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高田馬場がミャンマー街になった深いワケ

プレジデントオンライン / 2019年7月22日 17時15分

高田馬場駅前にそびえる「タック・イレブン」の中には、ミャンマーワールドが広がっている(撮影=室橋裕和)

東京・高田馬場にはたくさんのミャンマー人がいる。各地の民族料理を出す店は20軒以上。ミャンマー人向けの食材店、カラオケ、美容院、マッサージ店があり、“リトル・ヤンゴン”と呼ぶ人もいる。なぜ高田馬場だったのか――。

※本稿は、室橋裕和『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■夏には「タナカ姿の女性」を見かけるほど

新宿区高田馬場、戸三小通り。夕刻になるとこの道は、アジア系の留学生でごった返す。日本語学校がいくつもあるのだ。勉強を終えた若者たちが方々に散っていくが、その中にいま目立って多いのが、ミャンマー人だ。

夏場になると、頬を白く染めた女の子も見る。「タナカ」というミャンマーの伝統的な化粧だ。タナカという名の樹木を粉末やペースト状にしたもので、これを頰や額に塗る。おしゃれでもあり日焼け止めでもある。行き交うタナカ姿は高田馬場の夏の風物詩とさえなりつつあるのだ。

「リトル・ヤンゴン」と呼ばれる高田馬場。どうしてこれほどミャンマー人が集まる場所になったのだろうか。

「ひとつのきっかけは1988年ではないでしょうか」

と語るのは来日17年となるサイ・ミンゾウさん。ミャンマー料理店「ノング・インレー」を経営する。在日ミャンマー人社会でも重鎮のひとりだ。

長年、軍事政権の独裁が続いてきたミャンマーで、大規模な民主化要求デモが起こったのが1988年のこと。全土で激しい反政府運動が燃え広がっていったのだが、軍政はこれを武力で弾圧。多くの犠牲者が出た。そしてまた、たくさんのミャンマー人が国を離れて難民となった。そのうちの一部は日本にもやってきた。彼らが根を下ろしたのが、西武新宿線・中井駅の周辺だったのだ。というのも、中井には当時、ミャンマー人の僧侶がいるお寺があったからだ。

■留学ビザが緩和され、技能実習生が急増した

やがて中井からふた駅、JR山手線も乗り入れる、より便利な高田馬場にコミュニティは移っていった。

彼ら「第一世代」が築きあげていった在日ミャンマー人社会だが、いまの主役は留学生であり、技能実習生たちだ。

その理由もやはり政治にあった。ミャンマーでもようやく民主化が進み始めたのだ。かつてミャンマーではパスポートを取得すること自体が難しく、ブローカーを通して日本円で10万ほど支払う必要があったという。当時のミャンマーでは大金である。それが、申請すれば正規に、簡単に取得できるようになったのだ。

日本の留学ビザも緩和された。また日本政府の方針で、ミャンマーからも国費留学生をどんどん受け入れるようになった。民主化を受けて進出が活発になった日系企業と、ミャンマーとを結ぶ、橋渡し的な人材に成長してくれることを狙ってのものだ。

加えて、ミャンマーの銀行制度も改革された。かつてミャンマーは外貨から自国の通貨であるチャットに両替する際に、ふたつのレートが存在していた。公定レートと、その数十倍の差がある市場(闇)レートだ。軍事政権による外貨の厳しい規制がその背景にあり、裏で流通する外貨の価値がどんどん上昇していったというわけだ。チャットに国際的な信用力はなかった。

しかし民主化の進展によって外国企業が増えてきたことがあり、為替制度の統一が行われた。2012年のことだ。これを機に日本の銀行もミャンマーに進出するようになった。

外国人が日本に留学するためには一定額以上の預金残高があることを証明する必要があるのだが、以前はミャンマーの口座にどれだけお金があろうと、価値を認められなかった。しかしレート統一後に一変し、留学のハードルがだいぶ下がったのだ。

■20軒ほどのミャンマー料理店が集中している

いまでは20軒ほどのミャンマー料理レストランがある。多民族国家らしく、同じミャンマーでも、モン族料理レストラン、シャン族料理レストランなど、民族ごとに分かれているのもおもしろい。ミャンマー少数民族の文化と出会える街なのだ。

「ノング・インレー」はシャン族料理だ。和食とけっこう共通点がある。納豆や豆腐をふんだんに使うのだ。漬物などの発酵食品も多い。揚げた豆腐もあれば、ペースト状にして麺を入れたりもする。納豆を混ぜ込んだチャーハンもいける。ちょっとピリ辛のシャン風高菜は和えたり炒めたりさまざまに使われる。肉味噌を溶いた鶏がらベースのスープに米麺を入れたシャン・カウスエは日本人にも馴染める味わいだろう。

一般的なミャンマー料理もあり、ヒン(カレー)各種や、ラペットゥ(お茶の葉を発酵させたサラダ)、モヒンガー(ナマズで出汁をとった米麺。ミャンマーのソウルフード)なども揃う。ついでに言うと竹虫やらコオロギ、セミといったブツも、ミャンマーからの入荷があれば出している。

■『孤独のグルメ』がきっかけで日本人が増えた

僕も、実は常連である。ミャンマービールを飲みながら高菜炒めなどを食っているのだが、最近は日本人の姿もやけに増えたなあと思う。いつ来てもミャンマー人オンリーの食堂だったのだが、日本人が多くなった。

というのも、かの大ヒットテレビドラマ『孤独のグルメ』(テレビ東京系列)に登場したからだ。松重豊さん演じる井之頭五郎がラペットゥやシャン風の豚肉と高菜漬け炒め、牛スープの麺などを食べる姿は、放映時間が小腹の空く深夜だけあってまさに「夜食テロ」。いったいシャン料理とはなんぞや、と興味を持った視聴者が、次々と足を運ぶようになったのだ。

レストランだけでなく、食材店も多い。「ノング・インレー」が入居するビル「タック・イレブン」の上階には、いくつかのミャンマー雑貨屋が並び、完全にアジアンワールドと化している。ラペットゥ、乾燥させた高菜、噛みタバコ、ナマズのふりかけ、ミャンマーのお菓子、カップ麺、調味料、ハーブ類、コメ……アジアの市場に潜り込んだかのようで、とても日本とは思えない。

「タック・イレブン」上階のミャンマー食材店。お店の中にはほとんど日本語の商品がない(撮影=室橋裕和)

「お客はミャンマー人やインド人が多いけど、アジア好きの日本人や、アジア系のレストランで働く人が食材を探しに来ることもありますよ」

とは8階にある店の店員ウィンさん。なお9階と10階にも食材店があるが、上に行くほど安くなるのだというから面白い。

■ミャンマー語の雑誌3000部が「すぐなくなる」

たいていのミャンマー食材がそろうが、野菜など手に入らないものは自分たちで栽培してしまうのだそう。千葉や埼玉など郊外に住んでいて畑を持っているミャンマー人が、日本の気候や土と格闘して故郷の野菜を育てるのだ。そしてフェイスブックで宣伝をして直売する。「タック・イレブン」の食材店にも卸す。フェイスブック上には食材だけでなく、ミャンマーの弁当屋や雑貨屋もあるのだとか。

高田馬場にはほかにも、ミャンマー人の集まるカラオケレストランや、パソコンスクール、美容院、マッサージ店なども集結している。

ミャンマー語のフリーペーパー「ハロー・ミャンマー」もある。発行しているのはミャンマー人向けの国際電話カードなどを販売する会社だ。日本語とミャンマー語による誌面構成で、政治、経済などミャンマー関連のニュースが充実している。また日本文化の紹介、ビザについてのアドバイス、マイナンバー制度が外国人に及ぼす影響などなど、生活情報も豊富だ。

ミャンマー大使館のほか、レストランや旅行会社、大学、日本語学校などに配布するため毎月3000部を刷っているが、好評ですぐになくなってしまうという。広告効果も高いそうだ。高田馬場にミャンマー社会がすっかり定着しているシンボルのような雑誌だ。

発行主である間宮さんは日本に帰化したミャンマー人だ。これからもミャンマー人は増えていくだろうと話す。

「これまでは留学というと欧米やシンガポールが多かった。それが日系企業の進出ラッシュによって変わってきています。アニメや漫画など日本文化も人気。これから留学生は多くなっていくでしょう」

■ミャンマー人の「駆け込み寺」となった夫婦

高田馬場に集まってくるミャンマー人を、ずっと支え続けている夫婦がいる。JMCC(日本ミャンマー・カルチャーセンター)を運営する、マヘーマーさんと落合清司さんだ。

ミャンマー人向けの日本語教室を開き、日本人向けにはミャンマー語教室や、竪琴や料理、伝統舞踊など、ミャンマー文化の講座も行う。

そしてここは、ミャンマー人の駆け込み寺でもあるのだ。

「ミャンマーからやってきたばかりの人からは、どこに住んだらいいのか、仕事はどうしようか、銀行で口座をつくりたいんだけどどうしたらいいのか……そんな相談が寄せられます」

そう語るマヘーマーさんは、細かな悩みやけっこう重い話まで、できる限り一緒になって考えるのだ。面倒見がいい、というよりよすぎるのかもしれない。日本語学校と、中央大学を卒業しただけあって日本語は流暢だ。落合さんもまたミャンマー語を話す。親身になって話を聞いてくれるふたりのもとには、毎日のように誰かが訪れる。

■「結構みんな、愚痴を言いにくるんですね」

「子供が病気になったのだけど、どの病院がいいのか。健康診断を受けたいけれど日本語の書類の書き方がわからない。子供の学校からプリントが来ているのだけど読めないといった、書類関係がやはり多いでしょうか」

そんなときは落合さんが代筆をしたり、役所とかけあったりもする。

「この前は、日本語学校に2年通ったけれど、それからどうしたらいいのか……なんて相談もあったね。専門学校か大学に進学したいけれど、まだ日本語の会話スキルが不十分だから難しいかなあ、なんて話したり」

仕事の悩みも寄せられる。会社で日本人の上司とうまくいっていないとか、ミャンマーでは高度な仕事をしてきたのに日本では単純作業しか任せてもらえないとか、さまざまだ。

「結局みんな、愚痴を言いにくるんですね」

そうマヘーマーさんは笑う。ほかのミャンマー関連の支援団体は日本人が運営しているところばかりだが、ここに来ればマヘーマーさんがいる。だからミャンマー人は安心して、頼ってくるのだ。たかが愚痴でも、ミャンマー語で話し合い、身の上話を聞いてもらえるだけで、心はずいぶんと楽になるに違いない。

■働き手や取材先を探す日本人も来る

日本人もやってくる。飲食店から誰か働き手がいないかと聞かれたり、タナカを使った化粧水を開発したからモニターになってほしいと頼まれたり、雑誌やテレビの取材、通訳や翻訳の依頼……。

「ピンポーン」

そこにいきなりの来客である。落合さんが扉を開けると、30歳くらいのロン毛メガネの日本人だった。

「あのですね、ファッション関連の仕事をしているんですけど、なにかこう、南アジア風の雑貨とかを背景にモデルの撮影をしたいんです。ここならいろいろ教えてくれると聞いて……」

などと言うのだ。唐突な来客にもマヘーマーさんは親切に、食材店などの場所を教えてあげるのだった。

「もしそっちで断られたら、またうちに戻ってきて。うちにも少し雑貨とかあるから、ここを使えばいいよ」

とっても優しいのであった。

「……とまあ、こんな具合にいきなり誰かがやってくる場所なんです」

いかにも愉快そうに落合さんは笑う。

■ミャンマーは田舎でも日本語のわかる人がいる

学校の教師をしていた落合さんは、ミャンマーの文化に興味を持ち、たびたび旅行で訪れていた。

「交通の要衝でもあるメイッティーラーの街で、いきなり日本語で話しかけられたんです。僧侶でした。市内を案内してもらったあと、お寺に連れられて、そこで子供たちを相手に日本語や日本の文化を教えることになったんです。外国人とのコミュニケーションの場所のようなお寺でもあったんですね」

その当時は、ミャンマーは田舎でも日本語のわかる人がけっこういたのだという。もちろん戦争の影響だ。旧日本軍による戦史有数の愚行「インパール作戦」なんてものを決行するために、ミャンマーの地を日本陸軍は蹂躙したが、そこで日本兵の通訳などに狩り出された人が多かったのだ。日本軍の支配地域では、日本語の学習も強要された。

戦後は日本兵の墓地を訪ねに来る日本人遺族もいれば、遺骨収集団もいた。日本語話者の需要はかなりあったのだ。

落合さんに声をかけた僧侶もそんな通訳から日本語を学んだのだという。そしてミャンマーは、さらに古くはイギリスの植民地だった影響で英語を解する人も多い。この僧侶は寺院で英語と日本語を教える、先生でもあったのだ。その一番弟子ともいえる存在が、マヘーマーさんだった。

■大学が閉鎖され、日本への留学を決意

「大学受験が終わって時間ができたから、お寺に英語を学びに行ってたんです。そしたら黒板になんだか知らない字が書いてあって。お坊さんには『まず英語をしっかり3カ月勉強したら教えてあげる』って言われて、それでがんばったんです。よくわからなかったその文字は、日本語でした」

それから、僧侶は黒板にとある住所を書いた。日本のものだった。

「この住所に住んでいる人は、ミャンマーの文化に興味を持って毎年来ています。今度来るときのために、英語と日本語を学んでおきましょう。それに手紙も出しましょう」

落合さんの住所だった。子供たちとマヘーマーさん、落合さんとの文通がはじまった。それから落合さんがミャンマーに行くたびに、ふたりは会い、気持ちを重ねるようになる。

転機となったのは、これもまた荒れる政情だった。たびたび起こる民主化運動の中核を担ったのは学生たちである。だから大学は当局から「危険分子の巣窟」と見なされ、閉鎖されてしまうのだ。せっかく進学したというのに、マヘーマーさんは学ぶ道を、物理的に閉ざされてしまう。そこで考えたのは、日本への留学だった。

「その頃はまだ外国に行って学ぶなんてほとんど考えられなかったんです。憧れている人はたくさんいたけど、難しかった」

それでも落合さんの尽力もあって、さまざまな書類を用意し、準備を進めていく。パスポートはブローカーを通じて用意した。そして日本へとやってきた。

■いきなり「新宿に出てきてください」の試練

「いちばんびっくりしたのは、日本は停電しないってこと。それから蚊帳を使わなくてもいいことにも驚きました。野良犬はいないし、街はきれいで、自動改札とか自動販売機とか、自動化が進んでいる。なにもかも違う、と思いました」

語学学校に通い、安全な環境で勉強できるようになったとはいえ、故郷ではないのだ。不安も大きかった。当時はまだ、日本語もおぼつかない。

そんなマヘーマーさんに、落合さんは試練を課す。

「はい、これから新宿に出てきてください」

室橋裕和『日本の異国: 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)

などと、いきなり連絡してくるのだ。漢字は読めない。落合さんに書いてもらった「新宿」という文字の形を必死に券売機の画面から探す。切符一枚を買うこともたいへんだった。乗換えやら、日本人にだって複雑な駅構内のダンジョンやらを乗り越えて、待ち合わせ場所にたどりつかなくてはならない。日本で生きていくための特訓だった。

その甲斐あってか、マヘーマーさんの日本語はめきめきと上達し、日本社会にも慣れていく。落合さんいわく、

「当時からすでに、高田馬場はミャンマー人が多かったですね。ミャンマー料理のレストランもいっぱいあった。ミャンマー人がやっている美容院もあったので、彼女に勧めたんですよ。やっぱり髪は同じミャンマー人にカットしてもらったほうがいいだろうと思って」

こうして「リトル・ヤンゴン」の住民になっていくのだ。

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室橋 裕和(むろはし・よしかず)
ライター・編集者
1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。帰国後はアジア専門のライター、編集者として活動。「アジアに生きる日本人」「日本に生きるアジア人」をテーマとしている。おもな著書は『海外暮らし最強ナビ・アジア編』(辰巳出版)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書)など。

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(ライター・編集者 室橋 裕和 撮影=室橋裕和)

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