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順風満帆"42歳商社マン"の確かな焦り

プレジデントオンライン / 2019年3月21日 11時15分

ナカジマ コンサルタンシー サービシズ会長 中島敬二氏

■定年後・3度目の駐印がきっかけに

私は60歳で住友商事を定年退社し、大阪で住友商事の関連会社であるクボタリースの社長を2年間務めた後、再び本社に呼び戻されました。そして、インドの関連会社に出向を要請されて、これが3度目のインド駐在となりました。

3年間のインド勤務と1年間のインド政府のアドバイザーを務めた後、当初は日本に戻る予定でした。ところが、この間にインドで金型製造会社を営んで資金難に陥っていた日本人経営者より、業務譲渡を打診されました。この経営者が親友だったこともあり、悩んだ末に顧客や設備を引き継ぐことを決めました。

日本で働いていた娘婿をインドに呼び、新会社を設立しました。その後幸いにも黒字経営となりましたが、この事業の将来性に不安を感じていた私は、今なら設備を売却することで投資金額を回収でき、多少の余剰資金を生み出せると考え、3年後に工場閉鎖を決めました。

次に設立したのはコンサルティング会社です。この業務は順調に発展し、累計で日本企業約40社、インド企業約25社と契約を結ぶことができました。いまは私の年齢を考慮し、お客様を絞り、他社では難しい私の経験が活かせる案件のみお引き受けしています。

インドでビジネスすることの大変さを再認識したのは、70歳のときです。デリー近郊のマネサールという日本企業の工業団地に日本食レストランを開業する計画を立てたのですが、アクシデントが続きました。

まずは開業前のトラブルです。建設中の新しいビルに入居を決めて厨房設備やテーブルなどの手配も済んでいたのに、不動産会社から突然、「建設資金不足で完成の目途が立たない」との通告を受けました。幸い、別の物件を好条件で借りることができて事なきを得ましたが、いきなり頓挫するところでした。

開業後も順風満帆とはいきませんでした。最初はお昼の弁当販売から始めましたが、初日に売れたのは5個。2日目に至ってはゼロです。すでに私は財産のほとんどを費やしており、このままいくと毎月50万ルピー(当時で約100万円)の赤字で、半年後には運転資金が尽きる計算でした。

(上)現在も会長を務める「ミサキホテル」のプールサイドで、インド人の幹部たちと。(下)幹部たちとホテル内で打ち合わせ。

売れない理由はすぐにわかりました。同地区で勤務されている日本人の多くは工場内の食堂でランチを取っておられたのです。これは完全に私の調査不足。かくなるうえは他地域に住む日本人に来てもらうしかないと戦略を切り替えて、知り合いの日系企業トップに営業電話をかけまくりました。商社マン時代を含め、電話をあれほど大量にかけたのは初めてでした。

結果、お客様は増えましたがまだまだ赤字が続きました。黒字化するために、夜にも営業しようとお酒販売のライセンスを取ろうとしたのですが、これが最大の難関でした。インドで迅速にライセンスを取るには、高額な賄賂を払うのが一般的です。しかし、私は賄賂の支払いを拒否し続けたため、難癖をつけられて取得までに8カ月もかかったのです。

その後はおかげさまで上り調子で、現在、レストランは5軒に増えました。さらに71歳のときに現地のホテルオーナーから頼まれたことをきっかけにホテル事業にも進出しました。ただ、外国人である私がインドで自らホテル業を行うのは難しく、現在はインド人パートナーに経営を任せ、いまは会長兼株主の立場で関わっています。

■定年後を考えた42歳の出来事

これまでとまったく異なる分野の飲食やホテル業でも何とかやってこられたのは、住友精神「熱心な素人は(怠惰な)玄人に勝る」という気持ちで事業展開したからでしょう。できない理由を探すのではなく、まずは走り出して問題が発生したらそのつど対応する。失敗したら諦めればいい。その覚悟でいたからこそ、70代にして新しいことに挑戦できたのです。

とはいえ、70代まで何も準備をしてこなかったわけではありません。

私が定年後を初めて意識したのは42歳のときです。新人時代の上司が定年のご挨拶にお越しになり、「楽しくて充実した会社生活だった。君も頑張れよ」と言って去っていきました。

ただ、そんな晴れやかな言葉とは裏腹に、元上司の背中には寂寥感が漂っていました。このとき私の頭の中に流れていたのは、「お正月には 凧あげて こまをまわして 遊びましょう」という「お正月」の歌です。定年を新年になぞらえると、元上司は、リタイア後の生活で楽しむ凧やこまを持っていないように思えたのです。

その上司は健康そのもので、お金にも不自由しておられず、夫婦仲がよく、家族にも恵まれています。足りないのは、定年後の生き甲斐だけ。そう感じた私は「いまから自分の凧とこま作りの準備をしよう」と考えました。

しかし、定年後に何をするかはすぐに決めませんでした。それは、20年先のことを決めてしまうと、自分の人生の選択肢を狭めることになると考えたからです。まず勉強して人間性を向上させれば、いずれ可能性のほうから転がりこんでくる。そう信じて、自分を磨くことにしました。

最初に変えたのは読書習慣です。それまでは自分の仕事に役立つビジネス書ばかりでしたが、仕事に関係のないジャンルの本も意識的に手に取り始めました。

人脈づくりにも精力的に取り組みました。48歳で本社の自動車部の部長になって仕事は一段と忙しくなりましたが、勉強会やセミナーの時間は確保しました。プレジデント誌主催のセミナーに出たこともあります。参加していたのは一流企業の部長クラスで、いまでもみなさん各分野で活躍されています。

勉強は、いまも毎日4~5時間続けています。40代の勉強は、将来よりよい人生を送るための手段でした。しかし、続けるうちに楽しくなり、いつのまにか目的に。私は2019年で75歳ですが、世の中は知らないことばかりです。勉強すればするほど、「もっと学ばねば」という気持ちになります。

働くのは何歳までと、期限を区切るつもりはありません。日本の会社がもっとインドに進出できるように支援を続けていきたいし、日本に帰ったら故郷の山梨県で寺小屋も開いてみたい。5年前から本格的にヨガを始めましたが、ヨガ教室を展開するのもいいでしょう。ヨガでは呼吸と動きが連動します。人生も同じです。息をしているかぎり、きっと動き続けるのではないでしょうか。

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中島敬二(なかじま・けいじ)
ナカジマ コンサルタンシー サービシズ会長
1944年生まれ。慶應義塾大学卒。68年住友商事入社。海外駐在はメキシコとインド。自動車部長、インド住友商事社長、本社の広報部長などを経て、2004年住友商事を定年退職。著書に『インドビジネス40年戦記』。在印日本人対象の「中島インド・人生塾」主宰。

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(ナカジマ コンサルタンシー サービシズ会長 中島 敬二 構成=村上 敬 編集=高嶋ちほ子、干川美奈子)

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