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"親が創価学会"の子の悲惨すぎる学校生活

プレジデントオンライン / 2019年6月14日 9時15分

2006年10月7日、東京・八王子市の創価大学にて、北京師範大学から名誉教授の称号を贈られ、拍手する創価学会の池田大作名誉会長(写真=時事通信フォト)

創価学会の子供たちは「神社の鳥居」をくぐることができない。このため修学旅行や初詣で、周囲から疎まれることがある。命名の由来でも、2世は問題に直面しやすい。宗教学者の島田裕巳氏は、「信教の自由を重んじるのであれば、なんらかの配慮は必要なはず」と指摘する――。

※本稿は、島田裕巳『親が創価学会』(イースト新書)の第2章「『親が創価学会』だとどうなるのか」と、第3章「なぜトラブルに直面するのか」の一部を再編集したものです。

■学会員のステータス「命名は池田先生」

「親が創価学会」というとき、生まれて最初に起こる問題が命名である。

赤ん坊が生まれたとき、出生後2週間以内に届け出をしなければならないことが法律で定められている。その際、赤ん坊には名前が必要である。

誰が赤ん坊の名前を決めるのか、命名者が誰かは重要である。現在では、親がつけることがほとんどだろう。だが、創価学会の会員だと、「池田先生」に命名してもらうという選択肢がある。

池田氏に赤ん坊の命名をしてもらいたいときには、定められた手続きが必要だ。

地域の拠点となる会館に出向き、そこで申請用紙に記入する。すると、その書類は本部に送られる。命名がおこなわれると、書類を提出した会館から返事がある。申請者が会館へ出向くと、きれいな和紙に毛筆で赤ん坊の名前が記されている。その紙がまだ実家にあるという会員も少なくないだろう。

池田氏に命名してもらった会員の子弟がどれほどの数にのぼるかはわからない。ただ、命名してもらった会員は、ほかの会員からうらやましがられることが少なくない。

多忙な池田氏が、申請された一人ひとりの名前を実際につけているのかどうか、それはわからない。精力的に各地をまわり、会員を激励し続けてきたことから考えれば、池田氏本人が命名してきた可能性も考えられる。少なくとも会員は、「自分の子どもは池田先生に命名してもらった」と信じている。

■子どもにとっては一生のコンプレックスになることも

ただ、名づけ親が池田氏であることで嫌な思いをする子どももいる。

学校で、自分の名前がどのようにしてつけられたのか調べるといった授業もある。そのとき調べてみて、名づけたのは親ではなく、池田氏だということを知る。子ども自身がそのことをどのように感じるかということもあるが、学校でその事実を公表しなければならなくなる。

ほかの子どもはたいがい、親や祖父母につけてもらったと答える。となると、自分だけ違うということがコンプレックスになったり、これは人に告げてはならないと感じるようになったりもする。それは創価学会にちなむ名前をつけられている場合も同じだ。

そうした事実を学校で明らかにすると、何か問題が起こると感じているようなときには、命名の由来を曖昧にしか言えなかったり、隠そうとしたりする。名前は簡単には変えられないものなので、子どもにとっては生涯続くコンプレックスとなることもある。

■「伸一」や「信子」は学会員の可能性

池田氏に命名してもらうわけではないが、親自身が、創価学会にちなむ名前を子どもにつけることがある。大作や、池田氏のペンネーム、山本(やまもと)伸一(しんいち)に由来する伸一などが代表で、女の子だと信子(のぶこ)というものもある。『法華経』に由来する法子(のりこ)や妙子(たえこ)もある。創価学会では、「勝利」ということがキーワードになっているので、男の子が勝利(かつとし)と名づけられることもある。

創価学会の現在の会長である原田稔氏は6代目にあたるが、5代目の会長だったのが秋谷(あきや)栄之助(えいのすけ)氏である。秋谷氏は一時、秋谷城永(じょうえい)を名乗っていた。これは2代目の会長だった戸田城聖に由来する。秋谷氏は戸田の弟子である。

■生後すぐ会員にさせられるのは憲法違反か

「親が創価学会」であるというだけで、子どもも創価学会の会員になる。

これは、日本国憲法が保障する「信教の自由」に違反するのではないか、そのように考える人もいるに違いない。

これはなかなか難しい問題である。

そもそも、こうしたことは創価学会だけの問題ではない。

もし「親がカトリック」なら、親は生まれた子どもを所属する教会につれていき、神父に「幼児洗礼」を施してもらう。その際には、必ず「洗礼名」を授けられる。洗礼名には、パウロやマリアなど、有名な聖人の名前が用いられる。

これによって、赤ん坊は、自分が知らないうちにカトリックの信者になる。プロテスタントのなかにも、幼児の段階で洗礼を受けさせるところがある。

一般の仏教教団であれば、家が単位になっており、特定の寺の檀家(だんか)になっていれば、生まれたときからその宗派の信者ということになる。ただし、洗礼のような特別な儀礼はない。

神道の氏子(うじこ)も同様である。神社のある地域に生まれれば、自動的にその信者になる。「初参り」というしきたりが広がっているが、行くのは主に地域の神社である。それによって赤ん坊は氏子の仲間入りをしたことになる。

つまり、宗教がなんであれ、特定の信仰を持つ家に生まれた人間は、最初から信者として扱われるわけである。

こうした家の親に対して、子どもにも信教の自由があるからと言って、入信させないようにするのは、実際的に不可能である。また、親の方も納得しない。

宗教は生活と密接にかかわっている。信仰を持つ家庭の子どもに宗教と無縁な生活を送らせることは難しい。それに、親が子どもに信仰を伝えることも、信教の自由としてとらえられる。

赤ん坊には、信仰を与えられたことが良いことなのか、それとも悪いことなのか、その判断はつかない。そうしたことについて考えるようになるのは、かなり成長してからである。

なかには、創価学会の信仰をそのまま受け入れ、会員としての生活を送っていく者もいる。

反対に、成長してから、親から与えられた信仰に疑問を持ち、脱会まで考えるようになる者もいる。

■2世が学校で直面するトラブルの一例

「親が創価学会」であれば、さまざまなトラブルに直面する。

最初の大きな出来事は、修学旅行の際に起こる。

中学生や高校生になれば、修学旅行の機会がめぐってくる。最近では、修学旅行の行き先や内容は多様化しているし、地域によっても変わる。だが、もっとも多いのは京都や奈良への修学旅行である。それが定番である。

京都にはかつて平安京があり、都である時代が長く続いた。そうした歴史を反映して、京都には神社仏閣が多い。

奈良は、京都よりも前に都が置かれていたところで、やはりたくさんの神社仏閣がある。

奈良に修学旅行に出かけるというとき、目的地に選ばれるのは東大寺、春日大社、法隆寺などである。

京都では、金閣寺、清水寺、伏見稲荷大社、宇治平等院などである。

どれも仏教の寺院であり、神道の神社である。

修学旅行で神社仏閣を訪れるのは、信仰のためではない。参拝が目的ではないわけだ。

そうした神社仏閣が日本の歴史のなかで重要な役割を果たしてきたから訪れるのであって、目的は歴史の学習である。

■修学旅行で学会員であることが友だちにばれる

創価学会は、ほかの宗教や宗派を否定する傾向が強い。そのため、神社の鳥居をくぐったり、寺院の境内に立ち入ったりすることを会員に対して長く禁じてきた。

とくにそれは、創価学会が日蓮正宗と密接な関係を持っていた時代に言える。あるいは創価学会が急速に拡大していた時代にはその傾向が強かった。

現在では、その点にかんしてかなり緩くはなっている。鳥居をくぐってもかまわないとする会員も多くなった。

それでも、現在の会員のなかに、神社の鳥居をくぐることさえ忌み嫌う人たちがいる。まして神社仏閣に参拝するなど、「謗法」にほかならないと考える会員もいる。

創価学会の会員の子どもが、修学旅行の際に、親から禁じられた神社仏閣に入ってしまい、それに気づいて、してはならないことをしてしまったと自責の念にかられ、真っ青になって座り込んでしまうようなこともある。

あるいは、神社の鳥居をくぐることを頑(かたく)なに拒むような会員の子どももいて、クラスメイトを驚かせることもある。

クラスメイトの方は、なぜそうするのかがわからないため、その子に対して理由を尋ねる。すると、その子が創価学会の家に育ったことが明らかになる。

それまで友だちに知られていなかった事実が、そこで明らかになるのである。

■「修学旅行で神社仏閣に参拝」は押しつけか

日本人のなかには、自分は「無宗教」であると考えている人は少なくない。子どもであれば、自分は宗教など無関係で、クラスメイトも同じはずだと思っていることが多い。たしかに、一般の家庭なら、日常生活を送る上で信仰はほとんどかかわってこない。

修学旅行先に神社仏閣を選ぶというとき、選ぶ学校の側には、信仰を押しつけるという意識などないはずだ。

だが、それを押しつけとしてとらえる人間もいる。それは、個々の人間の宗教についての考え方にもとづくことなので、そうした人間に対してこれは押しつけではないと簡単に納得させることはできない。

■学校側も宗教トラブルを防ぐための配慮が必要

これは創価学会の事例ではないが、学校現場で信仰のことが大きく問題になったものに、「エホバの証人」の信者が必修科目である武道の授業を受けることを拒否した出来事がある。

エホバの証人はアメリカで生まれたキリスト教系の新宗教で、聖書について独自の解釈をおこなっている。その一つが、学校で武道の授業を受けることの禁止である。信者の生徒たちはそれに従ったのである。

島田裕巳『親が創価学会』(イースト新書)

これに対して、学校は最終的にその生徒を退学処分とした。そこで生徒の側は、それを不当として裁判に訴えた。

地方裁判所における一審では、学校側のやり方が「信教の自由の保障する限界を逸脱し」ておらず、「著しく反社会的なものである」とは言えないとして、原告の生徒の請求を棄却した。

ところが、高等裁判所における二審と最高裁の判決では、武道に代わる手立てを与えなかった学校側に問題があったとして、原告の主張が認められた。

これによって、ほかの学校でも、同様の出来事が起こったときには、信教の自由を優先しなければならなくなった。

創価学会の子どもや親が、修学旅行で神社仏閣を訪問させられたことで、信教の自由を侵されたと裁判に訴えた事例は、今のところない。そのため、社会的な問題にはなってこなかったが、信教の自由を重んじるのであれば、なんらかの配慮は必要なはずである。

(宗教学者 島田 裕巳 写真=時事通信フォト)

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