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退位した天皇が仏教に帰依し出家した理由

プレジデントオンライン / 2019年4月7日 11時15分

新元号「令和」を発表=2019年4月2日(写真=アフロ)

5月1日、令和への改元と同時に今上天皇は退位し上皇(太上天皇)となる。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「歴史上の上皇は仏教に帰依し、出家するケースが多かった。天皇家(あるいは元号)と仏教とは切っても切れない関係性にあり、江戸時代までその慣習は続いた。むしろ、政府が神仏分離政策を推し進めた明治以降、現在までの天皇家のありようのほうが“特殊な状態”と言える」という――。

■5月1日、令和への改元で今上天皇は「上皇」となる

新元号「令和」が発表された。

テレビ・新聞での識者のコメントや、ネット評価はおおむね、良好のようである。「Yahoo! ニュース(みんなの意見)」では元号発表後、丸1日が経過した4月2日午前11時半の段階で「いいと思う」と回答した割合が64%。逆に「あまりいいと思わない」が28%。「わからない/どちらとも言えない」が8%であった(投票総数約21万2000票)。

実は私は、「平成」が発表された翌日の朝日新聞(1989年1月8日朝刊)を取り置いている。当時、中学生だった私は、重大ニュースの新聞を収集する癖があった。

平成が決まった直後の号外と、翌日の朝日新聞。撮影=鵜飼秀徳

社会面を開けると、「新元号こう思う」という見出しがある。そこでは各界の著名人が、「平成」について感想を述べている。ざっと読んでいくと、批判的な意見の識者が多いようであった。興味深いので少し紹介しよう。

■「令和」のネット評価は良好だが「平成」は散々だった

「平成の典拠のうち、私なら、『内平らかに外成る』の史記より、『地平らかに天成る』の書経の方を取りたい。軍縮を実現して、まず地球に平和を」(作家・小松左京氏)

「音の響きとしては、雄大さや鋭さに欠ける。鼻が低い、という感じだね。平和の願いも込めたいが、昭和に『和』が使われており、仕方なく『平』の字から文献を探しんじゃないかな」(国語学会評議員・大野晋氏)

「明治、大正、昭和に比べてえらい古風な感じですな。ことさら世の中を平らにせないかんという意識が過剰では」(落語家・露の五郎氏)

「ぼく自身はほとんど西暦しか使っていないので、どうでもいいという感じです。元号にあまりとらわれていると、徳川家康がシェイクスピアと同じ年に死んだなんて感覚が、いつまでも身につかないんじゃないですか」(編集者・天野祐吉氏)

「最初はぴんとこなかったのですが、字をよくみると、今の世の中のデコボコをなくするような気もしていいんじゃないですか。仕事に直接影響はないと思います」(演歌歌手・坂本冬美氏)

「ゆっくり発音しないと『へえせえ』と言ってしまうのが少し気がかりだが、大した問題ではないでしょう」(日本かな書道会顧問・宮本顕一氏)

各人、なかなか自由な発言で、いい感じにひねくれている。コメントを採用する側の新聞社も今以上に踏み込んだ紙面づくりをしていたようだ。

さておき、本題に入ろう。

今回は、仏教と元号、仏教と天皇との関係性について述べたい。

■興味深い「仏教と元号」「仏教と天皇」との密接な関係

実は、お寺(日本仏教)にとって、元号は欠かせない存在だ。なぜなら、お墓、戒名を記す位牌、過去帳など「死者の記録」は元号で記されるのが通例であるからだ。

お墓の刻まれる命日は元号表記が通例だ(京都市東山区の大谷祖廟にて)。撮影=鵜飼秀徳

「お墓に彫る享年は、西暦のほうがわかりやすいでしょ」という人がいるかもしれない。合理的な考え方でいえば、回忌法要の年の計算がしやすい西暦表記のほうが、お寺にとってはいいに決まっている。しかし、西暦はイエス・キリストが誕生したとされる年を元年とする。なので、仏教に関係する墓や戒名に、西暦を採用するのはちょっと変であろう。

元号と仏教が密接だった証拠に、名刹(めいさつ)の名称に注目したい。元号が寺号に転用されたケースは少なくない。延暦寺(えんりゃくじ)は延暦7年(788年)に開山した寺院だ。同様に仁和4年(888年)には仁和寺が開かれた。元号を寺の名称に使った例は他にも建仁寺(けんにんじ)、永観堂など、かなりある。

さすがに、「明治寺」「大正寺」「昭和寺」「平成寺」などはないだろうと思っていたが、ネットで検索しその所在地などを確かめると、それぞれ本当に存在することがわかった。きっと「令和寺」もそのうちできるのだろう。

■「明治」はくじ引きで決められた

元号制定過程に目を転じれば、「明治」のケースが興味深い。出典は古代中国の易経(占いの体系書)である。「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」(聖人が南に向いて政治を聞けば、天下は明るい方向に向かって治る)から、引用された。

明治が占いに基づく元号であることもさることながら、複数の元号候補の中から、くじ引きで決めたというエピソードが伝わる。明治神宮のホームページにその詳細が書かれているので紹介しよう。

「明治改元にあたっては、学者の松平春嶽(慶永)がいくつかの元号から選び、それを慶応四年(明治元年)九月七日の夜、宮中賢所(かしどころ)において、その選ばれた元号の候補の中から、明治天皇御自ら、くじを引いて御選出されました」

当時は、それまで混じりあっていた神道と仏教とを切り離す「神仏分離政策」の渦中であった。明治の元号制定では、維新政府が王政復古、祭政一致を国民に強く印象づけるために、あえて「神託」という呪術的な形態をとったとの見方ができるだろう。

■歴代天皇125人で上皇になったのは60人、出家するケースも多い

天皇家と仏教の関連性についても述べたい。

5月、令和への改元と同時に、今上天皇は退位し、上皇(太上天皇)となる。上皇の誕生は江戸時代の光格上皇以来、およそ200年ぶりである。

上皇の最初は、女帝の第35代皇極天皇が譲位した時と言われている。正式に上皇という称号が使われたのは、第41代持統天皇の時だ。歴代天皇125人のうち上皇になったのは60人と半数近くに及ぶ(神話上の天皇を除けば、過半数が上皇になっている)。

かつての上皇は、仏教に帰依し、出家するケースがしばしばであった。出家した上皇は法皇と呼ばれた。長年、皇室と仏教は密接な関係で結ばれており、江戸時代までその慣習は続く。歴代法皇の数は35人。現在では、上皇が法皇になるなどは、あり得ないことであろう。だが、歴史を紐解けば、それもさほど不思議ではないことがわかる。

7世紀ごろまで、天皇は「スメラミコト(統べる偉大な人)」と呼ばれ、崇められた宗教的統治者であった。外来宗教である仏教を取り入れ、自ら帰依した最初が、第33代推古天皇時代だ。その後、天皇自らが僧侶になるという不思議な宗教混淆形態をたどる。

門跡寺院の大覚寺(庭園)と曼殊院。撮影=鵜飼秀徳

天皇が実際に出家(受戒)した最初は、第45代聖武天皇と言われる。聖武天皇は全国に、国分寺・国分尼寺を造ったり、東大寺の大仏建立を推し進めたりした天皇として教科書にも載っている。

法皇の名で呼ばれた最初は第59代宇多天皇。宇多天皇は、東寺での受戒の儀式を経て、仁和寺に入って住職となった。以来、仁和寺は皇族が住職を務める格式の高い門跡寺院として繁栄していく。仁和寺は「御室御所」とも呼ばれるようになった。

門跡寺院の他には、平安時代に嵯峨天皇の離宮として建立され、「嵯峨御所」と呼ばれた大覚寺(京都市右京区)や、鳥羽法皇ゆかりの青蓮院(同東山区)、後白河法皇が門主を務めた妙法院(同東山区)など全国に30カ寺ほどある。

■明治以前は天皇家と仏教には強い関連性があった

さらに、京都には「天皇家の菩提寺」がある。泉涌寺(同東山区)である。泉涌寺には、江戸時代までの天皇の墓がある。

京都市・伏見にある明治天皇陵(伏見桃山陵)では、来月の代替わりに備えて儀式の準備が進む(3月撮影)。撮影=鵜飼秀徳

泉涌寺と皇室との関係は13世紀にさかのぼる。四条天皇が12歳で崩御した際、泉涌寺で葬儀が実施された。南北朝時代以降は9代続けて天皇の火葬所となる。すると泉涌寺は「皇室の御寺」との位置付けとなり、江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇、そしてその皇后はすべて泉涌寺の月輪陵(もしくは後月輪陵)と呼ばれる区画に埋葬されるようになっていく。その数は、25陵と5灰塚、9墓(親王らの墓)に及んだ。

泉涌寺の陵墓は、古代の大王(おおきみ)や明治天皇以降の巨大陵墓と比べて、かなり質素で小規模なもの。意匠は仏式の九重の石塔だ。泉涌寺では、歴代天皇の位牌を安置し、朝夕、同寺の僧侶によって、読経がなされている。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという。

以上、長い歴史を俯瞰すれば天皇家(あるいは元号)と仏教とは切っても切れない関係性にあった。むしろ、明治以降現在までの天皇家のありようのほうが「特殊な状態」と言えるだろう。

(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳 写真=アフロ 撮影=鵜飼秀徳)

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