日本人が「元号」を使い始めた意外な理由
プレジデントオンライン / 2019年3月13日 9時15分
※本稿は、プレジデント書籍編集部著、宮瀧交二監修『元号と日本人』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■「元号」と「年号」は同じ意味
「元号と年号は何が違うのか?」という質問に、あなたは答えられるだろうか。
実は、基本的に「元号」と「年号」は同じ意味である。「年号」は、年数の上に良い漢字を複数冠して年を表す称号であり、本来「元号」も「年号」と言っていたのだが、改めた年号のはじめの年を、「昭和元年」「平成元年」のように、元という字を用いて表現するため、「年号」を「元号」とも言うようになったのである。
現在では、「明治」の改元で「一世一元の制」が導入され、昭和54年(1979年)の「元号法」の施行を経て「天皇一代につき、元号ひとつ」という方法が定まっている。
今の日本では「年号」と言うと、西暦のことを指すという方も少なくないだろう。実際に、「誕生日を年号から書いてください」と言われたとき、「1958年」と西暦で書く人もいれば、「昭和33年」と書く人もいるはずだ。私が教えている学生たちに書いてもらうと、「平成31年」よりも「2019年」と西暦で書く学生のほうが圧倒的に多かった。
そうなると不便なので、西暦も含めて指すときは一般的に「年号」でいいと思うが、漢字を冠する表記に限定するときには「元号」と使い分けたほうがわかりやすくなる。つまり、「年号」という範疇の中に「元号」があると理解して差し支えないだろう。
■江戸時代の人は時間をどう考えていたか
今を生きる日本人は、「元号」を使うことに何の違和感も持たないが、たとえば江戸時代、地方に住む農民たちは朝廷が決めた「元号」など、知らないままの人がほとんどだったとみられている。当然ながら、西暦など知る由もないだろう。
では、どうやって当時の人たちは時間軸を考えていたのか。おそらく、干支(かんし)を活用することが多かったと考えられる。
干支は、十干(じっかん)(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)と十二支(じゅうにし)(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)を組み合わせて、ひと回りすると60(還暦)を数えるものだ。「甲子(きのえね)」や「丙午(ひのえうま)」に、「戊辰(ぼしん)」「壬申(じんしん)」などは、一度は聞いたことがあるだろう。
江戸時代の平均寿命は30~40歳代だったとみられているため、干支のひと回りで60年とすると、数えやすかったのだろう。「丙午の年の生まれです」などという会話がされていたのかもしれない。
■時代や地域によって時間の表し方は変わる
あるいは、江戸に住む町民などは、「今の将軍様になってから何年」などと言っていたかもしれないし、「あの冷夏で不作だった年から何年」とか「あの地震から何年」など、さまざまな言い方で時間を表していたことが考えられる。このように、西暦や元号が一般的になる以前は、時間の表し方は時代や地域によってまちまちだったようである。
こうした言い方は、「阪神タイガースの日本一から34年」とか「第二次世界大戦終戦から74年」など、現在でもよく耳にする。何を軸と捉えて時間を表すかは千差万別で、「元号」もまた、こうした捉え方のひとつにすぎないとも言えるだろう。
■改元で「時間を操っていた」中国の皇帝
元号の歴史を紐解くと、その始まりは中国・漢の時代にさかのぼる。紀元前141年から紀元前87年まで皇帝の地位にあった武帝(ぶてい)が、即位の翌年(紀元前140年)を「建元(けんげん)元年」としたのが元号の最初であると、『漢書』(前漢について書かれた歴史書)に書かれている。
その武帝は皇帝になってから亡くなるまでの54年間に、11回も改元しているという。改元の理由は、さまざまな天変地異や、政局を転換したいときなどであったと考えられている。このように、改元することで時間を自由に操るのが皇帝の特権であったと言えるだろう。
特に唐の時代の中国は、中華思想が国の根幹となっていた。唐の皇帝が世界の中心であり、周辺のアジア諸国は中国に従っている国だという考え方である。
事実、朝貢外交と言い、中国に貢(みつぎ)を贈ることで自国の存在を認めてもらえるとして、邪馬台国の卑弥呼も魏(ぎ)に使いを出していたことは、あまりにも有名である。
卑弥呼の時代、倭国に元号はなかったので、卑弥呼は魏の元号を使っていたと考えられている。『魏志倭人伝』には「景初(けいしょ)3年」(239年)に、卑弥呼が魏に使いを送ったと記されている。卑弥呼が魏に出した文書にも、魏の元号である「景初」が使われていたのではないだろうか。
■日本だけが独自の元号を使い始めた
このように、中国に朝貢している国々は、基本的に中国の元号を使わざるを得なかった。ただ、例外と言えるのが厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)とそのグループだ。彼は朝貢外交を快く思っていなかったとみえて、できるだけ対等を装うようにしていたようだ。
さらに日本は、表向きは中国に仕えているように振る舞っていたが、実際には、そうするつもりはなく、奈良時代からは独自の元号を次々と使うようになっていた。日本のこうした動きを、中国皇帝は面白く思っていなかったのではないだろうか。
![](https://president.jp/mwimgs/6/8/-/img_6812dfc59beb7f1373016da88aae6aaf263200.jpg)
たとえば、7世紀の朝鮮半島では高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)の三国が分かれて戦っていた。やがて新羅が「白村江(はくすきのえ)の戦い」で百済と日本に勝利し、高句麗も滅ぼして、朝鮮半島を統一する。その新羅はかつては独自の元号を使っていたのだが、唐から「なぜ唐の元号を使わないのか?」と問い詰められてしまった。結局、新羅は忠告に従い、唐の年号を使うことになった。
その点、日本は島国で、中国とは海を隔てていたこともあり、すぐに襲われることもないと考えたのか、唐の年号を使わずに独自の元号を使い続けた。そういう意味では、中国の文化圏に入っている国の中でも、日本は例外だったのだ。
朝貢国として唐の元号を使わなければいけないという認識はあったと思うのだが、あえて使わなかったというのは、聖徳太子以来の自主独立の道を歩みたい、そういう国家としてのプライドがあったのではないだろうか。
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大東文化大学文学部歴史文化学科 教授
1961年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程から埼玉県立博物館主任学芸員を経て、現職。専門は、日本史・博物館学。博士(学術)。NHK「ブラタモリ(大宮編)」に出演。元号についての講演に多数登壇。
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(大東文化大学文学部歴史文化学科 教授 宮瀧 交二 写真=時事通信フォト)
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