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哲学者が警告"車を見たらミサイルと思え"

プレジデントオンライン / 2019年6月7日 15時15分

高齢男性が運転する乗用車が暴走し、歩行者や自転車をはね親子2人が死亡した交通事故で、現場に残された自転車と事故車両=2019年4月19日、東京都豊島区東池袋(写真=EPA/時事通信フォト)

高齢ドライバーの運転事故が「プリウスミサイル」などと呼ばれ、社会問題になっている。なぜ同じような事故が起きてしまうのか。哲学者の小川仁志氏は「事故が繰り返されるのは、車社会に対する倫理観が不足しているから。哲学者ハンナ・アーレントの『悪の陳腐さ』と『無思考性』に学ぶ必要がある」という――。

■運転は、長年の習慣だから危ない

池袋で起きた高齢者ドライバーによる大事故は、世間の耳目を集めました。しかし、高齢者ドライバーによる事故は珍しいものではなく、もはや社会問題となっています。6月に入ってからも福岡で81歳の運転する車が暴走する事故がありました。

高齢者が運転しやすいからか、たまたまプリウスによる事故が目立ったため、危険運転による事故は「プリウスミサイル」などと呼ばれています。まさに突然静かに襲いかかってくるミサイルみたいなものなので、避けようがないのです。

高齢者ドライバーには講習会があるなど、免許の返納制度があるにもかかわらず、どうして事故がなくならないのか。その背景には、運転に対する彼らの2つの誤解が横たわっているように思えてなりません。

つまり、①自分は大丈夫という誤解と、②ミスはたいしたことじゃないという誤解です。高齢者に限ったことではありませんが、人は事故のニュースを見ても、自分は大丈夫だと思いがちです。とくに、日常生活に大きな支障がなければ、そう思ってしまうのです。自分はまだ身体をコントロールできてると。

たしかに、自分で起き上がろうと思えば起き上がれる、自分でつかもうと思ったものはちゃんとつかめる。その程度のことができていれば、運転もできるのでしょう。運転は長年の習慣みたいなものですから。

■身体を信頼しすぎてはいけない

しかしそこに罠が潜んでいるのです。そもそも車の運転が習慣のようになっているということは、もはや自分でいちいち身体に命じてその行為をしているわけではないということです。身体は、ある意味で無意識のうちに動いているのです。

私も毎日車で通勤しているからわかりますが、どんなに眠くても、頭で考えながらギアを変えたり、ハンドルを切ったりする必要はありません。ほぼ無意識にやっています。逆にいうと、もしかしたら身体が勝手にちがうことをする可能性だってあるということです。

これについて、フランスの哲学者メルロ=ポンティは、「身体の両義性」ということをいっています。つまり、身体には2つの側面があるということです。1つは、自分の意識でコントロールできる側面。もう1つは、意識とは無関係に働いている側面です。自分の中にあるにもかかわらず、勝手に動くなどというのはなんとも不思議ですが、臓器を思い浮かべてもらえばいいでしょう。心臓を動かそうと思って動かしている人はいないはずです。

それと同じで、手足だって、常に意識のコントロールに従っているわけではないのです。ここから得られる教訓は、身体を信頼しすぎてはいけないということです。いくら自分の意識に自信があっても、それと身体をコントロールできるかどうかは別の話なのです。そこのところの誤解を捨てない限り、いつなんどき自分が加害者になってもおかしくはありません。

■ささいなミスの延長線上に巨悪がある

中には、そういうこともありうると自覚している人もいるかもしれません。ときには無意識にミスをすることもあると。人間ですから、ヒューマンエラーは避けられません。しかし、ここでの誤解は、それがたいしたことじゃないと思ってしまっている部分にあります。つまり、車の操作ミスはたいした悪じゃないと思い込んでいるのです。

人が亡くなるような大事故を見ると、それが大きなまちがいであることはよくわかると思います。なんて悪いことをしてしまったんだと。でも、人は自分がそうした大事故を起こさない限り、ことの重大さに気づかないのです。なぜなら、運転時の操作ミスそのものは、日ごろのちょっとしたまちがいにすぎないからです。ボケっとしていて、ワイパーとウインカーをまちがえたとか、ライトをつけっぱなしで走っていたとか。

そのレベルなら、何も免許を返納するまではないと思うことでしょう。しかし、大事故はその延長線上に起こっているのです。これは、悪に対する誤解によるものです。私たちはつい、悪とは大変な過ちによって生じるものだと思いがちです。殺意をもって猛スピードで歩行者の列に突っ込んでいくとか。でも、ブレーキとアクセルの踏みまちがいは、ワイパーとウインカーの間違いとなんら変わりません。

どちらもちょっとしたミスなのです。ところが、そのちょっとしたミスが、大きな悪につながりかねないのです。ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントは、まさにそんな「悪の陳腐さ」と「無思考性」について論じています。

■一刻も早く倫理観を高めよ

彼女は、多くのユダヤ人を強制収容所に送り込んだナチスの幹部が、ただ何も考えずにハンコを押す仕事をしていただけの役人であることを発見します。つまり巨悪は、日ごろのちょっとした悪の積み重ねの中で起こる陳腐なものだということに気づいたのです。ということは、誰もが知らず知らずのうちに巨悪を犯してしまう可能性があるということです。よく考えずに行動している限りは。

したがって、加害者にならないようにするためには、自分の身体を疑うと同時に、自分の小さなミスが巨悪を引き起こすという自覚を持つことです。そうすれば、少しでも判断能力の鈍ったような人は、免許を返納するということになるはずです。

これはいくら社会の側が基準を厳しくしても、なかなかうまくいきません。本人が大丈夫だといえば、おそらく免許を取り上げるところまではいかないでしょう。そのレベルまで基準を上げるとすれば、年齢にかかわらず、少しミスの多い人は免許を持てなくなってしまいますから。

だからあくまで本人の倫理観を高めるよりほかないのです。社会がすべきなのは、高齢者の運転に対する倫理観を高める風潮をつくることです。そのためには、決して高齢者ドライバーを闇雲に非難しないことです。それだとただの感情的な世代間対立を生むだけです。そうではなくて、もっと論理的に事柄の本質を明らかにしていくことが求められるのです。

■「車を見たらミサイルと思え」

一方で、被害者にならないために何かできることはないでしょうか? これは先ほど2つの誤解で述べたことがそのまま当てはまります。

メルロ=ポンティのいうように、身体には両義性があること、そしてアーレントのいうように、巨悪は小さな悪を軽視することによって引き起こされるものであることを意識すればいいのです。

そうすれば、必然的にもっと車を警戒するようになるはずです。これまで私たちは、車を運転している人はそれなりに身体をコントロールできている人だと信じきってきました。そして、よほど悪い意図がない限り、車で突っ込んでくることはないと高を括ってきたのです。

その信頼を疑い、もしかしたら自分の身体をコントロールできない人が運転しているかもしれない、そしてちょっとしたミスで突っ込んでくるかもしれないと認識を改める必要があるのです。

「人を見たら泥棒と思え」ではないですが、「車を見たらミサイルと思え」というのは、今や自己防衛のための最適のスローガンなのかもしれません。

■車社会そのものを見つめ直すことが必要

残念なことではありますが、自動運転がもっと普及するまで、あるいは高齢者ドライバーが早期に自主的に免許を返納する日が来るときまで、しばらくは警戒が求められます。いや、仮に自動運転が完全が普及したとしても、それはそれでまたコンピューターのミスによる事故が起きないとは限りません。

本当は車社会が到来した瞬間から、私たちはもっと警戒して生きていくべきだったのかもしれません。こんなに多くの交通事故の犠牲者を出す前に。高齢者ドライバーの問題は、単に高齢者の問題に矮小化してしまうのではなく、むしろいま一度私たちが車社会そのもののあり方を根本から見つめ直すきっかけにすべきではないでしょうか。

たとえば、より人を守れるインフラやテクノロジーの導入、より厳しい交通ルール、そのための教育、あるいは車とはまったく異なる交通の仕組みやライフスタイルなど。高齢者だけを非難する前に、考えるべきことはたくさんあるように思うのですが……。

(哲学者 小川 仁志 写真=EPA/時事通信フォト)

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