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銀行はもうずっと前から"弱体化"していた

プレジデントオンライン / 2019年7月5日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Motortion)

なぜ銀行はここまでダメになったのか。住友信託銀行(当時)の副社長を務めた大塚明生氏は「1970年代後半から『預貸ビジネス』はもう限界だった。だが『なんとかなる』という思考停止により、後戻りできないところまで来てしまった。多かれ少なかれ日本のあらゆる業界で、同様のことが起きている。銀行の構図は日本の縮図だ」という――。

※本稿は、大塚明生『バンカーズ・コード』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■銀行の収益源「預貸金の利ざや」が縮小している

そもそも銀行はなぜここまで弱体化したのか、その原因について触れておきましょう。

ご存じのように、伝統的銀行業務の柱は預貸ビジネスです。つまり、企業や個人から預金を集め、それを企業や個人に貸し出す。ざっくり言えば、普通預金など利回りの低い流動預金(調達)と貸出金の金利(運用)との利ざやが主たる収益源です。

では、その預貸ビジネスがなぜ今苦況に陥っているのか、巷間よく挙げられているのは次のような理由です。

●事業基盤のベースとなる人口の減少
●一般企業における資金需要の低下
●「オーバーバンキング」と言われるほど店舗数が多いことによる過当競争
●日本銀行の異次元金融緩和・マイナス金利政策による超低金利の長期化

これらの理由から、どの銀行も収益源たる預貸金の利ざやが急激に縮小し、収益構造の悪化が深刻なものとなっていると言われています。

参考までに国内銀行の金利推移を、貸出金、普通預金で見てみましょう(日本銀行統計より)。1990年度末の新規貸出金利は8.1%、普通預金金利は2.1%でした。ところが2010年度末はそれぞれ1.1%、0.0%となり、2017年度末では0.6%、0.0%にまで低下しています。新規貸出金利から普通預金金利を引いた利ざやで見ると、推移は6・0%↓1.1%↓0.6%とその縮小は明らかであり、収益獲得が困難となっているのがよく分かります(図参照)。

厳しさを増す預貸ビジネス(画像=『バンカーズ・コード』)

■何十年も前からすでに機能不全に陥っていた

しかし、このような事態を招いた真の理由はほかにあると私は考えています。

預貸ビジネスのビジネスモデル自体が、何十年も前から機能不全に陥り始めていたのです。

その理由は2つあります。

一つ目は、社会が間接金融から直接金融へ移行してきたことです。

そもそも今日の日本の発展は、戦後、官民が一丸となって重厚長大産業を興したことに始まります。旺盛な資金需要を持つ企業とそれを奨励する政府が手を携えて、世界が驚くほどの経済発展を遂げたのがわが国の高度成長期でした。このとき、銀行は重要なプレーヤーとして経済活動の血液たる資金を企業に融資し続けました。まさに間接金融の時代です。

当時を象徴するエピソードとして、川崎製鉄(現JFEスチール)が戦後初の臨海製鉄所を千葉市に建設した際の話が有名です。

昭和25年、当時の同社の資本金は5億円。対して建設資金は163億円。無謀な計画だと世論の逆風は強く、法王と呼ばれるほどの存在だった一萬田尚登日銀総裁から「建設を強行するなら製鉄所の敷地にぺんぺん草が生えることになる」と毒づかれるほどでした。

■高度成長期の終わりとともに蜜月関係に陰り

しかし当時の西山弥太郎社長は「臨海製鉄所で鉄を造れば、競争力のある製品ができ、それを世界に輸出できる。これからは鉄だ」といささかもひるみませんでした。次第に官僚や企業人の間に川崎製鉄を支援する動きが広がり、融資を申し出る銀行が複数出現。ついに川崎製鉄は資金を調達することに成功し、千葉製鉄所建設を成し遂げたのです。川崎製鉄のその後の成長については改めて述べるまでもないでしょう。

しかし、こうした銀行と企業の蜜月は高度成長期の終わりとともに陰りを見せるようになります。そもそも社会が成熟してくると、企業は必ずしも銀行に頼らなくても資金調達ができるようになっていきます。現在では企業は成長すると社債や株式の発行を通して、銀行を通さずに市場から直接資金調達する機会が増えています(直接金融)。クラウドファンディングのような方法も出てきました。銀行は、企業にとってなくてはならない存在とは言えなくなってきているのです。

■大規模設備投資の需要がなくなってしまった

もう一つの理由は、産業構造の変化です。

戦後日本の経済成長の中心は長らく製造業でした。成長に伴って設備投資を必要とする製造業に対して資金を融資し、それがさらなる経済成長につながっていくという循環の中で、銀行は役割を果たしてきたと言えます。先に挙げた川崎製鉄のエピソードはまさにその時代のものです。

しかし、時代は変わり、今も製造業は日本社会の主要な産業の一つですが、かつて日本を支えた重厚長大産業の成長は鈍化し、大規模設備投資を必要とするような需要はもはやほとんど見込めません。

間接金融ニーズの衰えに加え、そもそも資金需要そのものが低下している――。

従来型預貸ビジネスは、日本が力強く経済発展を遂げていた高度成長期だからこそ、機能していたビジネスモデルだったのです。

バブル崩壊直前には、従来型預貸ビジネスの衰退を象徴する事件も起きました。日本興業銀行(興銀)が引き起こした「尾上縫事件」です。

■「北浜の天才相場師」と呼ばれた料亭の女将

尾上縫は、バブル絶頂期の1980年代末、「北浜の天才相場師」と呼ばれた料亭の女将です。彼女は数千億円を投機的に運用しながら、占いと神のお告げによって株式相場の上昇などを見事に言い当てたことから、多くの証券マンや銀行員が彼女のもとに群がりました。興銀は1987年に10億円分の割引金融債「ワリコー」を購入してもらったのを発端に融資を膨らませ、1989年には融資残高は586億円にまで上りました。尾上に不動産投資もすすめ、尾上の資産管理を行う株式会社も設立されました。

しかし、バブル景気の陰りとともに尾上の資産運用は悪化しました。このため尾上は東洋信用金庫につくらせた架空の預金証書や興銀のワリコーを担保にさまざまな金融機関から融資を引き出し、最終的には12の金融機関から3420億円を詐取したのです。興銀がバックについているなら安心、という認識が被害を広げました。のちに尾上が破産宣告を受けた際の金融機関からの借入金総額は、のべ2兆7736億円。負債総額は4300億円という驚くべきものでした。

産業金融の雄とまで言われた日本興業銀行が、このような胡散臭い不動産、財テク投資を行う人物に嵌ってしまった背景には、すでに企業の資金需要が低下していたことがあります。融資先の開拓に苦慮していた興銀の行員は、大口融資先という目の前の誘惑に抗しきれなかったのでしょう。

■時代の変化に「徹底的に鈍感」になった銀行

実は、預貸ビジネスの限界は、私が入社した1970年代後半にはすでに見え始めていました。

例えば戦後、基幹産業向け長期資金供給のために創設された信託銀行の主力商品である貸付信託の場合、住友信託銀行を例に取ると高度成長期である1970年当時には94.5%が貸付信託勘定から直接貸し出しされていましたが、徐々に減少し始め1990年にはその比率は54.2%にまで低下しています。

その当時ですらそのような状況だったのですから、このビジネスモデルに限界があることは明らかでした。

ところが、銀行は大きく改革方向に舵を切ることができず、ジリジリと地盤沈下を続けてきたのです。

さらに、人口減少が進むとともに急速なIT化、AI化の波が訪れ、社会の変化が加速し、銀行の危機が一気に顕在化した……。

これが、銀行がここまで弱体化した本当の理由だと思います。

こうなる前に銀行は変わるべきでした。気づいていたのですから、もっと早くに手を打つべきでした。

時代は常に移り変わります。照る日もあれば曇る日もあります。確かに資金需要の低下や産業構造の変化など個々の問題は逆風です。しかし、常に順風が吹き続けるようなそんな平穏な時代はありません。市場環境は常に移り変わる、これは当然のことです。

なのに、銀行は時代の変化に徹底的に鈍感になってしまった。

■「なんとかなる」の思考停止で茹でガエル寸前に

なぜ、銀行は変わることができなかったのか。

大塚明生『バンカーズ・コード』(プレジデント社)

それは銀行が規制業種であり、他業界と比べて事業が存続できなくなるリスクが低く、変わらないままでもなんとか生き残ることができたからです。いわゆる護送船団方式の中で、銀行は外に目を向けるのではなく、横並びのまま量的拡大競争を続けてきました。

なんとかなるという意識が思考停止を招き、後戻りできないところまで来てしまった。いわば、茹でガエル寸前にまで来たわけです。

つまり、銀行衰退の最大の原因は、銀行が「変革力」を喪失してしまったからにほかなりません。

こうした状況は、何も銀行業界だけで起きていることではありません。

多かれ少なかれ日本のあらゆる業界で同様のことが起きています。銀行の構図は日本の縮図なのです。

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大塚 明生(おおつか・あきお)
Ohtsuka Associates Japan 代表取締役
1953年生まれ。1976年京都大学法学部卒業。住友信託銀行(現三井住友信託銀行)に入社。東京営業第一部、営業企画部、企画部等を経て、1996年に年金信託部に異動後は一貫して企業年金事業に携わり、日本の企業年金マーケットのトレンドを牽引してきた。2011年取締役副社長に就任。その後顧問を経て、2019年4月に資産運用ビジネスに関わるコンサルティング会社を立ち上げる。著書に『戦略的年金経営のすべて』(金融財政事情研究会)をはじめとする投資・金融に関する専門書、『逆境のリーダー』(集英社)など。

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(Ohtsuka Associates Japan 代表取締役 大塚 明生 写真=iStock.com)

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