普段の明治天皇は「京都弁」を話していた
プレジデントオンライン / 2019年4月23日 9時15分
※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。
■宮中改革を受け入れ質実剛健な気風に親しむ
記録こそ少ないものの、若き日の明治天皇の私的な言葉が残っていないわけではない。
天皇は1870年代の前半、つまり10代後半から20歳ころまでの時期に、士族出身の高島鞆之助(とものすけ)侍従と剣道をして、
と叫びながら、木刀でなんども高島を叩いたことがあった(渡辺幾治郎『明治天皇』)。北朝の子孫である天皇が、南朝の功臣である楠木正成に成り代わっていた。大義名分にうるさいものが聞けば、卒倒するかもしれない。私的でなければお目にかかれないたぐいの言葉だった。
東京に移った天皇は、たくましく成長しつつあった。みやびかもしれないが、なよなよとしていて、ひきこもりがちな公家の文化は、近代国家の君主にふさわしくなかった。天皇は、宮中改革を受け入れ、白粧をやめ、髷を切り、代わりに武道をたしなみ、馬に乗り、お気に入りの侍臣などを集めて宴会を開き、勇壮な物語を肴に大酒を飲むなど、質実剛健な気風に親しむようになった。それが言葉の端にもあらわれたのである。
■私的な空間では残っていた「京都弁」
とはいえ、15歳まで京都で育った天皇には、それでも公家の文化が色濃く残っていた。その象徴が、京都弁だった。公式記録の『明治天皇紀』では文語体に直されているものの、天皇の私的な言葉は訛っていた。とくに奥(天皇の私的な生活空間)ではそうだった。
側室のひとり、柳原愛子(なるこ・大正天皇の生母)は証言する。天皇は夏でも冬でも、政務では冬用の服を着用していた。したがって炎暑の日には汗がものすごいことになった。もっと涼しい服を着ればいいものを、天皇はこういって改めようとしなかった。
「御真影」の厳しいイメージには似つかわしくないが、現実にはこんな柔らかい言葉も話していたのだ。
天皇はまた能が好きだった。英照皇太后(天皇の嫡母)のため青山御所に能舞台を建て、自身もしばしばおもむいて観劇した。しかるに、皇太后が亡くなるとまったく接点がなくなった。側近の岩倉具定が「御好き様なものなら、時々御催し遊ばしては如何でございます」と提案したものの、天皇はこれまた京都弁で、
と退け、ついに能を楽しまなかった。
■並々ならぬ京都への愛着
別の証言にも耳を傾けておこう。長らく侍従として仕えた日野西資博もまた、天皇の京都弁を伝えている。天皇は、臣下のごまかしや噓を非常に嫌がった。ものを壊したりしてもすぐに申告すれば、
くらいで済んだが、ごまかしたり、あとで発覚したりすると、
などと雷が落ちた。もっともな怒りではあるものの、関西風の言い回しだと凄みも増して感じられる(以上、『「明治天皇紀」談話記録集成』)。
天皇の京都への愛着は、じっさい並々ならぬものがあった。食べ物でも京都方面から取り寄せたものを好み、魚では、若狭湾で取れた小鯛や鰈(かれい)、野菜では、嫁菜、蒲公英(たんぽぽ)、独活(うど)などをよく食べた。
食べ物でさえそうなのだから、里帰りは格別だった。1877年2月、24歳の天皇は、ひさしぶりに京都におもむいたおり、このように詠って喜びをあらわした。
東京に10年近く住んでも、天皇にとって京都は依然として「住みなれし花のみやこ」だった。だからこそ同じ初雪でも、まったく違ってみえた。
■劣悪な環境でも意欲的だった地方巡幸
天皇は生涯で9万3032首もの御製を詠んだ。和歌は天皇にとって雑記であり、日記であった。巧拙は別として、そこには天皇の率直な感情があらわれている。天皇の裏表を知るには、これも活用しない手はない。
このように、天皇の言葉は文語体と京都弁で表裏にくっきり分かれていた。ただ、やがて統合の兆しもあらわれた。天皇も成長するなかで、政治への理解を深め、人物眼を磨き、君主として発言するようになってきたからである。
地方巡幸は、その大きなきっかけだった。若き天皇は、新政府の存在を知らしめることも兼ねて、積極的に地方を見て回った。なかでも、1872年から1885年までに行なわれた6回の地方巡幸は、六大巡幸として名高い。
当時の交通事情や宿泊環境は、現在とくらべものにならないほど劣悪だった。天皇といえども、昼は馬車や輿でひたすら蒸し暑さに耐え、夜は簡素な宿で大量の蚊と戦わなければならなかった。
ただ、天皇はそれに不平を述べず、むしろ意欲的に視察に臨み、民衆との接触から多くのことを学んだ。政治的な発言の数々はその証拠だった。
■「難儀な生活」を見るために巡幸をしている
1878年9月14日、北陸・東海道巡幸で新潟県を訪れたおりのこと。この日も朝から晩までハードスケジュールで、天皇の体力も消耗が予想された。そこで侍従が心配して、定刻よりも早く就寝することを勧めた。しかるに天皇はこういって聞き入れなかった。
あえて関西風に意訳すれば、「難儀な生活をみるためにこれ(巡幸)やってんやろ。わしも辛い思いせんかったら、下々のこともわからんやん。全然構わんで」とでもなるだろうか。筆者が大阪出身なので、高雅な京都弁でなくて申し訳ないが――。この言葉は、明らかに天皇としての自覚のあらわれだった。
■君主としての振る舞いを身に付けつつあった
同じような発言は、その少し前にも確認できる。
先述の「住みなれし花のみやこの初雪を」の御製を詠んだ1877年の京都滞在中に、天皇は脚気にかかった。東京に戻ってから回復したものの、再発が危惧された。脚気はビタミンB1の欠乏症だが、当時はその原因がわかっていなかった。そこで侍医から転地療法の勧めがあり、岩倉具視が天皇にその旨を伝えた。1878年4月23日のことだった。
これにたいし天皇は、つぎのように応じた。
土地を移すの事、朕之れを能くすべし。然れども全国の民悉(ことごと)く地を転ずべからず。
故に全国民のため別に予防の方法を講ぜんことを欲す。
「転地療法もええけど、脚気はみんな苦しんどる病気やろ。わしだけ特別扱いせんといてくれ」。天皇はそう述べた上で、西洋医学だけではなく漢方や和方医学も用いて、脚気の原因や治療法を探るべきだと指摘した。
多少の美化もあろうが、20代なかばの天皇は、地方巡幸などを通じて、君主としてふさわしい振る舞いを身に付けつつあった。
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作家・近現代史研究者
1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。
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(作家・近現代史研究者 辻田 真佐憲 写真=iStock.com)
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