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画一的な人材を量産してきた日本の行く末

プレジデントオンライン / 2019年5月25日 11時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/tupungato)

日本の教育は、戦後から一貫して「正解は一つ」を前提にしてきた。だがそれではグローバル化が進む環境では生き残れない。明治大学の小笠原泰教授は「結晶化された固定的知能ではなく、知恵ベースの流動的知能を高めていく必要がある」と警鐘を鳴らす――。

※本稿は、小笠原泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ 時代に先駆け多様なキャリアから学んだ「体験的サバイバル戦略」』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■現代のグローバル化を生んだきっかけ

現在のグローバル化は、1989年の「ベルリンの壁」崩壊に象徴されるソ連の解体(1991年)による冷戦の終焉がもたらしたアメリカの覇権の確立に端を発しています。アメリカの覇権の下、国境による制約を解かれた資本が牽引する形で世界のネットワーク化が加速します。冷戦という対立構造が消失したことで、覇権国家の権力に代わり、経済(市場、資本、企業)が政治的不安定を抑制する調整弁として機能したわけです。

車や飛行機、コンテナ輸送など、冷戦以前から進歩を遂げてきた物理的な移動技術に加え、世界を論理的にネットワーク化するインターネットに象徴されるICT(情報通信技術)などデジタル・テクノロジーが、グローバル化をさらに加速させている点が最大の特徴です。

そして、周知のとおり、デジタル・テクノロジーは、もはや国家が独占するモノではなく、個人や企業にも等しく開かれた民主的なモノで、国家に対し、市場・資本・企業と個人の力を急速に高めています。

すなわち従来の国家>企業・市場>個人という序列が崩れ、3者が鼎立(ていりつ)し、相互に影響を与え合いながら行動するモデルとなり、デジタル・プラットフォームの出現によって、個人レベルで国家や企業と同等のことを効率的に行うことが可能になってきているのです。

■排外主義の中で進行する個人の「二極化」

このパワーシフトの中で、個人について考察すると、現在の社会変化については移民問題がクローズアップされがちですが、変化の本質は、極右の国家主義か社会主義かというイデオロギーの問題ではありません。

多様化を認め、変化が当然の「開いた社会」を望む(あらゆる変化に可能性を見いだし、国を消極的にしか必要としない)人々と、多様化を認めず変化を拒否する「閉じた社会」を望む(あらゆる変化をリスクと感じ、国を積極的に必要とする)人々の分裂が起きているということであり、移民排斥は、その分裂が示す表面的な現象に過ぎません。

これには格差が背景にあると言う人もいますが、格差は社会が多様化のメリットを認めた当然の帰結とも言えます。政治家、マスコミ、学識者は、エリート対大衆・民衆に代表される少数対多数という、お定(き)まりの対立構図を持ち出しますが、もはやその構図は意味をなさないと思います。

その中で、先進国では、国家に対してパワーを強めた(自律した)個人と、パワーが弱まり、パワーを減じている国家に依存する個人(パワーの低下が止まらない国家は、彼らをパワーの再強化に利用します)への二極化が明確に進行しつつあります。

つまり、国家と企業と個人の3者間のパワーバランスが、「開いた社会」を志向する人々と「閉じた社会」を望む人々との間で異なっているということです。

■グローバル化は「進歩」と呼べるのか

ここに、イギリスやアメリカやフランスのような政治の混乱の原因があります。民主制度では選挙の敗者は敗北を受け入れ、次の選挙に期待をかけるのがルールですが、それが機能しなくなってきています。そして、かつては、政治が経済構造を決定していたわけですが、グローバル化が進むなかで、これが急速に難しくなり、その逆転が起きつつあるといえるでしょう。

トランプ大統領を選出したアメリカの大統領選挙やイギリスのBrexitの国民投票が示すように、現在この分裂は拮抗(きっこう)していて、自分の陣営により多くの人を引き込もうとする綱引きの状態です。問題は、今後、「開いた社会」と「閉じた社会」、すなわちグローバル化と反グローバル化のどちらに向かうかにあります。

先進国で起きている反グローバル化の支持者は、グローバル化を「進歩(自分の意思でコントロールが可能)」と捉えているようですが、世界がここまで相互結合と相互依存を深める中で、支持者の望んでいる一国中心主義に回帰することは現実的には難しいと言えるでしょう。

つまりグローバル化は進歩ではなく、好むと好まざるとに関わらず、私たちに環境への適応を迫り、適応できなければ淘汰(とうた)される「進化」であると考え、自分はどのように環境変化に適応するかを考えた方が生存確率は高まるということです。

■歴史から未来を予測する教育は通用しない

国家、企業・市場、個人の3者が鼎立する状況は、構造的に不安定です。つまりグローバル化という状況下では、均衡点は固定化せず、移動を繰り返す動的平衡によって維持されるので、予測が困難で、不可逆かつ非周期でパターン化が難しい非線形な思考が前提となり、これまでの分類、規範、常識が意味をなさなくなるということです。

この状況は、アメリカの覇権の下に始まった、覇権国家が国家の観点で均衡点を管理してグローバル化システムを安定化させようとする思考、つまり、決定論的な法則に従ってパターン化された結果が生じるという、これまでの線形的な思考の前提とは異なります。

この意味で、今現在進行するグローバル化は、当初のグローバル化とは非連続的なもので、「近代化が進めば、予見性は高まる」という、これまでの近代化のお約束がお約束でなくなる世界、近代化の終わりを迎えていると言えるでしょう。

つまり、歴史の連続性を前提に、過去の延長線で未来を管理することが可能であるとする歴史主義は、もはや通用しないと考えるべきです。したがって、読者のお子さんたちが、現在の歴史主義に基づく大学教育で学べるもののうち、将来にわたって利用価値の高いものは少なくなると考えるべきであろうと思います。

■日本が適応できないのは「できすぎた」法律のせい

予測が難しい環境変化に適応するためには、従来の学校教育のように正解ありき、「人と同じだから大丈夫」は通用しません。多様性こそが環境変化への適応可能性を高めるからです。そして、絶えず変化する、つまり、当たり前が常に変わるので、適応率の高いモデルを探そうとしても無駄であると理解すべきです。

しかし、読者も感じていると思いますが、日本社会の変化への適応速度は極めて緩慢です。むしろ変化への適応を拒否しているようにも見えます。その大きな理由は、極めてよくできている緻密かつ複雑に絡み合った硬直的な法律や制度(規制)の存在と、高齢者のあふれる超高齢社会です。

法律や制度は、そもそも存在自体が保守的であり、変化を嫌います。そして、社会が急速に変化し続ければ、変化に先立つことのない法律は現状に適応しないので、機能が低下していかざるを得ないのです。

この意味で、精緻な法制度を有している先進国の方が、急激な環境変化への適応では不利になる可能性が高く、日本はその中でも、法制度とその解釈において現状変更を否定する力が強い社会と言えます。

加えて、2020年に75歳未満の前期高齢者の人口を上回る75歳以上の後期高齢者の急激な人口増加(2050年代には人口の4人に1人が75歳以上になる)がもたらす社会への影響です。高齢者は変化に適応をしても労多くして恩恵は少ないため、現状維持を主張し、変化には否定的です。したがって、日本の世論(有権者の多数を占める高齢者の意見がベースとなります)は、グローバル化による変化に対して否定的になります。

ここでの正当化の根拠として、伝統を守ることが強調されるでしょう。伝統とは、歴史の中で先祖の知恵が集積され、醸成されて残ったエッセンスであり、伝統の尊重は、過去から未来につながる単線的な歴史主義が前提にあった時代には賢明な判断だったかもしれません。

しかし、歴史主義は、もはや大きな意味を持ち得ず、伝統は、変化を否定する際のもっともらしい言い訳として使用されていると認識すべきであると思います。

■企業も国家も個人も日本は全部遅い

バブルの崩壊後に始まったのですが、日本は、階段を駆け降りるように世界(主に欧米)から相手にされなくなっています(最近、増加する訪日外国人の圧倒的多数は、台湾や香港を含む中国、韓国を筆頭とするアジア人です)。

戦後から高度成長時代にセットされた、個々の能力に関係なく、みんなで同じ目標を持って努力すれば、いつか必ず報われるという政府の方針が、バブル崩壊を経て、ここに至り、もはや機能しない(破綻した)ことが明らかになってきました。

「そんなはずではなかった」と多くの国民が思い、成功者をみると、なにかズルイことをして儲(もう)けたに違いないと妬むようになっています。

少子超高齢化と人口減少によって、もはや経済の成長は困難で、巨額な財政赤字を抱え、負の再分配が行われるようになる中で、この傾向は強まっています。皆で貧しくなり、いら立ち、他人への許容度や寛容を失い、「優しいはず」の日本社会は、急速に「優しくない」社会へと向かっています。

現在の日本の状況は、「生き残るために急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身を始める合理的な企業」と「変わりたくない、変えてはいけないと悪あがきする非合理的な国家」その狭間で「変わらなければいけないと思いつつ、思考停止状態の個人」といった構図です。

■閉じた社会で育った子どもが「まずい」理由

この構図の中で最初に大きく動くのは、やはり生き残りがかかった企業です。その表れの一つが、経団連が2018年に決定した就活指針の廃止に伴う人材の多様化と大学教育のあり方への提言や終身雇用の見直しです。これは、裏を返せば、戦後からバブル崩壊まで成功してきた国家主導の「閉じた社会」で、同じような考え方をする人間を育成するという方法が機能しなくなってきたことを意味しています。

身近な例では、いまだ大企業信仰が強く年功序列を脱しない日本においても、「偏差値の高い大学に行き、卒業して大企業に就職してしまえば人生安泰」という勝利の方程式が壊れてきています。

偏差値、大企業といった共通の物差しの消失は、人生の「正解」がなくなってきているということであり、自ら、自分の生存能力を高めなければならない時代であるということです。

もし、今、読者のお子さんが居心地の良い環境にいるのであれば、「それはまずい」と思った方が良いと思います。変化の少ない居心地の良い環境にいると、予見性が高いので、脳はメンタルモデル(経験の繰り返しを通した慎重な分析の上に形成された、安定的な実世界に対する思考の固定的なプロセス)をつくります。

一度メンタルモデルが形成されると、脳は時間とエネルギーを節約するために状況分析を行わなくなり、働かなくなります。しかし、ひとたび環境変化が起こった時には、このような脳はどうしてよいかわからず、変化に対応できなくなります。

■次の時代に必要なのは「スマートさん」

日本の教育は、戦後から一貫して規格品としての「クレバーさん」を生産してきました。「正解は一つ」を前提として、外部知識を習得する学習能力の程度を評価する、いわば、結晶化した固定的知能を引き上げることでした。これは、環境の変化が緩慢で不確実性が低く、十年一日同じことを教えても、それが機能した時代の産物であり、理解力が高く、ミスをしなければ良いので、あたかもミスをしない優秀な自動販売機のようなものです。

小笠原 泰『わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ』プレジデント社

別の言い方をすれば、地雷源を踏まないように地雷を避けて通る、リスクを取らない賢い人材、減点主義の下でその真価を発揮する人材です。

しかし、グローバル化が進む不確実性の高い環境では、かつて意味のあったことは意味をなさないケースが増えてくるわけで、教える内容も急速に変えなければならないはずですが、現実は全くそうなっていないのです。故に、学生各自、つまり、読者のお子さんの自発性をいかに引き出すかが重要になりつつあり、親のミッションは、ここにあります。

そもそも地雷がどこにあるかは過去に取得した知識をいくら積み上げてもわかりません。求められるのは、リスクを取って積極的に地雷源に踏み込んでも地雷を踏まない人材、つまり、教科書的で硬直的ではなく、状況に応じて最適解を探せる柔軟性を備えた人材です。これは知識ベースの結晶化した固定的知能ではなく、知恵ベースの流動的知能と言えます。

このような人材を「クレバーさん」に比して、「スマートさん」と呼びましょう。知恵は、多様な経験からしか身につきません。異なる経験をするほど、知恵の程度は高まるのです。故に、自ら居心地の良い環境を離れ、新たな環境、つまり、居心地の悪い環境に敢えて身を置く意志と勇気が必要になるのです。

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小笠原 泰(おがさわら・やすし)
明治大学国際日本学部教授・トゥールーズ第1大学客員教授
1957年生まれ。東京大学卒、シカゴ大学国際政治経済学・経営学修士。McKinsey&Co.、Volkswagen本社、Cargill本社、同オランダ、イギリス法人勤務を経てNTTデータ研究所へ。同社パートナーを経て2009年より現職。主著に『CNC ネットワーク革命』『日本的改革の探求』『なんとなく日本人』、共著に『日本型イノベーションのすすめ』『2050 老人大国の現実』など。

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(明治大学国際日本学部教授・トゥールーズ第1大学客員教授 小笠原 泰 写真=iStock.com)

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