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失言を繰り返す政治家は筋トレが足りない

プレジデントオンライン / 2019年6月6日 15時15分

スパイダーマンの衣装をまとう落語家の立川談慶さん

北方領土問題をめぐる不適切発言で、衆院議員の丸山穂高氏は日本維新の会を除名になった。なぜ政治家は致命的な失言を繰り返すのか。落語家の立川談慶さんは「丸山氏は自分を絶対化するあまり、客観的な認知が足りていない。一刻も早く筋トレをするべきだ」という――。

人は、失言から失脚する

いやはや、日本維新の会を除名された衆院議員の丸山穂高氏が世間をにぎわせてますな。おなじく日本維新の会から参院選比例代表候補としての公認予定を取り消されそうなフリーアナウンサーの長谷川豊氏、そしてこれまた五輪担当大臣を辞任することになった自民党衆院議員の桜田義孝氏。

いずれも失言からの失脚であります。こうした事態を受けて、自民党では「失言防止マニュアル」なるものを配布し、来るべき選挙に向けて「言葉」に細心の注意を図ろうと必死であります。

言葉は人を「狂喜」させますが、使い方をまちがえると「凶器」にもなります。そして、たとえ後から撤回しようが、一度発せられた言葉は消えません。要するに撤回というのは発信者側のわがままにすぎないのです。受信者側がその言葉によって受けた心の傷は、一生消えないのですから。

言葉を生業(なりわい)とする落語の世界においても、これは重要な問題です。落語家志望の若者の前に立ちはだかる「前座修行」というシステムでは、入門と同時に師匠からその言動を逐一チェックされる厳しい期間がはじまります。入門すればいきなり大好きな落語がしゃべれるわけではないのです。

まずは前座からはじまり、二ツ目に昇進してやっと落語家としてカウントされて、最後は弟子を取ってもいい真打ちというランクになります。つまり落語家は完全なる階級社会なのです。

■立川談志の言葉に対する皮膚感覚

立川談志はとりわけ厳しく、「俺は学校の先生じゃないから小言でアピールするだけだ」と宣言し、常に弟子たちの細かな言葉遣いに目を光らせていたものです。

思い返せば私自身もしくじりの連続でした。たとえばある雨の日に、なかなかタクシーが捕まえられず、「師匠、タクシーが捕まりません」と伝えると、「おまえの言い訳なんか聞いてない。捕まえればいいんだ!」と言われます。

そしてやっとの思いで捕まえたタクシーに乗って帰る際、「お先に失礼します」と言うと、今度は「失礼しますじゃない! 失礼させていただきますだ!」とさらなる小言が待ちかまえていました。まるで「お前はこんなきつい思いをしてまで落語家になりたいのか」と、日々洗礼を受けているような期間でした。

あの頃は、身も心もズタズタになるしかなかったのですが、いま落ち着いて談志の立場で吟味してみますと、「おまえの言葉を意地悪く解釈するやつがいたら、こうなるぞ!」というメッセージでもあったのでしょう。つまり、「自分の言葉が他者にどのような印象を与えるか」という、マンツーマントレーニングを天下の立川談志から施された修行期間だったのです。

考えてみれば、「言葉の影響力」というものを談志の天才的皮膚感覚を通じて学べるなんて、落語家として一番の訓練だったといえます。

■筋トレで「現実が事実」になる

落語家は、「マクラ」と呼ばれる冒頭の部分で観客に探りを入れながら、共感の証明である「笑い」を引き当てようとアプローチします。つまり、客観力こそが落語家の肝であり、それを尊敬する師匠のもとで磨きをかけさせてもらえる前座期間は、実に理にかなった修行制度といえます。

だからといって私は、自民党に「失言防止マニュアル」ではなく、落語界の前座システムを導入せよといいたいのではありません。落語家も政治家も言葉を大切にする商売ならば客観力を武器にすべきであり、その能力を研ぎ澄ます方法として、「筋トレ」を主張したいのです。

客観力の醸成にあたって一番大事なことは、まず「自分はどういう人間か」を把握することだと思います。

筋トレを日々こなしていると、自分のパワーの限界を思いしらされます。「ああ、俺という男は、スクワットは120キロまでしかこなせないのだな」、「カール(二頭筋を鍛える種目)なら13キロで10回が限界なんだな」などと、常に客観的な数値をダンベルやマシンの重量が教えてくれます。

「俺はベンチプレスで100キロ上がる」と口では誰でもいえますが、本当に上がるかどうかという実績は、バーベルが客観的に示すもの。100キロ上げたくても実際には75キロしか上がらないとしたら、その数値こそが現実です。これは、談志がよく言っていた、「現実が事実」という言葉にも通じるところです。

■「正義」とは常に主観側のもの

「ベンチプレスで100キロ上げる」のが主観であり理想ならば、「75キロしか上げられないこと」は、あくまでも客観であり現実です。そして、となりのベンチには100キロバーベルを楽々上げる人がいて、さらに自分の現実に向き合わされることになります。

するとどうなるかというと、「ああ、自分はまだまだだな。上には上がいるなあ」と常に気づかされる毎日を送ることで、「自分の絶対化」が回避できるのです。「俺はすごいと思ったら、まだまだだった」という気づきは、絶対化された自分を相対化させることにもつながります。

ここで、新たな提言をしてみます。失言を含めたあらゆるしくじりは、主観から起きているのではないでしょうか。

人は主観が強くなるほど、自分を絶対化させがちです。戦争を含め、たいていの失敗や失態は、「自分(たち)はまちがっていない」という誤認から起きるものと私は確信します。

一方、落語はどうでしょう。落語は基本的に、「お前からはそう見えているけれども、こちらからはそう見えるものだよ」という客観的かつ相対的な価値観で出来上がっています。

たとえば「一眼国(いちがんこく)」という落語があります。これは一つ目の国に行き、一つ目小僧をつかまえて大儲けしようとした男が逆につかまってしまい、「二つ目とはめずらしい。見世物小屋に売り飛ばそう」と立場が逆転してしまう噺(はなし)です。つまり、「世の中に絶対的なものはない」ということをわかりやすく訴えた作品です。

あの「イスラム国(ISIL)」にだって向こう側の正義はあるもの。正義とは主観的なものなのです。

■なぜ長渕剛は自身をアップデートするのか

自分の発言も、「もしかしたら別な見方をされるかもしれないな」と、常に客観的にとらえる訓練を積み重ねていけば、失言のリスクは格段に減少するのではないでしょうか。

談志はよく、「俺はまちがっている」と言っていました。これは相当な自信がないといえないセリフではありますが、自身を常に客観的に見ていた証しでしょう。

筋トレのすばらしさは、そんな相対的かつ客観的なデータで示された自分の力が、正しい訓練を積むことによってどんどんアップデートされていくことです。

歌手の長渕剛さんも、熱心な筋トレマニアとして知られています。私は長渕さんの通うジムをたまにビジターで使わせていただくことがあるのですが、関係者いわく、長渕さんの体重は筋トレをはじめたときには58キロ程度しかなかった。それがきちんとしたトレーニングと食事の積み重ねで、筋肥大により体重を増やしていき、8年かけてベンチプレス100キロを達成したとのことでした。

つまりコツコツと努力すること(具体的には筋肥大)によって自らがアップデートされる醍醐味が、筋トレには内在されているわけです。

■筋トレで、もっと優しくなろう

そして、「どうだ、ベンチプレス100キロ上がったぜ」と威張っている横で、自分より年配の方が130キロを上げていたりするのを見ると、「ああ、俺もまだまだだなあ、もっと頑張らなきゃ」と、自分をいっそう客観的に受け止めることになる。言い換えれば、常に成長意欲をかき立てる点に、筋トレの奥深さがあるのです。

立川談慶『老後は非マジメのすすめ』(春陽堂書店)

このような「客観力×相対化」という積立貯金が満額になったときに起こるのが、「メタ認知」なのではないかと推察します。

メタ認知とは、自己のあり方を、客観的に認知すること。一見、むずかしい言葉に聞こえますが、要するに「自分がこう振る舞えば、相手はこう感じるだろう」という、一歩先を行く想像力を意味しています。それは相手への思いやりで、自分と他者を客観的かつ相対的に見つめなければできない芸当です。

具体的にいえば、荷物を抱えたお年寄りがコンビニに近づいてきたら、さっと半歩先に行ってドアを開けてあげるような行為がその象徴です。俗にいう「優しさ」とは、一歩先を行く想像力がもたらすものでもあるでしょう。

そんな他者を想像する優しさこそが、人生最大のリスクヘッジになると私は考えます。失言をはじめとするさまざまなしくじりを回避する最良の策は、マニュアルを配ることではなく、こんな優しさを磨くこと。そしてこういう「優しさ体質」を育む修行として、数値的に自身を客観視できる筋トレがおすすめなのです。

(落語家 立川 談慶)

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