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極貧を生きた"ゆめタウンの男"の壮絶人生

プレジデントオンライン / 2019年6月28日 9時15分

画像=『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』

広島発の総合スーパー「ゆめタウン」は、営業利益率でイオンやイトーヨカドーを上回ることで知られる。その創業者である山西義政名誉会長(96)の半生は波乱の連続だった。極貧の少年時代から、商いの世界で頭角を現すまでを紹介しよう──。

※本稿は、『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■野山を走り回ったわんぱくな少年時代

私の生まれは、1922(大正11)年9月1日、関東大震災のちょうど1年前です。山口県に接する広島県大竹市で生まれましたが、すぐに広島市南区宇品に転居しました。

その頃は両親と私、それに妹の4人暮らしでした。他にもきょうだいはいたようですが、生活が苦しく養子に出すなどして、私と妹だけが残ったということです。

父は大の酒好きで、収入も安定せず、暮らし向きは苦しかったです。住まいは6畳一間で風呂もなく、便所も共同という環境でした。しかし、私はそんな家庭であっても父親が大好きでしたし、家族も愛していました。

近隣は自然にあふれていて、遊び場には事欠きません。友達とともに野山を走り回り、木登りをして遊ぶなど、わんぱくな少年時代を過ごしました。ただ、母親が病弱で、妹もまだ幼かったので、子供心に自分も家計を助けなくては、という思いが募っていきました。

やがて、学校から帰ると、シジミ、アサリの行商をするようになりました。

■学校が終わるとハマグリやシジミを売り歩いた

宇品という町はすぐ目の前が海で、浜は浅瀬になっていました。そこではハマグリ、アサリ、シジミが取れるのです。学校が終わると、すぐに海へ行き、ハマグリやシジミを取っては、リヤカーに積んで売り歩きました。

夕飯時にリヤカーで歩いていると、必ず買ってくれる人がいました。たいていが家庭の主婦です。そのためにも、大きな声で「シジミに~ハマグリ~、アサリ~」と売り声を出さなくてはいけません。黙ってリヤカーを引いているだけでは、誰も気づかないのです。

売り声もリズムをつけて、語呂をよくした方が耳に心地いい。リズミカルに売り声を上げていると、各家庭の主婦たちが集まってきます。そんなことをいろいろ研究し、試していました。

「シジミ~ハマグリ~、シ~ジミ~に~アサリ~」
「坊や、アサリのいいの、ある?」
「あるよ。今日はたくさん取れたから」
「じゃ、今日はアサリのお味噌汁にしようかしら」
「おばちゃん、ありがと!」

■16歳で父親が他界し一家の大黒柱に

16歳のとき、父親が亡くなりました。脳溢血です。私たち一家が貧しいながらも明るく元気いっぱいに暮らしてこられたのは父親のおかげです。その父親がいなくなったことは、とてもショックでした。

しかし、いつまでも悲しみに打ちひしがれているわけにはいきません。16歳にして、母と妹を養っていかなくてはならなくなったのです。山西家の生活が、一気に私の両肩にのしかかってきました。

それからは、これまで以上に仕事に励むことになりました。一つの仕事だけでは一家の暮らしはまかないきれません。いくつもの仕事を掛け持ちしました。昼間は軍需工場。そこで旋盤を使って、さまざまな機械の部品を作りました。夜は宇品港で船に荷を運ぶ港湾労働者として働きました。

そうこうするうちに私も20歳になり、徴兵検査を受けることになります。検査の前年に太平洋戦争が始まっていましたから、甲種合格になるとすぐさま召集令状が送られてきました。

召集された私は海軍に回され、大竹にあった海兵団で3カ月の訓練を受けました。そこから配属先が決められたのですが、「お前は航空母艦や」ということで、私は「飛鷹」という航空母艦に乗船するように命令されたのです。

私は機関兵としての勤務で、エンジンルームでの作業が主でした。機械を動かすことはできませんので、雑用やエンジンの掃除です。空母を動かしているのは自分たちだという誇りもあり、仕事はやりがいがありました。そして何より、海軍では三度三度の食事をきちんととれることがありがたかったです。海軍では朝から夕方まで働けばよく、食事も質・量ともに豊かです。今までの生活に比べたら雲泥の差で、「こんないいところはないな」と私は満足していました。

■「くじ引き」で決まった工機学校への入学で命拾い

1943(昭和18)年の末ごろになると、アメリカの潜水艦が日本近海までやってくるようになっていました。あるとき、館山沖にいた飛鷹に三発の魚雷が打ち込まれ、大破してしまいました。

修理には半年ほどかかるということで待機していたのですが、その間に海軍の工機学校を受験することになりました。合格したのは2人だけで、そのうちの1人が私だったのです。ただ、採用は一人だけということで、くじ引きで入学者を決めることになり、私がくじに当たって工機学校に行くことになりました。

ところが、この学校に通っている間に飛鷹は修理を終え、出港してしまいました。戦局が悪化するなか飛鷹が向かった先は、マリアナ沖でした。アメリカのサイパン島上陸作戦に対抗するため、日本海軍が総力で挑んだ戦いです。

しかし、空母、戦闘機の数では圧倒的にアメリカが優勢でした。多くの空母、戦闘機が失われ、飛鷹も撃沈されて海の底に沈んでしまったのです。

私は、かろうじて命拾いをしました。もしも、工機学校に合格していなければ、間違いなく飛鷹に乗り込み、マリアナ沖に出撃していたはずです。そして、空母とともに海の藻屑となっていたことでしょう。

工機学校を卒業すると、今度は広島の大竹市にある潜水艦学校に入学することになりました。航空母艦から潜水艦の機関兵にくら替えとなったわけです。潜水艦学校で訓練を受けたのち、世界一大きな潜水艦といわれた「伊四〇〇型潜水艦」に乗るよう命じられました。

この潜水艦は一度出航すると、地球を1周半するぐらいの航続力を有していました。おまけに潜水艦内に戦闘機を3機収納したまま潜航することができたのです。

■再び「九死に一生」を得た

機関兵だった私のポジションは、機械室の指示や命令を伝える伝令でした。

大型のタンクに水を入れることで潜水艦は沈下しますが、その際「ベント開けー!」と命令を伝えるのが私の役目です。重要な指示ですので切迫感をもってタイミングよく伝えなければならず、ジェスチャーを交えるなどいろいろと工夫をしました。

巨大潜水艦だったにもかかわらず、伊四〇〇の艦内は狭く、とても窮屈でした。蚕棚のようなところに居住し、「できるだけ明かりは消せ、水はあまり使うな、運動はせず息をする程度にしろ」といった具合に、水やエネルギーを節約する生活を強いられました。

戦局が悪化するなか、アメリカ海軍各部隊の集結地点になっていたウルシー環礁への出撃が決まりました。1945(昭和20)年8月のことです。この爆撃に向かったら、もう生きて帰ってはこられない、そのような覚悟での出撃です。

折悪しく台風の季節でした。私たちの潜水艦が出撃する前に偵察に出る僚艦「伊四〇一」の到着が、台風のために遅れていました。私たちは、ウルシー環礁を前に、一日待機せざるを得ませんでした。

ようやく僚艦が到着し、明日はいよいよ爆撃に出るという日のこと、1本の無線電報が届きました。天皇陛下による終戦の詔勅がなされたということでした。つまり、戦争が終わったのです。

私は、ここでまた九死に一生を得ました。

■「本当に何もなくなった」広島を呆然と眺めた

日本が無条件降伏をしたことで、航空母艦並みの威力を持つ伊四〇〇型潜水艦は、すぐにアメリカ軍に接収されてしまいました。アメリカ兵たちが次々と艦内に乗り込んできて、日本の国旗が降ろされ、アメリカの国旗が掲げられました。

その後、私たちは横須賀へと連れていかれ、そこで復員ということになりました。

「とにかく広島へ帰ろう」

私は横須賀から立錐の余地もない満員の汽車に乗り込み、何度も何度も乗り継いで、広島へと向かいました。

ようやく故郷の広島に降り立った私は、目の前に広がる焼け野原を呆然と眺めていました。

「本当に、何もなくなってしまったんだな」

一つの都市を根こそぎ壊滅させた原子爆弾の威力を見せつけられるとともに、日本に突き付けられた敗戦という現実を身に染みて実感しました。

■あの頃と同じように「必要な物」を売ればいい

「さて、これからどうするか」

駅前を眺めてみると、露店が並んでいます。いわゆるヤミ市です。町中は一面の焼け野原なのに、その界隈だけは人混みもあり、活気にあふれていました。

露店の間を縫うようにして歩いてみました。

本当にいろいろな物が売られていて、老若男女、大人から子どもまでが、生きるための物資を求めて訪れています。大声で話す人たち、走り回る人たち、売り物を値切る声、立ちのぼる湯気、得体の知れない食べ物の焼ける匂い……猥雑ではあるものの、それまで抑圧されていた民衆のエネルギーが満ちていました。

その光景を見ていると、私はかつてアサリやシジミを売り歩いたことを思い出しました。あのころと同じように、また人々の欲しがる物、必要な物を売ればいいのではないか。

■潜水艦での戦友との会話を思い出した

そう考えていたとき、ふと、潜水艦に乗務していた折に同じ部隊にいた戦友と交わした会話を思い出しました。彼は広島県北部の三良坂出身でした。

「うちは農家じゃが、秋には柿がよおけできてのお。それを干し柿にしとるんじゃ」

そうだ。戦友の家では干し柿を作っていたんだっけ──。

ヤミ市を見ていると、誰も彼もが腹をすかしています。私もまた同じように空腹を抱えていました。ですから、食べ物を売る露店が最も多かったのです。

ただ、米や野菜を使った雑炊や、魚や肉の生鮮食品はつてがないので、すぐには手に入りません。しかし、干し柿なら手に入るかもしれないし、すぐに食べられるから売れるのではないだろうか。そう考えました。

■兵隊仲間の家を訪れて干し柿を仕入れた

兵隊仲間の家はうろ覚えでしたが、とにかく訪ねてみることにしました。

三良坂までは汽車で二時間かかります。彼のところは、その福山でも山の方にあり、駅から半日ほど歩いていかねばなりません。

それでも、やっと探し当てたのです。彼も復員していて、農作業をしていました。

「おお、山西!」

私は干し柿を分けてもらえないかと頼み込みました。彼は快く、できたばかりの干し柿を売ってくれたのです。

その仕入れた干し柿を持って、早速、広島駅の前で露店を開きました。といっても、戸板を置いて、その上に干し柿を並べただけの店です。

ところが、この干し柿が飛ぶように売れました。

■「花嫁衣装より干し柿一つ」が大事だった

当時、口に入る物なら何でもありがたかったのですが、干し柿は旬でもあり、とても甘くできていました。当時、甘みは大変なごちそうです。

山西 義政『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)

すべて売り切ったので、すぐにまた戦友の家に向かい、干し柿を分けてもらいました。

終戦直後は、とにかく物がない時代です。お金がなくても物があれば、物々交換で商売は成り立っていました。

干し柿を食べたいけれどお金がない。そこで、家にあった物を持ってきて「これと交換してくれないかね」という人がたくさんいました。「干し柿、くれんか」と配給で手に入れた地下足袋を差し出す人や、嫁入りしたときの衣装を持ってきて「替えてくれんね」という人もいました。自分の子どもがひもじい思いをしているときに、花嫁衣装よりも干し柿一つの方が大事だったのです。

こうして広島駅前のヤミ市で干し柿を売ったのが、私の戦後の商売の始まりだったのです。

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山西 義政(やまにし・よしまさ)
イズミ名誉会長
1922年9月1日、広島県大竹市に生まれる。20歳で海軍に入隊し、当時世界一といわれた潜水艦「伊四〇〇型」に機関兵として乗艦。オーストラリア沖ウルシー環礁への出撃途上、西太平洋上で終戦を迎える。戦後、広島駅前のヤミ市で商売の道に進む。1950年、衣料品卸山西商店を設立。1961年、いづみ(現イズミ)を創業し、代表取締役社長に就任。同年、スーパーいづみ1号店をオープン。1993年、代表取締役会長。2002年、取締役会長。2019年5月より名誉会長。西日本各地に「ゆめタウン」などを展開し、一大流通チェーンを築く。

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(イズミ名誉会長 山西 義政)

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