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ほぼ日が「古典の学校」を開いている理由

プレジデントオンライン / 2019年7月23日 6時15分

対談は六本木ヒルズ内「PARK6」にて行われた(撮影=白鳥美子)

英国で、100年以上の年月をかけた『中世ラテン語辞書』が完成した。毎日新聞の前欧州総局長・小倉孝保氏は、その仕事の背景にある英国人気質を近著『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社)で描き出している。小倉氏が「この本を書くときに、いちばんに会いたかった日本人」というのが、ほぼ日の学校長・河野通和さんだ。言葉や辞書の話から現代社会に潜む分断の気配まで、縦横無尽に語り合った――。

■「イギリス」を読み解くテーマを探していた

【河野】今回、中世ラテン語辞書について、本を書こうと思うほどの強い関心はどこから生まれたんですか? 世の中には「とにかく辞書が好き」という人が一定数いて、広辞苑を最初から最後まで読むというような辞書好きもいますけれど。

【小倉】僕の場合は、そういういわゆる辞書好きというわけではないんです。新聞社の海外特派員としてカイロ、ニューヨークへの赴任を経て、3カ所目がロンドンでした。ロンドン滞在中にイギリス社会やイギリス人を深く読み解くためのテーマを探していて、その候補として考えていたうちのひとつが英語の辞書の代表とされているOED(Oxford English Dictionary)でした。ただOEDについてはこれまでにほぼ書き尽くされているという印象で、今さら僕が書くまでもないかなと感じていたときに、たまたま新聞を読んでいたら「中世ラテン語辞書プロジェクト完了 101年ぶり」という見出しが目に入ってきたんです。

■「ブレグジット」が辞書に追加されたのは2016年

小倉孝保『100年かけてやる仕事 ― 中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社)

【河野】OEDについては、学生時代に背伸びをして使ってみたところ、現代文のテキストには全く役に立たなかったという思い出があります。あの辞書は成り立ちが非常に面白いそうですね。作家の丸谷才一さんがしきりにそうおっしゃっていました。丸谷さんは辞書が好きで、私が『考える人』の編集長をやっているときに一冊まるごと辞書特集をやったらどうかとけしかけられました。その後丸谷さんの健康状態が悪くなって、結局は実現しませんでしたが。

【小倉】たしかにOEDは外国人が現代英語を学ぶときに使う辞書にはまったく向いていません。ある種の語源辞典のようなものですから。その一語一語について、使われ方が古い順に文献からの例文と共にその意味が記載されているんです。オックスフォード大学出版局にあるOED編集室では世界中の言語を集めて、それを辞書に追加するかどうかという議論を今も変わらずやっています。いま話題の「ブレグジット(Brexit)」という言葉は、その賛否を問う国民投票が行われた2016年末に新語として追加されました。どういう言葉をどういう基準で選ぶのかというところにイギリス人の思想がにじみ出ています。僕が取材した「中世ラテン語辞書」もOEDに倣った方法でつくられています。

■日本には「国がつくった辞書」が存在しない

【河野】イギリスでの辞書づくりには大学や国の機関が深く関わっています。一方で日本では国がつくった辞書はないんですね。辞書というものの成り立ちにも国によって差があります。

【小倉】そうですね。中世ラテン語辞書は準国家プロジェクトといってもいいと思います。といっても、辞書づくりの土台となる言葉集めはワードハンターと呼ばれるボランティアの人たちがやりました。ひたすら古文献を当たってイギリス国内にある中世ラテン語を採取しては事務局に送る。これをコツコツ続けたわけです。しかも彼らは、自分が生きている時代に辞書が完成するとは全く思っていない。

それでも時間と情熱を傾けられる理由が僕自身知りたかったし、現代の日本人にもぜひ知ってほしかったんです。かつて日本でも、たとえば水戸藩が二百数十年かけて『大日本史』を完成させたという例もあるように長い時間をかけて積み上げてひとつのものをつくっていくということをやってきました。今回の本で紹介したイギリス人の生き方に共感する人も多いと思うんです。

■効率重視・利益優先から、世の中と次世代へのコミットへ

【河野】たしかに現代の日本人に訴える部分があります。いまの日本社会はスピードや効率重視、利益優先でまわっているけれど、生活は守りつつ「アナザータイム」を使って世の中の人々や次世代のために進んでコミットしていこうという動きが生まれているのも感じます。

【小倉】今回の取材を通して強く感じたことは「中世ラテン語辞書」づくりに関わった人たちが「古いもの」を残したり理解したりすることを非常に大切なことだと考えていたということです。河野さんが学校長を務めておられる「ほぼ日の学校」ではずっと古典をテーマにされていますよね。最初がシェイクスピアで、その次が歌舞伎、そして万葉集。こんどはダーウィンの授業が始まりましたね。僕のイメージでは糸井重里さんたちのようなクリエイターは常に新しいものをつくり出して世の中に提示する人なんですが、なのになぜ古典にこだわるんですか?

■クリエイティブとは「古きよきものの再発見」である

【河野】ひとことで言えば「クリエイティブ」のヒントをどこから持ってくるか、ということですかね。新しい情報やビッグデータの中から抽出するというやり方もあるでしょう。でも、糸井さんも私も「自分の身になるコンテンツ」をどこから引っ張ってくるかというときに、ネット上の情報を躍起になって追いかけるよりも、もっと後ろを振り返れば手つかずの豊かなものが埋まっているんじゃないかとそれぞれに感じていたんです。

【小倉】何かきっかけはあったんですか?

【河野】きっかけのひとつには、志村ふくみさんという染色家の存在があります。作品もさることながら、彼女が色について綴ったすばらしい文章は、現代的な教養の中からだけでは出てこないと思いました。編集者として、志村さんの言葉の感性の成り立ちに興味があったんです。そのあたりのことを聞いてみたら20世紀の哲学書からも、古来の色からも同様に触発されておられました。

それを知って、新しいものだけでなく、古きよきものの再発見というのはクリエイティブなことなのだと改めて感じたんです。その志村さんが90歳になられる頃、若い世代のための芸術学校をつくろうとされます。それが糸井さんを非常に刺激しています。

■「目」だけで情報を得ると「身体」が置き去りにされる

【小倉】僕がとても面白いなと思ったのは、ほぼ日の学校では座学だけじゃなくて身体を動かすことを積極的に取り入れていることです。これは、ラテン語辞書を作った人たちとも通じることです。ワードハンターが集めた言葉の一つひとつを、編集者たちは文献で確認するために、原典がある教会や図書館まで電車やバスに乗って出かけていった。たった一言の言葉を自分の目で見るために。現代はスマホさえあれば座って待っていれば世界中のかなりの情報が手に入る時代です。そんな中で身体的な作業で物事と関わり合うということの意義を再発見したような気がします。

【河野】古典の勉強というと普通はテキストを読んで理解するということになりますが、わたしたちはあるイベントで「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーシーンを観客全員で朗唱したことがあるんです。男女問わずロミオのグループとジュリエットのグループに分けてセリフを読み上げてもらった。つまり男性も「ロミオ、ロミオ、あなたはなぜロミオなの?」と大声でやるんです。これが結構盛り上がりました。目で読むだけでは意味しか取れないが、身体を通して声に出して言ってみることで気持ちが乗るんですね。

【小倉】声に出すというのは確かに気持ちのいいことですよね。

【河野】目で情報を得る中で身体が置き去りにされているのではないか。そう感じていたから、もう一度言葉と身体の関係を取り戻したかったんです。たとえば令和という元号で改めて注目された万葉集は、まず声に出して歌うことに始まり、それを残そう、伝えようと思った人が万葉仮名を考案していく。そのプロセスを自分自身がトレースしてみることはとても大事だと思います。目で読み取る意味以外の部分が自分の身体を通っていくという感動は、今の社会では得にくいものかもしれませんね。ほぼ日の学校ではそういうことをやりながら言葉との距離感を変えていきたいと思っています。

■イギリスの「辞書の父」の本を書いていた祖父

【小倉】ところで、今回の本を出版した後に河野さんから衝撃のエピソードが(笑)。お祖父さん(石田憲次氏)が英文学の研究者で、しかもイギリスの「辞書の父」サミュエル・ジョンソン博士についての本も書かれているんですよね。このジョンソン博士という人は、ほぼ独力で『英語辞典』を編集した人で、シェイクスピアと並ぶ英国文学史の巨人です。

【河野】はい、京都に住んでいた母方の祖父が『ジョンソン博士とその群』という博士論文を元にした書籍を昭和8年に上梓しています。小倉さんから取材を受けたときに話せばよかったんだけど、あとになって思い出しました。祖父は研究社の『新英和中辞典』などの編纂に携わった岩崎民平さんとは生涯の良き友でもありました。

【小倉】本当に面白い偶然で驚きました。本にもジョンソン博士のことを書いたので、そこに河野さんのお祖父さんのことも入れられたらよかったんですけど。河野さんの本好きはそのお祖父さんからの影響をかなり受けられたんでしょうね。

■辞書は「その時代の精神」も引き継いでいく

【河野】私は父方の実家が広島で母方は京都なんですが、育ったのは岡山です。休みのたびに両方を行ったり来たりしていました。京都の家では祖父が書斎にこもって朝からずっと本を読んでいる。孫が行っても関係なし(笑)。私はそういうおじいちゃんが面白くて素敵だなぁと小さい頃から思っていました。

だから、おしゃべりがしたくて朝の5時に起きて犬の散歩につきあう。そうすると、祖父が自分の仕事は「古いものを読みながら今に伝えることだ」なんて話をしてくれるわけです。内容を具体的に覚えてはいないんですが、小学校に入りたてのときに祖父から聞きかじった難しい言葉を使ったりして、担任の先生に驚かれました。

【小倉】「古いものを読んで今に伝える」ためには辞書が必要ですよね。今回の中世ラテン語辞書の価値も、まさにそこにあります。辞書によって引き継がれるのは言葉だけではなくて、その時代の精神もなのです。

■ブレクジット騒動にあらわれるアイデンティティ

【小倉】僕の本業はジャーナリストで国際情勢を日夜追いかけているわけですが、今回の取材を通してイギリスとヨーロッパの関係について改めて認識したことがあります。それは、イギリス人は自分たちが「大陸ヨーロッパとは違う」ということを常に主張したがるということ。そのひとつが言葉です。イギリスはラテン語やフランス語、ドイツ語などの影響を受けながら、そのどれでもない独自の言語を確立しました。いまでこそ英語はグローバル言語ですが、かつては辺境の言葉でした。

いま、ブレクジットをめぐってイギリス国内は大混乱になっていますが、これも「大陸ヨーロッパとは違う」という強いアイデンティティのあらわれだと思います。イギリスにおける近代の英雄、チャーチル首相も「イギリスはヨーロッパ合衆国“とともに”発展する」という言い方をしています。「ともに」というところがポイントですね。ここにイギリス人のアイデンティティがあるんです。ブレクジット騒動の裏には長い歴史と文化があることを押さえておかないと今の状況は理解しにくいでしょう。

【河野】イギリス国内での議論の混乱を見ていると、2016年の国民投票が「EU離脱に賛成」という結果に結びついたことを含めて、人々が「誰の言葉を信じたらいいのか」分からなくなっている状況が非常に厳しく問われているように思います。出口が見えないなかで、言葉を整理しながら政策のメリットとデメリットを分かりやすく伝えてきちんとした議論の土台を築いていくことがメディアに求められているように思いますね。

■「社会の分断」は日本でも緩やかに起きている

【小倉】メディアにとって非常に難しく、かつ重要な課題です。「社会の分断」という現象がイギリスだけでなくアメリカでも、そして日本でも緩やかにではあるが起こっている。イギリスの場合は階層社会が残っていることもあって、より極端です。たとえば高級紙といわれるタイムズやガーディアンを購読している層と、サンやデイリー・メールなどの大衆紙を読んでいる層は、くっきり分かれていて、互いに何を考えているのか理解していません。お恥ずかしい話ですが、僕もロンドンで暮らしていた頃にはEU離脱を求めている人がこれほど多いことに気付かなかった。そんなわけはないと思い込んでいたんです。

【河野】日本ではまだイギリスほどの分断は訪れていないとは思いますが、危険がぱっくりと口を開けて待っているような気配はあります。グローバル化の中で経済格差が広がり、都市と地方に暮らす人たちの間で不満や不信感が想像以上に高まって勢いがついた結果、ブレクジット騒ぎがもたらされた。他人事として眺めている場合じゃないですね。日本はまだ多少とも保たれている中間層を大事にしていかないと。そのためには近景だけでなく、他者のこと、全体のこと、将来のことを考える想像力がますます必要になってくると思います。

【小倉】『100年かけてやる仕事』を通じて僕が伝えたかったのも、そういうことです。自分のためだけではなくて他人のために、目先のリターンだけでなく先の世代に役に立つことをこつこつとやってきた人々の姿から何かを感じとってもらえたら嬉しいです。

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小倉 孝保(おぐら・たかやす)
毎日新聞編集編成局次長
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。他の著書に『大森実伝』(毎日新聞社)、『ゆれる死刑』(岩波書店)、『三重スパイ』(講談社)などがある。
河野 通和(こうの・みちかず)
ほぼ日の学校長
1953年、岡山市生まれ。編集者。東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。1978年~2008年、中央公論社および中央公論新社にて雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。09年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。新潮社にて『考える人』編集長を務めた後、17年4月に株式会社ほぼ日入社。著書に『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)、『「考える人」は本を読む』(角川新書)がある。

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(毎日新聞編集編成局次長 小倉 孝保、ほぼ日の学校長 河野 通和 構成・撮影=白鳥美子)

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