丸山ゴンザレス"スラムが実は安全な理由"

プレジデントオンライン / 2019年6月17日 9時15分

※写真はイメージです。(写真=iStock.com/holgs)

「スラムは危険地帯だ」というのは本当だろうか。世界中で危険地帯の取材を続ける丸山ゴンザレス氏は「スラムは危なくない。そこに暮らしを営んでいる人がいるからだ。ただし、『住人だったら』『昼間だったら』という条件がある」という――。

※本稿は、丸山ゴンザレス『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■「スラム=危険地帯」という誤解

”スラム街に暮らす人々”が何を考えているのか、頭の中に迫ってみたい。

まず、最初にしておきたいのは、スラム未経験者にありがちな誤解を解くことからである。よくある誤解とは、「スラム=危険地帯」という前提のことである。もちろん危ない部分もなくはないので、危険だと思う人がいるのは無理からぬ部分もあるのだが、スラムは決してヤバイだけの場所ではない。

どうしてそこまで断言できるのか。それは、私がこれまで見て回ってきたスラムに共通していることがあるからだ。

そこには、ごく普通の人々の暮らしがある。

「大都市部で形成される低所得者層の密集住宅地で、不法占拠によって生まれることがある」。これはわりとしっかりとしたスラムの定義になるのだろうが、私は「貧しい人たちや、問題のある人たちが密集して住んでいるエリア」ぐらいに考えている。細かな定義などは、多くの人たちが集まって暮らすことで生まれる圧倒的な存在感の前には、どうでもいいことだと思っている。スラムに行くのは、枠組みをどう定義するのかよりも、そういった場所に暮らしている人たちの現状を知りたいだけだからだ。

■ただし「住人だったら」「昼間だったら」

話を戻すと、「スラムは危なくない」という私の主張の根底にあるのは、「スラムが暮らしの営まれている場所である」という事実だ。スラムには、家族を最小の単位として、それより大きな単位としてコミュニティ(共同体)がある。日本のように核家族や一人暮らしが一般化しているほうが珍しいと思う。

大きなコミュニティが維持されるということは、水道や電気など行政が主導するライフラインのほか、治安もある程度は確保されていることになる。そのため、取材で住人に対して、「ここは安全ですか?」や「住みやすいですか?」などと問いかけても、「安全で住みやすい」と返事される。

「でも、スラムって犯罪が起きるよね?」

そんな疑問を抱く人もいるだろう。犯罪が起きる場所だから危ないという認識、それ自体は間違ってはいない。

先ほどの回答には、「ただし」で始まる「続き」があるのだ。たとえば、東南アジアやアフリカのスラムでは、「ただし」+「住人だったら(襲われない)」や「昼間だったら(大丈夫)」という条件が加わる。

■スラムには「ジャイアンの思想」のアレンジがある

襲う側は近所の住人を相手にしない。金がないこともあるし、あとから復讐されないとも限らない。また、安全なのが昼間に限定されるのは、夜になるとスラムに出入りしているよそ者が入り込んでくるからだ。スラムの住人ばかりが犯罪をするわけではないという意味が含まれている。

限定的ではあるが、ある程度の治安が確保されているのがスラムなのだ。暮らしがあるということは、そこにはルールが存在する。暗黙のルールは、人々の習慣として基本的な考え方にかなり強く根ざしていることが多い。

こうした住環境は、どこのスラムでも似ていることが多い。そのせいだろうが、共通している、どこでも見受けられる考え方がある。それは、「富の再分配」がもたらす平等主義という考え方だ。簡単にいえば「ジャイアンの思想」のアレンジである。

『ドラえもん』を知らない人のためにジャイアンについて一応説明すると、ジャイアンは物語のなかでの立ち位置としては番長。主人公の友達ではあるが、基本的には傍若無人。自分のものだけじゃなく、まわりの人の持ち物も所有物にしてしまう。

■外出用の「一枚のシャツ」を共有することもある

さすがにそれだとスラムライフでは角が立つので、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの。だけど、それだと君が怒るから、少しは俺のものもあげるよ」といった感じである(後半の気配り部分がアレンジである)。私がジャマイカでの取材で遭遇したのは、まさにこの考え方だった。

スラムで道案内を頼んだ住人に謝礼を渡した。それまで案内を頼んでもいないほかの住人がぞろぞろとついてくることがうっとうしかったのだが、案内人は取り巻いている住人たちに酒を奢り出した。はじめはその意味がわからなかったのだが、自分がお金をもらったので、「みなさんもどうぞ」的な意識が働いているようだった。

このことを在住歴の長い友人に確認したところ、「ジャマイカではよくある習慣」と教えられた。彼らは総じて貧しく、普段から助け合いの精神が当たり前にあって、意識することもないぐらいだという。外出用に使える一枚のシャツを共有することもあるほどだ。

そのため、収入があったら、お金を持っている人が持っていない人に何かを買ってあげたり、ご馳走したりするのが当たり前なのだ。

■ジャマイカのアーティストが米国移住する理由

一見すると理想的な助け合いである関係性に思える。

だが、ここに落とし穴がある。

当たり前のことを実行しないやつは、コミュニティからつまはじきにされるのだ。日本でいうところの村八分である。

以前、ジャマイカのとあるスラムに長く住んでいるある外国人がいた。もちろん、この習慣は知っていたし、住人たちに助けられて暮らしていた。このままであればなんら問題はなかったのだが、あるとき、その外国人のもとに本国の親戚の遺産が転がり込んだ。するとその人は、コミュニティに還元することなく、自分の家の家具を新しくしたり、自分の贅沢のためにだけ浪費した。

結果、その家は集団強盗に襲われることになった。犯人は地域住人である。

外国人にしてみれば、たまったものではないと思うのだが、住人たちも同じことを考えていた。何せ、転がり込んできた遺産は、コミュニティみんなに還元されなければならないからだ。

どうしても自分だけで使いたかったなら、遺産をもらった時点で、せめて引っ越すべきだった。同じ地域に留まっていたら、このような結末は火を見るより明らかだ、と友人は教えてくれた。

成功したジャマイカのアーティストがたいていアメリカに移住するのは、こうした習慣がうっとうしいから、などこの国の「平等主義」にまつわるいろんな話を聞く。いずれにせよ底辺なりの助け合いに見える習慣もちょっと視点を変えるだけで、裏切りを許さない危険な考え方にもなりうるということなのだ。

■一人約50ドルの「スラムツアー」

スラムを取材する側の悩みどころについて、少し紹介してみたいと思う。

インドネシアの最大都市ジャカルタを訪れたときのことだ。在住の友人から、街の外れのほうにスラムがあるという情報を聞いた。コタ地区という風俗やクラブの集まるエリアからほど近い。スラムを取材するのはライフワークとなっているので、当然のように行ってみることにした。

町並みはいたって普通。中心部の高層ビル群とは違って低い建物が並ぶ。開発が追いついていない、あるいはこれからの場所なのだ。

事前にツアーガイドを予約した。待ち合わせに指定されたカフェの前にいたのは、50歳ぐらいの男だった。英語を操り丁寧に挨拶をしてくれた。友達が気を回して手配してくれたのだが、いつも一人でスラムを好き勝手に歩いている身からすると、参加すること自体に居心地の悪さを感じる。ちなみに一人50ドルぐらいとられるが、そこに引っかかったわけではない。

それでも参加したのは、せっかく友人がくれた情報だったから、そこに乗っておこうと思ったのが半分。あとの半分は、ツアーガイドがどのようにスラムを案内するのかが気になったからだ。

当日になって知ったのだが、スラムの子どもたちに何かプレゼントを用意してほしいというリクエストがあったようだ。あくまで「できれば」というリクエストだったので、別になくてもいいだろうと友達と話し、気にしてもいなかった。

■参加者は外国人観光客が多い

参加者は白人の熟年夫婦、白人の女性といった感じで外国人観光客が多かった。彼らやガイドと一緒に川沿いのスラムの入り口に向かう。

湿地帯の上に建てられた家は木造で、貧相な感じがした。住人たちは着古した感じの服装をしている人がほとんど。ただ、子どもたちが走り回っていて、貧しいながらも楽しく暮らしているような感じを受けた。各地のスラム街と変わらない光景だ。

いくつかの集落を回っていると、ガイドからふいに、「ここの家に子どもたちを集めるので、ここでおみやげを渡してほしい」とひとつの建物に案内された。同行していた外国人観光客たちは、カバンから次々に文房具などを出して配り出した。その「思っていたよりも本格的なおみやげ」が配られる様子を見て、手ぶらで来た私たちはいたたまれない表情になってしまった。

(まずいな~)

内心、罪の意識で押しつぶされそうだった。実際、おみやげをもらった子どもたちは過剰に見えるほどに喜んでいた。

あまりの居心地の悪さに、ガイドの目を盗んで家の裏に行って、タバコを吸って緊張を和らげようとしたが、箱の中は空っぽ。途中に売店があったのを思い出し、「スラムで売ってるタバコでも買っておくか」との軽いノリで、店を探しに行った。すると、なかなか見つからない。ようやく見つけて買って戻ると、今度は先ほど集められた家の真裏に出た。こういう”迷宮”感もスラムの面白さである。

■ハンモックでiPhoneとiPadを使っていた

家の真裏で予想外のものを見た。先ほどまで、子どもたちを紹介してくれていた親と思われる中年男性が、室内でハンモックに揺られながら、iPhoneを握って、iPadで読書をしていたのだ。部屋にはパソコンも置いてあった。

丸山ゴンザレス『世界の危険思想 悪いやつらの頭の中』(光文社)

別に何も悪いところはない。ただ、文房具ひとつで喜んでいた子どもたちの家の人にしては、持ち物の階層が合わないように思った。

ツアー側の「仕込み」だったというわけではないだろう。おそらく、彼らは実際に貧しいだろうし、外国人からプレゼントをもらった子どもたちは素直に喜んだのだと思う。ただその喜びは、貧しいからではなく、子どもならではの異文化体験に対するものだったのかもしれない。家主の男にしても、今日、明日食えないような貧乏人として紹介されたわけではない。

問題は見せる側ではなく、見る側にある。見学している側が、「この人は貧しい人で大変な暮らしをしているんだ」と思ったに過ぎないのだ。相手に対して見たいものを投影して見ているだけなのだ。

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丸山ゴンザレス(まるやま・ごんざれす)
ジャーナリスト・編集者
1977年、宮城県生まれ。考古学者崩れのジャーナリスト・編集者。無職、日雇労働、出版社勤務を経て、独立。著書に『アジア「罰当たり」旅行』(彩図社)、『世界の混沌を歩くダークツーリスト』(講談社)などがある。人気番組『クレイジージャーニー』(TBS系)に「危険地帯ジャーナリスト」として出演中。

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(ジャーナリスト・編集者 丸山 ゴンザレス 写真=iStock.com)

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