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痴漢防止スタンプに潜む冤罪以外のリスク

プレジデントオンライン / 2019年7月3日 9時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Tsuji)

痴漢を防ぐ効果的な対策が見つからない中、文具大手のシヤチハタが「痴漢対策用スタンプ」の商品化を検討すると明らかにし、議論を呼んでいる。法政大学ビジネススクールの高田朝子教授は「一方的に加害者の判を押される側の立場も考えるべきではないか」と指摘する――。

■シヤチハタが「痴漢撃退スタンプ」を作ると表明

痴漢に遭った際に犯人を刺せるよう、自己防衛のために安全ピンを持ち歩くという話が、今年5月にTwitter上で話題になった。中学時代に痴漢被害に遭った際に保健の先生から受けたアドバイスを、女性が漫画にして紹介したもので、瞬く間に多方面に拡散され賛否両論の論争となった。

この投稿から約1週間後、シヤチハタ株式会社(名古屋市)が公式Twitterアカウントで「今現在Twitterで話題になっている社会問題の件ですが、早期に対応ができるようにします。ジョークではなく、本気です」と宣言した。護身用の痴漢撃退スタンプの開発を検討すると明らかにし、多くの女性たちから喝采を浴びた。

その後、「最初にご提案できるのは従来のネーム印とほぼ変わりません。今後段階的に形にできればと考えております」「目指すべきはこの社会問題が根絶され、“護身用グッズが必要ない世の中”になる事です」と続けて投稿し、この問題に会社として本気で取り組むことを示した。これに対して、圧倒的な賛成の声と、冤罪を危惧する声とで同社のTwitterは一時、甲論乙駁の状態になった。

製品化の経緯について、同社広報部は「公式ツイッターへの投稿を担当する女性社員が、ネット上のやり取りに反応したことから社内でプロジェクトが始まった」と説明。「具体的な商品像はこれから議論するが、会社として対応すべき問題と捉えている」と答えている。(毎日新聞<痴漢に「刻印」護身用スタンプ開発へ シヤチハタ「本気です」 ネットで反響「証拠になる」>2019年5月28日)

同社は、かねてから社会的問題を製品によって解決することを重視し、同スタンプもその一環として位置付けているという。

■被害者目線で語られることが多いが……

人生の長い期間、満員の通学・通勤電車と縁が切れない筆者にとっては、痴漢問題は身近である。若い頃は痴漢の恐怖におびえ、年を取ってからは月に何度かは車両のどこかで起きた痴漢への対応で電車が遅延し、予定に遅れそうになり焦る。

痴漢問題は首都圏の満員電車を毎日利用する者にとって、常に意識のどこかにあるといっても過言ではない。多くの人は、車内放送で聞かれる「お客様トラブルのために電車が遅れます」のアナウンスに、痴漢の発生を想像し、溜め息をついて痴漢をする人への怒りをあらわにする。迷惑を掛けられた人は加害者に鉄槌を下したい気持ちを持つ。

被害者の感情を想像し、寄り添い憤ることはたやすい。痴漢問題は、大多数の人が被害者の視点で事態を考え、憤る。しかし、筆者は友人のある経験から、痴漢問題に別の視点を持つようになった。身に覚えのない「加害者」の烙印(らくいん)を押された人の視点である。

古い話になるが、他大学に勤める同業者の友人の教え子が、満員電車の車内で痴漢を疑われた。教え子の青年は一貫して無罪を主張したが警察に引き渡された。

警察がどのような対応だったのかは筆者は分からない。ただ事実として知っているのは、彼がその後程なくして自殺したことである。

事件の少し前にあった同窓会で、彼は私の友人に「仕事はとてもきついが面白くなってきた」とうれしそうに近況を語っていたという。第1希望の就職先に進み、付き合っていた恋人とも結婚の話が出ていた時期だった。生前の彼の人となりを知る全ての人々が冤罪であることを信じ、彼の死を悼んだ。

一度痴漢の烙印が押されてしまうと、無罪を証明することはわが国では極めて難しい。2007年に大ヒットした周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」でも、痴漢冤罪の証明の困難さが描かれているので記憶にある読者も多いだろう。

■満員電車で犯人を確実に特定できるのか

満員電車の中で身に覚えのない痴漢を示す“しるし”が体に押され、犯行の証拠だとされたらどうだろうか。絶望することは想像するにたやすい。そもそも、首都圏の立錐の余地もない満員電車で、果たして真犯人を確実に特定し、しるしを付けることが可能なのかは大いに疑問がある。

首都圏の満員電車を日常とする者はこの疑問を同様に抱くだろう。言い換えれば、首都圏以外の人にとっては満員電車の中で正確に犯人を捕らえる難しさは想像しにくい。

国土交通省が発表した「三大都市圏の主要区間の混雑率」(2017年度)によると、1位は東京メトロ東西線(木場―門前仲町間)の199%である。首都圏だけでも、150%以上のJR・私鉄各線が23区間並ぶ。関西地区のワーストは阪急神戸線の一部区間(147%)、そしてシヤチハタが本社を構える東海地区は名鉄本線の143%である。

混雑率は、改札を通過した人数を、その時間帯に運行される全列車の定員の合計で割った平均値で、実態よりも低く出る。現実には時間帯や、乗る車両によって混雑具合は数値よりも激しい。

国交省によると150%の混雑率は「肩が触れあう程度、広げて楽に新聞を読める」状態、200%の混雑率は「体が触れ合い、相当な圧迫感がある。しかし、週刊誌なら何とか読める」と示している。150%であれば、状況によっては犯人を特定できるかもしれない。しかし、200%になるとその確実性については疑わしい。

■「推定無罪」の原則が揺らぐ恐れも

もう一つ疑問を持つ。スタンプを押す側の判断である。たまたま側に居た人に対して、外見が気持ち悪いから、暗そうだから、人相が悪いから、側に来られたくないから、臭いから、自分がむしゃくしゃしているからという理由で、誰かが誰かにスタンプを押すことは決してないのだろうか。常に正確な判断がなされているといえるのだろうか。

何の検証もないままに一方的に加害者の判を押され、有罪が確定するまではいかなる人も無罪として扱う推定無罪の法原則が侵害されてしまうことをどう考えるのか。そして、正しい理由なくして烙印を押された人たちの心の傷や、怒りや、その後の人生で受ける不都合や不利益について、痴漢撃退スタンプの製造者はどのように担保するのだろうか。

成人した息子を持つ母としても、通勤電車に乗る夫を持つ妻としても、そして多くの男性の教え子を抱える教員としても不安を覚える。

筆者はシヤチハタに対して全く悪意はない。むしろ好意を持っている。業務で毎日シヤチハタのハンコを押している身であり、同社の技術力とブランドには全幅の信頼を置いている。ただ、組織行動論を専門とする経営学者として本事例への一連の対応を見たときに、企業がSNSで形成された世論に乗っかって意思決定をすることについての違和感を強く覚える。

■SNS世論に乗じる企業の責任は議論されているか

うがった見方をしてみよう。同社の一連の対応が社会に対して社名と製品力を売り込むことを目的とした広報活動と考えるのであれば、リツイートの件数は軽く1万を超えていることからも、広報効果としては大成功と評価できる。

痴漢撃退を解決すべき社会課題として考え取り組むことは素晴らしい。多くの痴漢に悩んでいる女性たちに寄り添い、何らかの行動を取ろうという精神には何の異存もない。痴漢は卑劣な犯罪であるし、その撲滅を心から願っている。

しかし、その解決方法が「痴漢の烙印作り」であるというのなら、首をかしげてしまう。企業が行う意思決定の周りには、さまざまな角度からの検討があって然るべきである。筆者が示したような不安も、多くの男性社員が同様に持ったことだろう。

冤罪を生む可能性のある道具を世に出すという、企業の責任についての議論も社内でされているはずである。その上で「現在開発中」の情報発信となるのが筋だろう。

ところが、現状において目立つのは、この種の可能性を、多角的に検討していることよりも、「女性社員が中心となって痴漢撃退の新製品案を練っている」であり(JCAST ニュース 5月27日)、「ジョークではなく本気です」という女性担当者のTwitterでの宣言である。

■多様な意見が封じられる「傍観者効果」

公表されている同社の意思決定の軌跡を見ていると、本事例は視座が被害者女性にのみ置かれているように見える。そしてこの視座の偏りは「傍観者効果」の影響だと考えると分かりやすい。

傍観者効果とは、本来はある問題に対応しなくてはいけないのに行わず、フリーズした状態にあることを示す。傍観者効果が発生すると集団内の行動は停止する。そして、この種の現象は企業によく発生する。

一般に傍観者効果の発生要因は3つある。1つは、大した問題ではないと目前の事象を思い込むこと。2つ目は、多くの人がいるからこそ「自分がやらなくても誰かがやってくれる」と、責任を他人に分散して考えること。最後は、周囲から「なんだあいつ」と悪い評価を受けることを恐れ、反対を唱えないことである。

被害者の女性に寄り添うという大義名分がある以上、否定的な意見は言いにくい。社外に目を向けると、SNS世論では圧倒的な痴漢懲罰支持がある。「皆が賛成しているのだから自分の不安は間違いなのだ」と心に封印をする。内心「この製品はまずいのではないか」「目的外のものに使われるかも」と思う人がいても、それを声に出してディスカッションをすることははばかられる。

「被害者に寄り添わない冷血漢」と評価されることへのためらいが先に立つからである。その結果、自分がここで言わなくても誰かが言ってくれるだろうと、一歩引いて考える人が続出しているのではないだろうか。

■製品開発には“意思の客観視”が不可欠

これに加えて、男性が比較的多い職場で女性が主体となって何らかの課題解決に取り組もうとする姿勢を尊重したいという思いも後押ししただろう。女性たちがイニシアチブをとって頑張っていることに、おじさんが口出ししてはいけないと忖度し、その結果「その話題には触れられない」ある種のアンタッチャブルゾーンとなってしまい、傍観者効果が進んだのかもしれない。

しかし、この忖度は製品開発を考えるのならば全く的外れである。社会的課題を解決しようとしている者にとっては、反対意見を含めた多角的な意見を受けて試行錯誤し進めたいと思うのは当然であるし、課題解決を成功させるためには不可欠である。傍観者効果が進むことは、本質である製品開発において不利益しかもたらさない。

ではどうすれば傍観者効果を避けられるのか。まずは、自分たちの意思決定を常に客観視することである。一つの方向からのみの意思決定に陥っていないか、一息ついて俯瞰(ふかん)して考えることが必要である。その上で時々立ち止まり、少数派の意見を掘り出して聞く姿勢を持つことである。

具体的には、会議の中で必ず反対の角度からの意見を考えさせ、発言してもらい討論することを義務付けること、意思決定の前に多角的に物事を判断する訓練を定期的に実施することなど、今までと違うやり方を試し、意識を変えていく必要がある。実はこれらのプロセスは、現在の日本企業が最も苦手とするものである。

■異論を含めた多様な考えを開発に役立てるべき

多くの管理職が意思決定のやり方を学んだ昭和と平成の時代では、多様な価値観というものにそもそも重きが置かれなかったし、気を配る必要がなかった。似たようなバックグラウンド、似たような考え方の枠組み(マインドセット)を持っている人々が企業内の多数派で主流だったからである。

企業は似たようなおじさんがたくさんいる集団であり、そこで重視されたのは上層部の方針をいち早く忖度し、理解し、足並みそろえて従うことであった。

しかし、人口減少の中、似ているおじさんたちの集合体では企業は機能しなくなっている。女性や外国人、性的嗜好性の違う人々などを受け入れて多角的に意思決定することが求められる。そのためには時間がかかるが、反対意見や違う意見を見つけ、交換し、検討できる環境を企業内に作る以外方法はない。そのプロセスを経て企業としての意思決定がなされるべきである。

筆者は同社の圧倒的な技術力を用いて、多角的な検討の結果、冤罪被害が生じない何らかの痴漢撃退製品の開発が進むことを心から望んでいる。

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高田 朝子(たかだ・あさこ)
法政大学ビジネススクール 教授
モルガン・スタンレー証券会社を経て、サンダーバード国際経営大学院にて国際経営学修士、慶応義塾大学大学院経営管理研究科にて、経営学修士。同博士課程修了、経営学博士。専門は組織行動。著書に『女性マネージャー育成講座』(生産性出版)、『人脈のできる人 人は誰のために「一肌脱ぐ」のか?』(慶應義塾大学出版会)などがある。

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(法政大学ビジネススクール 教授 高田 朝子 写真=iStock.com)

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