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坂東眞理子"私の還暦前転職成功の軌跡"

プレジデントオンライン / 2019年3月16日 11時15分

昭和女子大学理事長兼総長 坂東眞理子氏

■小さな認証保育所が、大学での「第一歩」

私は総理府に入省して34年間国家公務員を勤め、57歳で退官、女性文化研究所所長・大学院教授兼理事として昭和女子大学に転職しました。途中、埼玉県で副知事を務めたり、在豪州ブリスベン総領事を務めましたが、基本的には公務員であり、そこにしかアイデンティティはありませんでした。ですから大学へ来た当初はカルチャーショックばかりを感じていました。

公務員生活は20代のときは自信がなく大変でしたが、その中で仕事やよき上司との出会いもあり、子どもにも恵まれました。30代で少し光が見えてきて40代、50代は仕事に全力投球していました。無意識に公務員という生き方に「過剰適応」していたかもしれません。

ですから大学に来てみると、何をしていいのかわかりません。それまでは朝は9時半ぐらいから夜は当たり前のように9時、10時まで懸命に働いていたわけです。大学では逆に拘束時間が少なすぎて、ありあまる自由時間をどう使っていいのか見当もつきません。

私は1978年に日本初の「婦人白書」の執筆を担当したことから本を書くようになり、官庁の外で講演もしていました。当時は「講演するなら100人ぐらいは集まってほしい」などと言っていたものでした。

しかし大学で講義をすると、私が学生時代に見てきたような大教室での講義などはなく、20人、30人の学生相手に話すのです。ゼミはもっと少なくて、5人、10人です。「人気がないのかしら」と思いましたが、大学の人からは「そんなもんですよ」と言われました。それだけ規模の小さな大学だったわけです。

学生のみなさんとは興味の対象が違いすぎて、たとえば私が「私はこういう制度をつくりました」と言っても通じません。逆に学生たちの興味の対象が私にはわかりません。

それでもしばらくして落ち着いてくると、大学が置かれた状況が見えてきました。

私が転職してきた当時は女性の4年制大学志向が強まっていく途上で、昭和女子大はその流れに乗り切れていませんでした。何か手を打たなければいけないことは明らかでしたが、どんな組織でも、よそから来た人間がいきなり大きな改革を行うのは難しいものです。まずは自分でもやれそうなことを1つずつ実行していくことにしました。

その第一歩が認証保育所「昭和ナースリー」の設立です。世田谷区では保育園に入れない待機児童が1万人を超え、大学の教職員も子どもを預けられず困っているという声を聞いたので、私が理事長となってNPO法人を設立し、大学に来て3年目の2006年に開園しました。定員はわずか25人。小泉政権の「待機児童ゼロ作戦」で17万人分の予算を獲得した頃に比べ、ずいぶんなスケールダウンでしたが、前の仕事を懐かしがっていてもしかたがありません。周囲に認めてもらうには、こうした「小さな成功」のエビデンス(根拠)を重ねていくことです。

■女子大就職率、8年連続1位

学長に就任したのは翌07年、ちょうど60歳のときです。学長としてまず行ったのは、学生部の就職指導担当部署を独立させて「キャリア支援センター」をつくり、学生の就職支援を強化することでした。

私は「これからは女性も仕事を持って働く時代」と考え、それを実現することが自分の使命と考えてきました。良妻賢母志向が残る本学では、私の考えは当初違和感を持たれたと思います。キャリア支援センター開設にも反対はありましたが、私は「4年も勉強させたあげくに『NEET』では、親御さんが困るでしょう」と押し切りました。

支援強化の結果、学生の就職率は上昇し、今では卒業者数1000人以上の全女子大中、8年連続で就職率1位です。「出口」を立て直したことで入り口にも人が集まり始め、大学の経営は大きく好転しました。

次に手をつけたのが大学の国際化です。09年に人間文化学部の中に国際学科をつくり、13年にはグローバルビジネス学部を開設、17年には人間文化学部から英語コミュニケーション学科、国際学科を分離して国際学部を創設しました。

教員の任期制や学生評価制度も導入しました。これにも反対があったので、「給与や待遇には反映させません。みなさんの能力向上のための仕組みです」と理解を求めました。

■60代の強みは、ネットワークにあり

60歳近くになって新たな世界に転ずることは、決して楽なことではありません。しかし一方でエキサイティングなことでもあります。

私はそれまで自分を「ラジカルな改革者」と思ってきましたが、大学改革を進めているうちに、「実は自分は改革者ではなく『改善者』ではないだろうか」と気がつきました。それは「今ある枠組みの中で物事を良くしていく」という公務員の職業柄かもしれないのですが。

そこで読者が60歳前後に新しい組織で再スタートする場合のことを考えてみましょう。この年齢のビジネスパーソンなら、私の経験からも、改革を目指すより改善を目指したほうが現実的だと思います。その組織に前からいる人たちに受け入れてもらいながら、様子を見つつ、5%、10%と少しずつ物事を変えていくのです。ゼロからスタートするなら起業したほうが早く、それには40代、50代のほうが向いています。

60代の強みは、組織の内外に元同僚や高校・大学の同級生、勉強会で一緒だった人など、知り合いが多い(ゆるやかな人的ネットワークができている)ということです。しかも60代なら、同年代の知人・友人は組織のトップなど第一線で活躍していることが少なくないはずで、そういうネットワークを生かすことができれば、あなたは新しい組織の中で特別な役割を果たせます。

官庁や大企業など大組織にいた人がセカンドキャリアで小さな組織に移ると、「都落ち」したようなネガティブな感情を持ってしまいがち。私も退官直後は自分が無力になった気がして落ち込むことがありました。しかし大組織に残った友人と自分を引き比べて卑下してしまうより、「自分には力のある知り合いがいてラッキーだ」と前向きに考えるべきです。

セカンドキャリアでそれまで築いたネットワークを維持するためには、過度に謙虚になってはいけません。自分を貶めず等身大で、「前の会社ではこんなプロジェクトをやった」「苦しいときもがんばり通した」という感覚でいいと思います。

それまでいた会社で普通のサラリーマンだったとしても、会社の外に出たら元いた会社や業界について周りの誰よりもよく知る立場になります。それも強みの1つです。

私は30代の頃に客員研究員としてハーバード大学に留学しましたが、そこにはいろいろな国から来た人がいて、当然ながら自分の国については他の誰よりもくわしいわけです。私自身も日本の女性や家庭については「私が一番よく知っている」という顔ができたものでした。

本学では13年に、ビジネスの現場にいる人に任期つきの研究員として来てもらう「現代ビジネス研究所」を設置しました。ここはハーバード大の仕組みをお手本に、企業人が本格的なセカンドキャリアを考える前の「止まり木」的な存在を目指しています。50代、60代を中心に約90人の研究員が在籍していますから、研究所内で交流するだけでも、ひとつの企業、ひとつの業界にいるだけでは身に付かない広い視野が得られるだろうと思います。

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坂東眞理子(ばんどう・まりこ)
昭和女子大学理事長兼総長
1946年、富山県生まれ。富山中部高校、東京大学文学部卒業。69年総理府入省。男女共同参画室長、埼玉県副知事、在豪州ブリスベン総領事などを歴任。現在、昭和女子大学理事長兼総長を務める。

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(昭和女子大学理事長兼総長 坂東 眞理子 構成=久保田正志 撮影=遠藤素子)

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