1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

確実に"パパすごい"と言わせる2つの方法

プレジデントオンライン / 2019年3月27日 9時15分

わが子の尊敬を得られる方法は2つ。「できる」と「知っている」だ――。(※写真はイメージです。写真=iStock.com/RichVintage)

どうすればわが子の尊敬を得られるのか。空手道場を主宰し、僧侶、保護司としても活動する作家の向谷匡史氏は、「自分の得意分野で『お父さん、すごい』を見せればよい。得意なことが何もないというなら、歴史の話がイチオシだ」という――。

※本稿は、向谷匡史『最強の「お父さん道」』(新泉社)の一部を抜粋・再編集したものです。

■「言うことをきかない」と嘆く前に

お父さんに対する尊敬の念があるかどうか、しつけも子育てもこれが大前提になる。尊敬という言葉の意味は子どもには明確にはわからないだろうが、「ボクのパパはすごい!」という思いがなければ、お父さんの言うことに素直に耳を貸さない。これは年齢や性別、世代を問わず、普遍の人間関係術であることは、お父さん方は百も承知だろう。

「うちの子は言うことをきかない」と嘆いたり怒ったりする前に、「自分は子どもに尊敬されているだろうか」ということをまず、我が身に問うべきである。極論すれば、お父さんに対する尊敬を抜きにして、しつけも子育ても成立しないのだ。

では、どうすればわが子の尊敬を得られるか。方法は2つ。「できる」と「知っている」だ。

子どもたちは好奇心が旺盛で、見るもの聞くものすべてに興味を示す。「なぜ」「どうして」「どうやればできるのか」という意識で常に物事を見ていることから、私は「訊く坊」「訊く子」と呼んでいるが、言い換えれば、「なぜ」「どうして」「どうやれば」に答えてやれば、「パパ、すごい!」と目を輝かせることになるのだ。

私が道場で指導するとき、幼児や低学年ではできないことをわざと実演して見せる。

「いいかい、試合で攻めるときはスピードと正確さが大事なんだ。たとえば、こう構えていて……」

解説をしながら、子どもたちの前で連続技を瞬時に繰り出して見せれば、

「早い!」
「すごい!」

と感嘆する。

実際はすごくもなんともない。幼い子たちの目からすれば「すごい」になるだけで、中・高生あたりが見れば「館長も歳だな」といったレベルだが、子どもたちは私のことを「できる」と認識する。パンチングミットを激しく叩いて見せて、「できる」のデモンストレーションをやることもある。

「このとき注意することは、しっかり脇を締めることで……」

解説はするが、子どもたちに理解させようとは思っていない。

「館長、すごい!」

と認識させるのが目的であるからだ。この時点で子どもたちは私の掌中となり、指導はより容易になる。

お父さんにとっても、この手法は有効だ。私の場合は、空手という技術を伴う分野での関係なので、「やって見せる」は不可欠としても、家庭においてはそれにこだわる必要はまったくない。父子の関係は広範囲であるため、自分の得意分野で「お父さん、すごい」を見せればよい。従事する仕事について話して聞かせ、そこから世のなかの仕組みに展開するのもいい。好奇心旺盛な子どもは目を輝かせるだろうし、この目の輝きがすなわち、「お父さん、すごい」となるのだ。

仕事について語るべきことがないというなら、偉人たちの伝記を読み聞かせることを勧める。子どもと一緒に読みながら、偉人の生き方や努力について解説してやる。解説は語り尽くされた定番でよい。それを耳にする子どもは、「お父さんの解説」 として聞くため、

「パパは何だって知っている!」
「パパ、すごい!」

ということになる。そして、道徳を語る人の人格が高潔に見えるように、偉人のことを語るお父さんもまた、偉人同様、素晴らしい人に見えてくるのだ。

むろん伝記にかぎらず、釣りでも、キャッチボールでも、手品でも、得意なことがあればそれを用いて「すごい!」を演出するのもいいだろう。

だが、得意なことが何もないと言うなら、歴史の話がイチオシだ。専門的な知識は不要で、中学・高校で習う日本史や世界史程度で充分である。源氏と平家の物語でもいいし、アメリカの独立戦争の話でもいい。第二次世界大戦の話だって、もちろんかまわない。子どもの知らないことを話して聞かせるのだから、知っている範囲でいいのだ。子どもは想像力がかき立てられ、「お父さんの話」に眼を輝かせることだろう。

■差し伸べたい手をあえて引っ込める

私は原則として、道場内で親の見学はしないようにしてもらっている。子どもの人数のわりには手狭ということもあるが、親がそばにいると小さい子は甘えてしまうため、自立の障壁になるからだ。

希望があれば見学はもちろんかまわないのだが、

「ボク、疲れた」

と言って母親にすがりついていく子もいたし、

「ちゃんとやりなさい!」

と思わずわが子を叱咤したお母さんもいたりで、子どもの成長にはマイナスになると判断し、入会時にこのことを説明して納得してもらっている。

小学校の中・高学年ともなれば見学を希望する親もさすがにいないが、それでもたまにはいる。すると子どもは親の手前、いい子ぶって素の自分を隠してしまう。私は空手の稽古を通して、これからの人生に資する「何か」を個々人が見つけることを指導理念としているので、これでは空手を習う意味がない。体育館を使用する団体は、場所も広く開放的なこともあって親は自由に見学しているケースもあるが、私の道場はそんな理由から親の見学は断っている。

余談になるが、私の道場には道場訓といったものはない。なぜなら、空手を習わせる親御さんの動機も目的も十人十色であるからだ。精神的に強くしたいと願う親もいれば、健康のためと考える親もいる。各種大会で活躍させたいと将来に夢を描いている親もいる。親の思惑とは別に、子どもによって身体能力も違えば、目指すものも違う。

だから僧籍にもある私は、釈迦に倣(なら)って対機説法──相手に応じて最善と思われる方法で指導する。精神力を強くすることを目的とした子であればそちらに力を入れる。選手として活躍することを目指しているなら、技量を中心に指導する。そんなことから画一的な道場訓はあえてつくらず、前述のように、個々人が人生に資する何かをつかんでくれれば、それでいいと考えるのだ。

■「教えすぎる」お父さんの罪

指導で留意するのは子どもたちとの“間合い”である。これを常に考えて接し、指導しているのだが、たまに熱心なお父さんがいて、自宅でわが子にアドバイスする。

向谷 匡史『子どもが自慢したいパパになる 最強の「お父さん道」』(新泉社)

「もっとステップを使わなければだめだ」
「蹴りを練習しろ」
「声を出せ」

空手雑誌やユーチューブで研究しているのだろう。「パパにこう言われたんだ」と得意になって私に話してくれるので、すぐにわかる。熱心なのはたいへん結構だが、こうしたお父さんは決定的な過ちを犯している。オーバーティーチング──教えすぎるのだ。

幼児であっても、壁を1つずつ越えることで上達していく。指導とは、子どもたちの前に大小さまざまな壁を設定し、それを自分の力で越えさせることにある。だから教えすぎない。教えてやりたいけど我慢する。

幼児であれば、「どうしたらパンチが早くなるかな」とテーマを与えてやり、自分で考えさせる。高学年であれば「フェイントから入れ!」と叱責する。

「どうやってフェイントかけていいかわかりません」
「考えろ!」

と突っぱね、自分で模索させる。

中学生以上になると、もっと突き放す。

「質問するときは自分で考え、答えを見つけ、“こう思うんですが、これでいいでしょうか”という訊き方をしろ」

考えること、考えさせることが大事で、考える力を身につけることを成長と言うのだ。だからノット・オーバーティーチング──「教えすぎないこと」が指導のポイントなのだが、研究熱心なお父さんはそこに気がつかないというわけである。

■差し出したい杖を我慢することが愛

「馬は水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない」

とは、スポーツや勉強の指導法を語るときに用いられる言葉だ。かつて私もそう思っていた。結局、子どものヤル気に帰すというわけだ。

だが、いまは違う。馬を水辺に連れて行って飲ませようとするのではなく、

「馬が水を飲みたくなってから水辺に連れて行く」

と考えるのだ。

馬のノドが渇いていないのであれば、水辺につれて行くのではなく、野原を走らせる。ノドが渇くまで、水が欲しくなるまでひたすら走らせる。指導とは、こういうことを言うのではないだろうか。先を急がず、決して教えすぎず、時到るまで、指導者の辛抱と根気こそ大事というわけだ。

しつけも子育ても、それと同じだ。人生の先達としてのお父さんは、わが子可愛さで、いろんなことを教えたくなる。素直な子に育つように、みんなに可愛がられる子に育つように、勉強ができるように、そして健康で、自主性があって、親切で、やさしくて、道を踏み外さず、しかし芯の強い子になってほしいと、盛りだくさんの願いと期待がある。

だから、教えすぎる。「ありがとうを言いなさい」「悪いことをしたらあやまりなさい」という人間としての基本から始まって、「返事はハッキリ」「人には挨拶をしなさい」「ゲームは時間を決めて」「時間割りの用意は前夜」「予習復習は欠かさないこと」……。子どもは考える暇(いとま)すらない。それでいいのだろうか?

「考える」という訓練をさせることこそ、お父さんの役目だと思うのだ。「転ばぬ先の杖」は決して愛情ではない。転ぶときは転がせばよい。転んでヒザを擦りむくことで子どもは学習していく。

お父さんの愛情は杖を差し出すことでも、転んだわが子を抱え起こすことでもない。谷底へ落ちないように注意深く見守りながら、差し出したい杖をぐっと我慢する、その忍耐にあるのだ。

----------

向谷 匡史(むかいだに・ただし)
作家、日本空手道「昇空館」館長
1950年、広島県呉市出身。拓殖大学卒業後、週刊誌記者などを経て作家に。浄土真宗本願寺派僧侶。保護司、日本空手道「昇空館」館長として、青少年の育成にあたる。著書に『考える力を育てる 子どもの「なぜ」の答え方』(左右社)、『浄土真宗ではなぜ「清めの塩」を出さないのか』(青春出版社)、『親鸞の言葉 明日を生きる勇気』(河出書房新社)、『角栄と進次郎 人たらしの遺伝子』(徳間書店)など多数。

----------

(作家/浄土真宗本願寺派僧侶/日本空手道「昇空館」館長 向谷 匡史 写真=iStock.com)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください