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軍事マニアがロンメル将軍を誤解する理由

プレジデントオンライン / 2019年3月28日 9時15分

2008年12月、ドイツ南部シュツットガルトにある歴史博物館で開催された「ロンメルの神話」展の様子。(写真=EPA/時事通信フォト)

あなたは事実を歪曲した「トンデモ歴史本」に騙されてはいないか。現代史家の大木毅氏は「日本では、“狭義の軍事史”は研究者が手を出さず、サブカルチャーでのみ扱われているため誤りが放置されている。今回、ドイツでもっとも有名な将軍であるロンメルの伝記を書くにあたり、いわゆるミリタリー本での扱いもチェックしたが、事実を歪曲したものが少なくない」と指摘する――。

■日本史なら訂正されるが、軍事史は歪曲が放置される

近年、ためにする「歴史書」が氾濫(はんらん)している。

「コミンテルンの陰謀」といったたぐい、あるいは『日本国紀』など、それらはあらかじめ決まった結論、それも、ほとんどは政治的な党派性に沿った結論に向けて、恣意的に史実を抜き出して立論するものだ。当然のことながら、歴史学の論証手順を無視したもので、いわゆる「トンデモ本」のたぐいである。

もっとも、さすがに自国史である日本史の分野では、かかる流れに対し、謬見(びゅうけん)を指摘、誤りを訂正して、前述したような書物の悪影響を食い止めようとする動きがみられる。国際日本文化研究センターの助教で、広く読まれた『応仁の乱』(中公新書)の著者である呉座勇一氏などは、その代表であろう。

ところが、外国史、なかんずく戦史・軍事史の理解となると、事態はより深刻である。ここでは、ドイツ軍事史を例として論じることにするが、敢えていうなら、1970年代から80年代のレベルにとどまった言説が、大手を振って、まかりとおっているのだ。

■アカデミズムでは軍事を扱わないという慣習

拙著『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)は、第二次世界大戦で輝かしい働きをみせながらも、ヒトラー暗殺計画に関与したかどで服毒自殺を強いられたエルヴィン・ロンメル元帥の小伝であり、その生涯をたどることを第一義とした。しかしながら、こうした伝記を書くことを思い立った動機の一つは、上記のような惨状にある。

これは、ある程度、日本の特殊事情がなせるわざだった。まず、アカデミズムでは軍事を扱わないという慣習がある。この不文律は、太平洋戦争に敗北したがための戦争・軍隊嫌悪から来たものと思われがちだが、必ずしもそうではないようだ。アカデミシャンのあいだには、戦争や軍事は本職の軍人が研究するものだという暗黙の了解があり、大学に国防学研究所(立命館大学)が設置されたのも、戦争中の一時期にすぎなかったのである。

■「旧軍将校」の空白を埋めた「軍事ライター」の質

このような「伝統」は戦後も長く続いたものの、平成に入ってからは「新しい軍事史」や「広義の軍事史」を唱える研究者たちが続々と現れ、多くの成果を上げている。とはいえ、こうした研究は、主として軍隊と社会の関わりに注目するもので、社会史や日常史の研究の延長線上にあるものだった。ゆえに、作戦・戦闘史、用兵思想といった「古い軍事史」、「狭義の軍事史」には手がつかぬままというのが、実情であった。

一時期まで、かような溝を埋めていたのは、本格的な語学教育を受けていた旧軍将校、あるいは、そうした人材で、戦後自衛隊に入った人々だった。彼らは、ドイツ軍事史の研究動向紹介において、顕著な活躍を示した。戦後、ドイツの将軍たちが広めた「参謀本部無謬論」やヒトラーへの敗戦責任の押しつけといった議論を輸入したという問題点はあったにせよ、理解の水準という点では、欧米のそれに比べても、さして遜色(そんしょく)はなかったのである。

しかし、ドイツ語と軍事を知悉(ちしつ)した元将校や古い世代の研究者が世を去るにつれて、欧米のドイツ軍事史研究が翻訳されたり、紹介されることも少なくなっていった。この空白を埋めたのは、軍事や歴史学について訓練を受けたわけではないけれども、戦史・軍事史に強い関心を抱いているライターだった。

■日本でのロンメル理解は1970年代の水準で停滞

好きこそものの上手なれで、彼らの記事や著作のなかには、高いレベルの記述がないわけではない。だが、研究史を押さえるという点への配慮は乏しく、最新の成果と、とうの昔に否定された議論が同居するようなものが少なくなかった。

拙著のテーマであるロンメル将軍についていえば、そうした事情がとりわけ悪影響をおよぼしていた。「名将ロンメル」か「総統に盲従した将軍」か、両極端の議論ばかり。ここ四十年ばかりのあいだに欧米で刊行された、おびただしいロンメル研究のほとんどが紹介されず(アメリカの軍事史家デニス・ショウォルターの『パットン対ロンメル』が翻訳されるという例外があったとはいえ)、日本でのロンメル理解は1970年代の水準で停滞していたのだ。

とりわけ問題だったのは、いまやネオ・ナチのイデオローグとなったイギリスのデイヴィッド・アーヴィングによるロンメル伝『狐の足跡』が翻訳され(原書は1977年出版、邦訳は1984年刊行)、一見、大部で詳細にみえることからか、日本限定であるけれども、スタンダードの位置を占めたことであろう。

■『狐の足跡』は歴史書として依拠できるものではない

実のところ、拙著でも検討した通り、今日では『狐の足跡』には、恣意的引用や歪曲があり、とうてい歴史書として依拠できるものではないということがあきらかになっている。ところが、日本のロンメルに関するミリタリー雑誌の記事や通俗的な読み物では、なお『狐の足跡』に依拠した記述が少なくない。

たとえば、ある日本のライターの著作では、ロンメルの未亡人ルチー=マリアと息子のマンフレートが『狐の足跡』に異論を唱えたり、抗議していない以上、資料として信頼できるとされている。強弁であり、事実の歪曲でもある。

まず、ルチー=マリアは1971年に死去しているのだから、1977年に出版された『狐の足跡』をチェックすることは不可能だったのである。そもそも、アーヴィング自身、同書のなかで「ロンメル夫人とは生前、二回会って話をしたことがある」と記し、『狐の足跡』刊行以前に彼女が死去したことを示しているのだ。マンフレートもまた、西ドイツ(当時)の週刊誌『デア・シュピーゲル』1978年8月28日号(ネット上で閲覧できる)で、ロンメルはヒトラー暗殺計画を知らなかったとしたアーヴィングの主張に異議を唱えている。

このライターは、ドイツ語も理解するし、現代の研究にはネットの活用が不可欠だと称しているので、こうした不都合な事実を知らなかった、調べられなかったとする言い訳は通用しまい。

■擬史に対して獅子奮迅していた呉座勇一氏の姿勢

いずれにせよ、この『狐の足跡』に多くを頼ったロンメル伝は、アーヴィングによる事実の歪曲を、そのまま日本に広めることになった。『狐の足跡』の「嘘」を逐一指摘した研究書が、当時すでにドイツで出版されていたのだが、それらを参照した形跡はない。何故、そこまでして、アーヴィングを擁護しなければならなかったのか、不可解なことではあるけれども、あるいは、一種の「歴史修正主義」に与(くみ)するがゆえのことだったのかもしれない。

大木毅『「砂漠の狐」ロンメル ヒトラーの将軍の栄光と悲惨』(角川新書)

むろん、これは極端な例ではあろう。しかし、アカデミシャンが「狭義の軍事史」に手を出さないがために、サブカルチャーでのみ扱われ、結果として、ロンメル、ひいてはドイツ軍事史に関するゆがんだ理解が広められているという傾向を象徴していると思われる。

拙著『「砂漠の狐」ロンメル』を執筆した理由のなかには、かかる潮流に一石を投じたいということがあった。もっとも、本書に着手する以前は、この種の毎月のように発表される言説に対処するのは、賽(さい)の河原の石積みといった感があり、しょせんは徒労ではないかという「敗北主義」に傾いていたことは否(いな)めない。

しかし、前出の呉座氏が、筆者よりずっと年若であるにもかかわらず、擬史に対して獅子奮迅されているのをみて、背中を押されたしだいだ。ロンメルやドイツ軍事史といった、限られた分野であるとはいえ、拙著が、より正確な歴史の理解にいくばくなりと貢献することができるのなら、筆者としては、何よりの喜びである。

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大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。2016年より陸上自衛隊幹部学校(現陸上自衛隊教育訓練研究本部)講師。著書多数。

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(現代史家 大木 毅 写真=EPA/時事通信フォト)

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