1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

健康だった頃の大正天皇が残した"お言葉"

プレジデントオンライン / 2019年4月25日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/kuppa_rock)

「病身の天皇」として知られる大正天皇も、治世の初期にはそれなりに元気だった。皇太子のときから記憶力がよく、フランス語を使って女官をからかうこともあったという。近現代史研究者の辻田真佐憲氏が大正天皇のお言葉を紹介する――。

※本稿は、辻田真佐憲『天皇のお言葉』(幻冬舎新書)の一部を再編集したものです。

■「病身の天皇」として知られる大正天皇

大正天皇(嘉仁)は、1912年7月に践祚(せんそ)した。33歳だった。

大正天皇といえば、病身の天皇として知られている。第一次世界大戦以降には、帝国議会の開院式に出席できなくなり、1921年11月、摂政が置かれて事実上の引退状態となった。病状はその後も復せず、1926年12月、静養先の葉山御用邸で崩御した。なんらかの脳の病気だったと考えられている。

事実上の在位が10年に満たなかったため、大正天皇は前後の天皇にくらべて影が薄いといわざるをえない。その言葉についても、公式記録の『大正天皇実録』が素っ気ないこともあって、あまり豊富ではない。

ただ、天皇はずっと病身で静養していたわけではなかった。少なくとも、治世の初期はそれなりに元気だったのであり、政務にも取り組んでいた。事実上の引退によって、健康だったころの言動まで色眼鏡でみられているところがないではない。

■「巻物を丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだ」という噂

いわゆる遠眼鏡事件もそのひとつだろう。大正天皇が帝国議会の開院式で、読み終わった勅語の巻物をぐるぐると丸め、遠眼鏡のようにして覗き込んだという噂だ。大正天皇が暗愚だった象徴のように語り継がれ、個人的な話で恐縮だが、筆者自身も小学生のときに学校か塾かで教えられたことがある(その上、天皇が「アメリカがみえる」とつぶやいたなどというエピソードまで付け加わっていた)。

そのいっぽうで、これについてはまったく違う証言も残されている。天皇はかつて、議会で勅語の巻物を上下逆に開けたことがあった。担当の者が間違って渡してしまったらしい。当然そのままでは読めないので、天皇は衆人環視のなかで巻物を巻き直さなければならなかった。

これで恥ずかしい思いをした天皇は、そのつぎはなかを覗き込み、上下が正しいことを確認した上で、巻物を開いた。天皇はその日、奥で女官に今回は首尾よくいったと伝えたという。

今日はこうして中(を)よく見てから開けたよ。

この行動が結果的に遠眼鏡事件として広まってしまった。それがこの女官、坂東登女子の戦後の回想である(山口幸洋『椿の局の記』)。

もちろん、この証言も確かなものではない。時期が曖昧であるし、かなり時間がたってからの言葉でもあるからだ。さはさりながら、天皇を暗愚の一言で片付けることには待ったをかけなければならない。

■「お茶目」で「ひょうきん」なところがあった

辻田 真佐憲『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(幻冬舎新書)

たしかに天皇は、よくいえば「お茶目」で「ひょうきん」、悪くいえば軽率で無思慮なところがあった。皇太子の時分には自由に歩き回り、海岸で漁師に鯛を所望したり、山中で村民に道を訊ねたり、鳩を撃って寺の小僧に怒鳴られたり、エピソードに事欠かなかった。周囲はそのたびに大慌て、相手はあとで皇太子と知って恐懼するばかりだった。

践祚してからはさすがにおとなしくなったものの、奥では女官を追いかけ回して頰を「ペチョペチョペチョッ」と舐めたり、その手をがっとつかんだり、相変わらず自由奔放だった。聡明で知られる皇后(貞明皇后)もこれには機嫌が悪くなり、一時ヒステリーみたいになったという。

 

■フランス語を使って女官をからかった

ただし、知的な能力まで後れを取っていたわけではなかった。天皇は皇太子のときから記憶力がよく、フランス語もある程度使えた。フランス語は、当時の列強王族や外交官の共通言語だった。そのため天皇は、来日したスペイン公使と長時間会話したこともあったらしい。自筆のフランス語の手紙も残されている。

天皇はこの能力で、女官をからかうことがあった。女官にフランス語のフレーズを教えて、これは「わたくしはばかではありません」という意味だからと伝え、向こうでいってこいと指示した。ところが、それはほんとうのところ、

あたくしはばかであります。

という意味だった。そのため、その女官は、フランス語がわかる侍従に「きゃっきゃっ」と笑われたのだった。天皇はこれに加え、朝鮮語も勉強していた。こちらも具体的な言葉があればいいのだが、残念ながら残されていない。

■政務でも顔を出した「気さくさ」

また天皇は、新聞をよく読んでいた。四紙ぐらいを端から端まで読み、世情に詳しく、こんなことまで女官に薀蓄を傾けた。

どこやらのな、うなぎがどうやら。
あの三河屋のな、うなぎがおいしいそうだよ。

この気さくさは、表の政務でもしばしば顔を出した。天皇は、臣下や女官に紋章入りの煙草を鷲摑みでよく与えた。またときに相手の写真を所望した。これは外国の大使などにも例外ではなく、つぎのような声がかかった。

煙草やる。煙草のむか。
写真をくれ。
写真、以後、くれね。

■臣下を泥酔させることが楽しみだった

外国人嫌いの先代では考えられない光景だった。他方で、天皇にも君主としての自覚はあり、政務の声がかかれば奥での食事を中断して、

それでも国のことだからな。
時間は言っておれんよ。

といって表に向かったのだった(『椿の局の記』)。

なお天皇はワイン、梅酒、シェリー酒、ブランデーなどを嗜んだが、大酒飲みではなかった。むしろ臣下に飲ませて泥酔させることを楽しみとした。侍従がこれに参って、ブランデーの瓶に麦茶をつめて、それを飲むようにしたところ、天皇は気づかず、

お前はこの頃随分と強くなつたな。

と感心することもあった(小川金男『宮廷』)。

----------

辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
作家・近現代史研究者
1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。2012年より文筆専業となり、政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『日本の軍歌』『ふしぎな君が代』『大本営発表』(すべて幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)、『文部省の研究』(文春新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)など多数。監修に『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌/これが軍歌だ!』(キングレコード)、『満州帝国ビジュアル大全』(洋泉社)などがある。

----------

(作家・近現代史研究者 辻田 真佐憲 写真=iStock.com)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください