1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

4年で箱根ランナーを育てる帝京大の魔法

プレジデントオンライン / 2019年3月17日 11時15分

帝京大グラウンドで練習を見守る中野監督。高校で目立った実績を残していない選手を大学4年間でしっかり育て上げる育成法は“中野マジック”と称される(写真=ベースボール・マガジン社)

4年あれば、人間は変われる。帝京大学駅伝競走部の中野孝行監督は、目立った実績のない高校生を、大学4年間で「箱根駅伝」の上位走者に育ててきた。ほかの大学が「スター高校生」を招くのとは対照的だ。なぜそんなことが可能なのか。中野監督の「魔法」の原点とは――。

※本稿は、中野孝行『自分流 駅伝・帝京大の育成力』(ベースボール・マガジン社)刊行記念トークイベントの内容を再編集したものです。

■「私は選手たちを信じている」

帝京大学駅伝競走部の監督に就任したのは、2005年11月でした。翌秋、初めて箱根駅伝予選会の指揮をとった日のことは、今でもはっきりと覚えています。9位までが本大会に出場できるところ、12位で落選。喧騒から逃れるように大学に戻ると、ちょうど学園祭期間で、キャンパス内はにぎわっていました。

研究室のある建物の扉を開いたときです。歌手の絢香さんの「I believe」という曲が、私の耳に染み入るように入ってきました。あとで知ったのですが、学園祭で絢香さんのライブがあり、そのリハーサルをやっていたそうです。美しい歌声に思わず聴き入ってしまいましたが、それ以上に、歌詞が、箱根駅伝予選会で成果をあげられなかった私の心境にリンクしました。

「絶対に巻き返してみせる。私は選手たちを信じている」

この曲を聴くといまだに当時の悔しさがよみがえるのですが、愛車のハードディスクに曲を入れ、何かあったときには必ず聴いて、自分自身を奮い立たせています。曲の歌詞もそうですが、監督が選手に声をかけるときも、言葉選びが大切です。私が学生にかける言葉にはシナリオなどなく、特にレース中はたまたま出てきた言葉を伝えるのですが、いつも本を読みながら、自分でも気づかないうちにそれらを探しているのかもしれません。

■会社の倒産でチームは解散、コーチも解雇

スケートが盛んな北海道白糠町で生まれ育った私は、地元の高校を卒業後、国士舘大学に進学して、あこがれだった箱根駅伝を4年連続で走ることができました。勧誘してくれた実業団もありましたが、当時新興チームだった雪印乳業に入ることをどうしても諦めきれず、自ら手紙を送り、門をたたきました。

帝京大学駅伝競走部 中野孝行監督(撮影=和田悟志

入社から約10年間、競技を続けた後、1995年に縁あって実業団女子の三田工業のコーチに就きました。

指導者としての道を歩み始め、充実した日々でした。しかし、その日は突然やってきました。

忘れもしない、1998年8月10日のこと。北海道で合宿中だった私たちに、会社の上層部から連絡が入ったのです。

「あなたたちは9月いっぱいで解雇です」

会社の倒産による、非情な通告でした。だれも責めようがないのですが、あの時ばかりは海底に沈められたような気持ちになりました。

三田工業が拠点にしていた大阪から、雪印乳業時代に過ごした千葉に引っ越したものの、再就職先はすぐには決まりません。それでも、このままではいけないと思い立ち、船橋市の臨時職員に応募して、1999年4月付で採用されました。配属先は小学校の特別支援学級でした。

■生活のため特別支援学級の臨時職員に

児童のなかには行動の予測がつかない多動症の子がおり、雨の日でも外に出て泥遊びに夢中です。「汚れるから戻ってきなさい」と注意する先生もいましたが、私の上司に当たる先生は、「飽きたら帰ってきますから、やらせてください」とおっしゃって、気長に児童と接していました。その通りだなと、私は時間をかけて待つことを知りました。

当時の経験は、現在の学生指導に生きています。児童の泥遊びと同じように、学生たちがやってみたいことがあれば、どんどんやらせた方がいい。彼らは本当に価値のあることだと思うからやるのです。全部が全部うまくいかなくとも、彼らがそれで成長し、自分で考えられるようになればいい、というのが私の考えです。

55歳になる私も、いまだにやりたいことだらけです。子どもだな、と思われるかもしれませんが、何か新しいことをやりたい。常に前に進みたいと思うこと、そして思うだけではなく、行動に移すことが大切ではないでしょうか。

最近はいい子になりたい学生が多いのか、思うことや口に出すことは簡単でも、実際に行動に移すことはなかなかできない。自分から動いて、どんどんやんちゃになってくれていいのです。

■2年半、陸上競技から離れても、諦めなかった

失業中も、特別支援学級の臨時職員時代にも、陸上競技の大会に足を運ぶなどして情報をアップデートさせました。私にとっては、爪を磨いておく作業でした。そのかいがあったのか、実業団のNECから声がかかり、1999年8月に男子陸上競技部のコーチに採用されました。

刊行記念のトークイベントは親交のある作家・黒木亮氏との対談形式で開催。学校の先生や部下に指導する立場にあるビジネスパーソンなどが80人余り集まった(写真=ベースボール・マガジン社)

当時のNECは実績のあるチームで、やりがいを感じていました。ですが、思うようにいかないもので、2003年春に廃部を宣告されました。頑張っていても、どうにもならないことがある。私はまたしても、そう痛感させられたのです。

コーチの職を解かれたものの、会社には残ることになり、設立されたばかりの特例子会社で働き始めました。障がい者の雇用に配慮した企業でのジョブコーチで、特別支援学級で勤務した経験が思わぬ形で生きることとなりました。決して楽な仕事ではありませんでしたが、障がい者に教えると同時に、私も彼らから学ぶことがありました。

その間は約2年半、陸上競技の世界から離れていましたが、いずれ指導者に復帰したいという希望は捨てていませんでした。しかし、待っていて声がかかるものでもない。倒産や廃部を経験して、私自身も慎重になっていたのかもしれません。

常に爪を磨いていたものの、覚悟はしていました。「あと数カ月のうちに何もなかったら、この先も声がかかることはない」と……。そんなときに、帝京大学から駅伝競走部監督の打診があったのです。私は42歳で現職に就きました。

■「日本一諦めの悪いチーム」をつくるために

今だから言えますが、倒産も廃部も、私には必要な経験だったのでしょう。スムーズにいかないのが、私の人生なのかもしれません。逆境をはね返すことなどできない。現実を受け入れなくてはならないのです。自分ではどうすることもできないのだから、次のことを考えるしかない。箱根駅伝を走って下位に沈んだときもそうでしたが、このままでは終わらせたくないという気持ちは常にありました。人生というのは、一度何かが壊れても、また新しいものをつくることで成長する。私にとってはそんな時期だったのだと、今は感じます。

私は帝京大学駅伝競走部を、“日本一諦めの悪いチーム”にしたいと思って指導に当たってきました。そもそも私自身が現役時代は諦めの悪い選手でしたし、いまでは日本一諦めの悪い指導者だからです。

「日本一諦めの悪い」とは、かっこいい言葉ではないかもしれませんが、諦めなければ、困難にぶち当たったときでも道を切り開いてゆけるのですから。

■温泉旅館でバイトをしながら練習をさせる

毎年、夏に万座高原(群馬)で選抜合宿を行っています。合宿期間中は、ケガをした選手や、まだ力はないけれども気になる選手など、選抜メンバーから漏れた数人に「万座亭」という温泉旅館でアルバイトをさせています。もちろん、彼らはアルバイトだけでなく、練習もしています。

このアルバイトは、誰でも務まるわけではありません。アルバイトをするのが屈辱だと思ったり、命令だと感じたりしないよう、私は必ず意思確認をします。すると、ほとんどが前向きな返事をしてくれます。

彼らは帝京大学の学生ですが、万座亭の制服を着ている限りは従業員であり、責任感と緊張感を持って業務に従事しなくてはなりません。布団の上げ下ろしや食事の配膳で体力を使いますし、接客業ですからさまざまな気遣いも必要です。

休む暇もないし、睡眠時間も少ない。そんななかで練習もするのですから、自分で考えながら動くことが求められます。やり遂げたときには人間的に成長しますし、その経験は必ず競技に生きます。

アルバイト合宿を経て、チームの主力となって箱根駅伝を走った者、全日本クラスの大会で上位に入賞した者もいます。逆境を自分が強くなるために必要なものだととらえ、何とかして成果を残そうと努力すれば、大きく飛躍するのだと思います。

■もう一段上がるには“自分流”を見つけること

帝京大学の教育理念に“自分流”という言葉があります。神様はすべての人間に対して公平ではありません。同じ練習をして、みんなが強くなることはありえない。だからこそ、学生たちには“自分流”を見つけてほしいのです。

中野 孝行『自分流 駅伝・帝京大の育成力』(ベースボール・マガジン社)

学生たちに何から何まで指示をする、つまりレールを敷いてあげるのは楽なことです。指導者の敷いたレールに乗れば、大きな失敗もしないし、ある程度は目的地にたどり着けます。ですがここ数年、逆に学生たちの可能性を制限してしまっていないか、本当はもっとやりたいことがあるのではないか、と考えるようになりました。レールを敷いてあげれば、彼らの成長は「ある程度」まで。もう一段階上がるには、自分で考えたり工夫したりすることが大切なのだと感じています。

以前は「この練習をするように」と指示していましたが、今では練習メニューは私が立てるものの、設定タイムは「何秒でいく?」と学生たちに問うことが多くなりました。私が考えるタイムと彼らの答えとが合致したときには、大きな力を発揮します。学生に対しては「Teaching」よりも「Coaching」、すなわち導くこと、気づかせることを心がけています。

----------

中野孝行(なかの・たかゆき)
帝京大学駅伝競走部 監督
1963年生まれ。北海道出身。帝京大学スポーツ医科学センター専任講師。白糠高校卒業後、国士舘大学へ進学。箱根駅伝には4回出場。卒業後は実業団の雪印乳業に進み、選手として活躍。引退後は95年3月から98年まで三田工業女子陸上競技部コーチを務める。特別支援学校の教員を経て、99年8月から2003年にNEC陸上競技部コーチ。05年11月に帝京大学経済学部経済学科専任講師就任と同時に、駅伝競走部監督に。08年より12年連続でチームを箱根駅伝に導いている。今大会では総合5位。特に復路では青山学院大、東海大に続いて3位という成績を収めた。

----------

(帝京大学駅伝競走部 監督 中野 孝行 取材・構成=石井安里 写真=ベースボール・マガジン社、和田悟志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください