物事を「伝える」ための文章は静かである
プレジデントオンライン / 2019年4月6日 11時15分
■会った後に「帰り道の幸せ感」を抱かせる人
ジャーナリストを志す人に、どんな本を勧めればいいか。ノンフィクション作家の後藤正治さんは「本田靖春の作品を勧めたいですね」と話す。
後藤正治さんは新作『拗ね者たらん』で、2004年に亡くなった本田靖春の「人」と「作品」を追った。生前に二度、会っている。初めての邂逅は30代で最初の単行本を上梓したとき。糖尿病を患う本田はすでに片目の視力を失っていたが、「僕は飲めないけれど」と、ビールを差し出してくれたという。
「私が『そう言わずに一杯ぜひ』とすすめたら、止められている酒を飲みかねない雰囲気でしてね。無頼派で博打好き、決して行儀正しくはない。でも、会った後に『帰り道の幸せ感』と表現したくなる気持ちを抱かせる人でした」
「取材をしていると、ときおり『今日は良い話を聞けたな』と思わせる魅力的な人に出会うことがあります。本田さんはまさにそういう人。話しながら何か温かいものが伝わってきて、否応なく人をほれさせてしまう魅力を感じました。以来、いつか本田さんのことを書いてみたい、という思いがあったんです」
■自らも「売血」を行って、献血制度のきっかけを作った
1955年に読売新聞に入社した本田靖春は、社会部のエース記者として活躍した。とりわけ有名な仕事として語り継がれるのは、1964年の「黄色い血」追放キャンペーンの紙面での展開だ。
当時の日本では輸血用の血液の買い取りが行われており、売血を繰り返し行う者の赤血球の少ない血液は黄色かった。そうした血液は肝炎を引き起こす可能性があるだけではなく、輸血の効果もないため、大きな社会問題となっていた。
彼はこの問題に記者として熱心に取り組み、自らも売血を行っての調査報道で献血制度導入のきっかけを作った。その後はニューヨーク支局に勤務を経て1971年に読売新聞を退社。フリーのノンフィクション作家として数々の作品を残していくことになる。
代表作としては、『不当逮捕』と『誘拐』の2冊を挙げる人が多い。後藤さんもその一人だ。前者は戦後すぐの時代に数々のスクープを報じ、「天才」と呼ばれた読売新聞の記者・立松和博が、政治家の売春汚職報道をめぐって逮捕された顛末を描いた作品。後者は1963年の「吉展ちゃん事件」をテーマとしたもので、犯人の複雑な生い立ちやそれを追う刑事の人物像、当時の社会や組織のありさまを多面的に描いた傑作だ。
■引っかかるようなところが全くない自然な文章
「本田作品」の魅力について、後藤さんはこう話す。
「読んでいて非常に面白いのは『警察(サツ)回り』ですね。昭和30年代、本田さんと同じく警察回りだった若い記者たちの逸話と、彼らがたまり場としていたバーのマダムの半生を描いたものです。戦後の渋谷を牛耳っていた安藤組の幹部・花形敬を描いた評伝『疵(きず)』なども、たいへんに魅力的な作品でしょう。しかし、本田さんの作品の中で圧倒的に優れているのは、やはり『不当逮捕』と『誘拐』です」
「今回、本田さんのことを書くにあたって、あらためて作品を読み直していて気付いたことがありました。それは彼が本当に自然な文章を書くこと。決して美文家ではないのですが、読んでいて引っかかるようなところが全くない。その極めて巧妙な表現力にあらためて感銘を受けたんです」
例えば、『不当逮捕』の中では、スター記者の立松が次のように描かれる。
彼がそうしたときにのぞかせる心の翳りは、生まれつきからくるものなのか、あるいは、育った環境に由来するのか、それとも、戦争体験が落とした影であるのか、私にはいずれともいえない。ただ、職場で称賛や驚嘆や憧憬を以て語られる立松和博は、多分に本人自身によって演出されたものであり、彼のたぐいまれな人づき合いのよさは、むしろ、深い人間不信から出ているのではないかと思うときがあった。(『不当逮捕』より)
■無頼の極みのような男を、文学的な筆致で描く
「本田さんの最も画期的な表現は、やはりこうした立松を描いている部分だと思います。無頼の極みのような男である立松の人物描写を、このように文学的な筆致で描いた。淡々としていながら、あるいは、淡々としているからこそ伝わる文章、と言うのでしょうか。書かれた側もこういうふうに書かれたら、もう降参するしかない。私はノンフィクションの書き手として、物事を『伝える』ための文章とは本来、このように静かであってこそ効果的なのだ、ということを彼の作品から学んだと感じています」
「もうひとつの魅力は対象を『複眼』で見つめる姿勢でしょう。悪い奴を糾弾したり、強い者をたたえるだけであったりするだけの一面的な作品は、時間の経過とともに消えていくものです。トータルに人を描きたいと希求する作品が、時代を経ても生き残っていくことを彼の作品は教えてくれる」
「『誘拐』がまさしくそうなのですが、本田さんの作品は被害者、加害者、警察などそれぞれの視点から、一つの事件のさまざまな面に光を当てていくところに特徴があります。常にさまざまな面から物事を見る。一度止まって見つめ直してみる。考え直してみる――そうした作業を必死にされていた人だと思いますね」
■なぜ本田靖春は一貫して「戦後」をテーマにしていたか
後藤さんは「本田さんが一貫して描いてきたものが『戦後』だった」と指摘する。『拗ね者たらん』ではそれを〈戦後の原液〉と呼び、〈本田作品を読み込むなかで、このような戦後的精神は時代を超えて継承されるに足るものと思えた〉と書いた。
「本田さんの『戦後』というテーマは経済成長以前、昭和20年代から30年代のことです。当時の日本では、傷病兵が町で物乞いをしている姿もよく見かけました。生々しい戦争の傷跡や貧困が目に見える形で残り、社会全体が山のように問題を抱えていたわけです。朝鮮からの引き揚げ者だった本田さんにとっては、よりその問題が際立って見えたことでしょう」
「彼の作品を順々に読んでいくと、戦後の持っていた自由や平和、民主主義といった理念への思いが、彼の裡(うち)で年をとるに連れてより強くなっていくように見えます。おそらく、彼は読売を辞めて作家になったとき、自らの作家たる所以を問い直したに違いありません。そのとき、自分の中にあった揺るぎないものが『戦後』だった。彼が作品を通して描いたそんな『良き戦後』への思いは、それが遠くなり、失われた豊かな時代にこそ、あらためて見直される価値があると私は思っています」
■常に「これでいいのか」と問いを投げ返していた
後藤さんは「本田さんの作品は、決して多く読者を得てきたわけではない」と続ける。だが、一方でその作品には「時代をまたいでいく力が間違いなくある」と言った。
「この本(『拗ね者たらん』)を書いた後、30代や40代の新聞記者や放送記者に『実は自分も本田さんのファンなんです』と言われることがあるんです。彼らが本田さんの作品に引き付けられるのは、そこにジャーナリズムの大前提、権力を監視するジャーナリズムのイロハがあるからでもあるでしょう」
「本田さんは作家であると同時に、生涯“社会部記者”でもあった。“社会の木鐸(ぼくたく)”であろうとしたわけです。社会に対して、常に『これでいいのか』と問いを投げ返していく。そんなジャーナリズムの役割を全うしようとする姿勢は一貫していました」
「かつては確かにあったそのジャーナリズムの大前提が崩れかけているように感じられる時代だからこそ、本田さんの作品には読まれ直される価値があるのではないでしょうか。例えば、この社会に問題意識を持った記者や書き手が何かを書こうとしたとき、本棚を見渡すと本田靖春の作品がある。彼の作品はそのように、遠くに輝く星の一つであり続けていくと私は思っています」
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ノンフィクション作家
1946年、京都市に生まれる。『遠いリング』で講談社ノンフィクション賞、『リターンマッチ』で大宅壮一ノンフィクション賞、『清冽』で桑原武夫学芸賞受賞。近著に『天人』『奇蹟の画家』(ともに講談社文庫)、『言葉を旅する』(潮出版社)、『後藤正治ノンフィクション集』(全10巻、ブレーンセンター)など。
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ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『こんな家に住んできた 17人の越境者たち』(文藝春秋)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。
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(ノンフィクション作家 稲泉 連 撮影=プレジデントオンライン編集部)
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