

それでは、私たち自身はどうなのか? 政治家は、政治のプロだ。だから、プロらしく振る舞うべきだ。そう考える人たちの多くは、返す刀で、自分たち自身は政治のアマチュアだとでも言うのだろうか。だから、プロ意識は持たずに、反省的になる必要もないと?

もし、そう考えているのだとすれば、それは見当違いも甚だしい。私たちは、日々政治的な活動に従事するわけではなくても、政治的な事柄に関心を持ち続けるのではなくても、私たちの誰もが主権者だというこの一事において、政治のアマチュアだと言い逃れるわけにはいかないのだ。それだから、「プロ市民」という言い方ほど、民主主義を毀損するものはない、と私は思う。

■アメコミ作品ですら「人生の送り方」を問うている

著名人や公人が「有徳」であり「プロ意識」を持つべきであるのと同じだけ、私たち自身も、本来、そうあるべきなのだ。繰り返せば、それは、ただ何かのスキルを持つだけではなく、自分の言動や価値観を自明視せずに、反省的になるということだ。

私たちは、他者や書物からも、経験からも学ぶことができる。私たちの外側の力を借りることができる。偉大な人物や難解な書物でなくとも、身近な人たちや娯楽作品からですら、多くのことが学べるのだ。

例を挙げよう。コンコルディア大学(カナダ)の政治学者・トラヴィス・スミスは、『アメコミヒーローの倫理学』の中で、マーベルやDCなどの、いわゆるアメコミ作品ですら、どのような人生を送るべきか、どのような徳性を示すべきか、そして、どのようにしてコミュニティに貢献できるか、という問いについて、私たちが考えるきっかけになると言っている。

彼によれば、例えば「キャプテン・アメリカ」は、愛国、あるいはナショナリズムを考える上で、示唆に富むキャラクターであるという。

■アメリカが体現する「理想」を守ることに重点

キャプテン・アメリカは、その名が示す通り、そもそもはアメリカを守る愛国的な存在だった。スティーブ・ロジャースは、祖国アメリカのために、肉体をオリンピック代表選手のように、あるいは、それ以上に強化する人体実験に志願し、強靭な肉体を持つ兵士キャプテン・アメリカになるのだ。1941年に、コミックブックに初登場した時は、その表紙には、ナチスの総統に強烈なパンチを浴びせるシーンが描かれていた。

キャプテン・アメリカは、物語の中でこう述べている。「私たちのこの国は、困難な時期を度々迎えてきたかもしれない。……しかし、アメリカは最善を尽くして、常に人間の権利のために、専制者の支配に抗ってきたのだ! そして、もし、アメリカが専制者の権力と闘うために、その原理を支える人間を必要とするなら――それならば、神に誓って、私がそのような人間になろう!」

キャプテン・アメリカが初登場した当時、このキャラクターには、国威掲揚の側面があったことは否定しがたい。実際、彼の敵は、第二次世界大戦当時のドイツをはじめとした枢軸国であり、その後は、共産主義だった。しかし、トラヴィスによれば、キャプテン・アメリカの愛国心の描かれ方は、近年はとくに、アメリカの「利益」を第一にするのではなく、むしろ、アメリカが体現する「理想」を守ることに重点が置かれるようになっている。映画『シビル・ウォー』では、監視国家化するアメリカを憂いて、キャップは、アメリカを離れ、ワカンダというアフリカの国家に移ってしまった。

■愛をもって義務を果たすとは、どうあるべきか

キャプテン・アメリカを通じて、作者たちが、私たちに訴えかけていることは何だろうか? それは、自分たちの祖国に対して、愛をもって義務を果たすとは、どのようなことであるべきか、ということだ。

それによれば、キャプテン・アメリカは、まさに愛国的である故に、祖国アメリカが、その「理想」を体現する国になるまで、たった一人でも抵抗する必要があることを示している。そして、自由であることと、責任を果たすことは両立すると示そうとしている。トラヴィスは、こう言っている。

キャップは、……自分のコミュニティに対する義務感は、政府への依存や献身とは異なることや、単に物質主義的な自己利益を拒否すべきであることを思い出させる。……そして、私たちを団結させるものは、私たちを分割するものよりも価値があることを、私たちに思い出させるのだ。

■祖国への貢献とは「メダルを持ち帰ること」ではない

キャプテン・アメリカの物語からは、自由を謳歌するには、つまり、成りたい者に成れ、望むことができるためには、どのような徳を身に付けるべきかを学ぶことができる。それは、社会性のない無責任な私生活に退却するのでも、集団主義的で排他的なイデオロギーに執着するのでもなく、責任ある生活を送り、自発的に地域社会に貢献し、お互いの自由を守るために勇敢に立ち上がることを、私たちに奨励しているのである。

そして、それこそが祖国に貢献するということであり、単にメダルを持ち帰ることではないということを、私たちに教えているのだ。

オリンピックは、政治的な中立性を掲げているし、スポーツもフェアネスを大事にしている。しかしながら、オリンピックをめぐる数々の不祥事や、強まる商業主義的な傾向、あからさまな国威掲揚が、際立ってきているのも確かだ。オリンピックの理念やスポーツの精神が、机上のものにならないようにするためにも、自由を守り責任を果たすとはどのようなことなのか、トラヴィスが言うように、アメコミヒーローから学び得ることは、まだたくさんあるように思う。

(政治社会学者 堀内 進之介 写真=時事通信フォト)

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