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若き女性起業家を作ったコンゴ難民の言葉

プレジデントオンライン / 2019年7月26日 6時15分

WELgee代表 渡部清花氏

2018年、日本の難民認定申請者数は1万493人にのぼる。しかし、認定されたのは42人で、認定率約0.4%という狭き門である。申請中や不認定の難民と社会の接点をつくるため、難民就労支援を行っているのがNPO法人WELgeeの渡部清花代表だ。渡部代表は、両親もNPO法人を営む“ナチュラルボーン社会起業家”。はたして難民を取り巻く環境を、どのように変えようとしているのか。ジャーナリスト田原総一朗が切り込む――。

■なぜ難民支援を始めたのか?

【田原】渡部さんは静岡のご出身ですね。ご両親はどのようなお仕事を?

【渡部】父は県庁の職員で、児童相談所のケースワーカーや、富士山麓にある子ども向けの大型施設の企画などに関わっていました。ただ、人事異動で担当が代わり、虐待されていた児童と連絡が取れなくなるなど、行政では手が届かないケースに直面して問題を感じていたそうです。そこで、ずっと子どもに関わり続けるために15年前にNPOを設立。学校に行かない子や、さまざまな事情で家に帰れない子どもたちも来られる、第三の居場所づくりをしています。昔は看護師だった母も、NPOの専従職員として一緒にやっています。

【田原】居場所というのは、具体的にどんなところですか?

【渡部】商店街の一角に駄菓子やオセロ、漫画がたくさんある空間があるんです。いまで言うコミュニティースペースですね。近所の人や学校帰りの子どもたち、障害がある青年や不登校の子、親とうまくいかない子も来る。とにかく行くところがないときに「あそこに行けば誰かいるよ」という口コミが広がって、多くの人が来ていました。つねに出入りがありますが、先日実家に帰ったときは20人くらいいました。

【田原】子どもたちに食事も提供するのですか?

【渡部】家で食べる子もいれば、子ども食堂で食べる子もいます。子ども食堂は近所の割烹料理屋のシェフと一緒にやっています。帰れない子は泊まったりもするので、私もよく一緒に夕飯を食べていました。

【田原】そういう環境だと、否応なくNPOに関心を持つようになるのかもしれませんね。

【渡部】じつはそうでもなくて、当時はNPOのこともよくわかっていませんでした。私は近所の学校に通っていましたが、帰り道で子どもたちとザニガニ釣りをしている父とすれ違うことも多く、クラスメートに「さやかのお父さんはザリガニを捕るのが仕事?」と言われていました(笑)。NPOをきちんと理解したのは、大学の授業でです。行政や市場でも手を差し伸べられない領域があって、そこを担うのがNPOやNGOなんだと。

【田原】大学時代はNGOに参加して、海外に行かれたとか。

【渡部】はい。バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯に行きました。ミャンマーとの国境沿いにあって、政府から弾圧され続けていた地域でした。

渡部清花●1991年、静岡県生まれ。東京大学大学院・総合文化研究科修士課程。2016年にNPO法人WELgeeを設立し、日本に来る難民の支援を開始。難民申請者向けシェアハウス(JELAハウスTOKIWA)の運営や、就職支援などを行っている。

【田原】なぜ弾圧されているの?

【渡部】開発での強制移住や土地・資源の収奪、入植政策によって、抑圧の危機に立たされた先住民族がいました。そのリーダーが民族を守るために立ち上がり、25年にわたって政府との紛争状態が続いていました。

【田原】そこで渡部さんは何を?

【渡部】現地のお坊さんたちが造った学校があって、そこに孤児を中心に約800人の子どもが暮らしていました。外国からの支援者が教育里親として卒業までを支える仕組みで、私は日本からのスポンサーを探しました。活動は、向こうと日本を行ったり来たり。バングラデシュにいるときはお坊さんたちと一緒に仕組みをつくって、日本に戻ったときに里親探しをしていました。

【田原】それからUNDP(国連開発計画)のインターンをやったそうですね。

■国連はいったい何をやっているのか

【渡部】同じ地域に国連が入って、紛争後の平和構築をやっていました。ただ、国連がいても、依然として村は焼かれるし、女の子はレイプされ、ジャーナリストも捕まっている。国連はいったい何をやっているのか疑問だったので、インターンとして中に入ってみることにしました。じつはインターンシップには「25歳以上」「修士課程修了以上」「バングラデシュ国籍を有する」という条件があって、私は1つも満たしていませんでした。でも、諦めずに交渉したら、現地の言葉を話せたことが功を奏して現地人枠で入れてもらえました。

【田原】そこでは何を?

【渡部】UNDPは紛争後の地域での村落開発事業をやっていて、20人くらいの女性グループ約2000組にお金を支援していました。10年間のプロジェクトで、私が入ったのは最後の1年。これまでやってきた支援が本当に有効だったのかを調査する仕事をしました。

【田原】まだ大学生なのに、そんな仕事をよくできましたね。

【渡部】現地の女性グループに対してインタビューするのですが、外国から来た男性が英語で話を聞くのは難しいんです。私は女性で、現地の言葉が話せて、顔の雰囲気も似てる(笑)。その点はとても有利でした。

【田原】その仕事をしてから日本に帰国される。

【渡部】大学は休学を含めて6年間行ったので、そろそろ卒業しようかと。卒論で「開発と人権は共存するのか」を書きながら、この先何をやろうかと考えていました。

【田原】難民に関心を持たれたのは、どういうきっかけだったのですか?

■「腐ってしまったコンゴという国を変えたい」

【渡部】コンゴ(民主共和国、旧ザイール)出身の難民と友達になったんです。私は日本語教室でボランティアをしていて、彼はそこに日本語の勉強に来ていました。コンゴは独裁政権の下で、選挙が延期され続けていた。選挙の実現を願う学生たちが一斉に検挙されて、彼も危なくなった。国中を逃げまわり、亡命してきたそうです。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。テレビ東京を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。著書に『起業家のように考える。』ほか。

【田原】難民申請は認められたの?

【渡部】認められていませんでした。知り合ったのは冬でしたが、彼は24時間営業のハンバーガー店で寝ていました。外は寒くて100円のコーヒーで朝までいられますから。

【田原】生活費はどうしていたんだろう?

【渡部】逃げてくるときに多少は持ってきたそうですが、日本は物価が高いので、すぐなくなります。お金が尽きた後は外で寝たり、難民の支援団体や教会に駆け込んだり。その後、シェルターに移動でき、半年過ぎてようやく就労許可が下りたので、工場で働いていました。

【田原】渡部さんは彼と話して、どこに興味を持ったのですか?

【渡部】お互いに将来の夢を話していたときに、彼は「腐ってしまったコンゴという国を変えて、平和をもたらしたい」と言っていました。

【田原】でも、国外に出たら国を変えられないんじゃないですか?

【渡部】そこがおもしろくて、じつは外に誰かいることも大事だそうです。何が起きているのかを、世界に発信し、現地の人々を支援するために、在外のコンゴ人たちがネットワークを作りながら国内の人たちと一緒に変えていくこともできると。その後、18年12月に選挙が行われて、新しい大統領になりました。いまのところは独裁ではないと言われていて、市民も希望を抱いています。ただ、軍が力を持ったままだと、帰国しても空港で拘束されてしまう。だから彼自身はまだ帰れないということでした。

【田原】難民について教えてください。2017年に日本で難民申請をした人が約2万人いて、10年で10倍に増えているそうですね。原因は何?

【渡部】まず世界情勢です。シリアではいまも紛争が続いているし、アラブの春で始まった混乱も収まっていません。たとえばチュニジアではいまISILが兵士のリクルーティングをしていて、人を殺すか、さもなくば殺されるという選択肢しかない状態に置かれる若者もいる。アフリカの植民地支配の影響はいまも現地の対立を生じさせている。それで海外に逃げるわけです。

【田原】アフリカから日本にも来るんですか?

【渡部】私たちの団体にアクセスしてくる難民の8割がアフリカ出身です。日本は遠いのに、と思われるかもしれませんが、いま日本は観光立国を掲げていて、観光ビザが出やすい。欧州や米国に逃げられる人はそちらに逃げますが、もう1週間以内に国外に出ないと危ないという人の中には、すぐ観光ビザを取れる日本に来て、それから難民申請をする人もいます。

■書類を全部準備してから亡命、というのは難しい

【田原】申請しても、ほとんど認定されないそうですね。17年は約2万人に対して20人。どうしてですか?

【渡部】日本での認定には、「新聞に指名手配されている記事が載った」「本人の名前で逮捕状が出ている」など、個別具体の証明が必要です。でも、命からがら逃げてきた人の多くは、家が焼けたりして、証明するものを持っていません。書類を全部準備してから亡命、というのは難しい。

【田原】いま日本は労働力不足で、出入国管理法を改正して外国人人材を受け入れようとしていますね。難民は違うのですか?

【渡部】外国人人材は日本がセレクトできますが、難民は日本が定めた枠の中で来るわけではないんです。

【田原】審査のスピードはどうですか?

【渡部】時間がかかります。1回目の不認定が出るまで、平均3.1年。難民申請中の人には在留資格があるので、最初はコンゴ人の彼のようにいろんなところに身を寄せて、半年経って就労許可が下りてから仕事を探すという人が多いです。

【田原】どうしてそんなに時間がかかるんですか?

【渡部】難民認定申請者の数は年々増え続けている一方で、審査を行う法務省の難民認定室の人数は変わっていないと聞いたことがあります。年2万件の申請をその人数で処理するので、どうしても時間がかかるのではないでしょうか。

【田原】現実を見て、渡部さんは難民支援をしようと思ったわけね。

【渡部】支援というか、日本の社会につながれたらいいと考えました。コンゴ人の彼は、向こうで牧師、エンジニア、印刷屋、ゴスペルの先生、NGOスタッフなど、多彩な顔を持っていました。豊かな経験や才能を持っている人が、日本で昼間は寒さをしのぐために山の手線に乗ってグルグル回っているのはもったいない。そういった人たちと社会とのつなぎ目をつくれたらなと。

【田原】つなぎ目って、具体的には?

【渡部】最初は難民ホームステイをやりました。まず事例をつくらないと伝わらないと思ったので、最初は親友のコンゴ人を実家に送り込みました。「来週、コンゴ人が行ってもいいかな」と電話したら、「いいよ、バス? 電車?」と即答。さすが私の親だなと(笑)。

【田原】それで日本の家族を口説けるようになった?

【渡部】2件目は私の恩師の家、3件目は両親の友人の家。そうやって事例をつくるうちに理解が広がって、最終的には20家族に協力してもらいました。ただ、このプロジェクトは16年に始めて1年でやめました。

【田原】どうして?

【渡部】出口がなかったんです。ホームステイ中はとてもいい時間を過ごせるのですが、それだけじゃ自立ができません。ほとんどの人が認定されない現状では、難民の人たちも自分たちのスキルを生かして仕事をすることが大切。そこでいまは難民と企業をつなげる事業をメインでやっています。

■きちんとしたスキルを持った人材として評価してもらいたい

【田原】いま、何社くらいの企業と組んでいるのですか?

【渡部】始めて約1年半ですが、社員雇用が6件で、社員を前提とした試用期間が3件、アルバイトが1件。登録企業は85社です。

【田原】就労のマッチングは有料?

【渡部】社会的意義に共感してくれたエージェントと連携して、有料で行っています。難民ブランディングで、かわいそうだとか安いから雇うのではなく、きちんとしたスキルを持った人材として評価して雇用してもらいたい。実際、難民は逆境を乗り越えてきた人たちで、頑張る力がすごいんです。

【田原】頑張っていらっしゃると思うけど、2万人に対して10人ではまだ少ない。今後、どうやって増やしますか。

【渡部】19年は月1件、20年には月5~10件を目標にして、いずれ難民自身がコーディネーターになって回せたらいいなと考えています。じつはそういうモデルがすでにフランスにあって、その団体はオンラインも活用しながら、もう800件のマッチングをしています。その日本バージョンをつくれたらいいなと。存在や秘められた可能性が可視化されれば新しい道が見えると思っています。

【田原】頑張ってください。

渡部さんへのメッセージ:海外から来る難民と日本をつなぐ架け橋になれ!

(ジャーナリスト 田原 総一朗、WELgee代表 渡部 清花 構成=村上 敬 撮影=宇佐美雅浩)

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