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日本が"真珠湾攻撃"を決断した本当の理由

プレジデントオンライン / 2019年7月18日 9時15分

真珠湾攻撃(写真=GRANGER.COM/アフロ)

なぜ日本はアメリカに対して真珠湾攻撃をしかけるという“必敗の戦争”に突き進んだのか。学習院大学学長の井上寿一氏は「開戦回避の可能性は直前まであった。しかし、海軍は組織利益を守るために、戦争に突き進んだ」という――。

■根強く語られるルーズベルト陰謀論

戦後の日本外交史研究は、日米開戦史研究だったと言っても言い過ぎではないほど、質量ともに膨大な知見を生み出し、通説を打ち立てている。

それでも根強いのがルーズベルト陰謀論である。この陰謀論がまちがっていることは、歴史実証主義の研究者にとって常識である。この点は須藤眞志『真珠湾〈奇襲〉論争』(講談社選書メチエ、2004年)にあらかたまとめられている。

陰謀論への第1の反証は暗号解読の問題である。アメリカ側が解読できたのは外務省の暗号だった。外務省が真珠湾攻撃を知るのは直前になってからのことである。肝心の海軍の暗号は、翌年春まで解読できなかった。

第2の反証は無線封止の問題である。真珠湾に向かった南雲機動部隊は、厳重な無線封止下にあって、弱い電波を出して連絡し合うこともしなかった。そのような微弱電波の傍受解読の証拠はない。

それでもルーズベルト陰謀論はなくならない。ルーズベルト陰謀論は、真珠湾攻撃=日本の「卑怯な騙(だま)し討ち」との非難を躱(かわ)すことができるからである。ルーズベルトが陰謀を働いたのであれば、悪いのはアメリカであり、日本の方こそ騙されたことになる。

■開戦回避の可能性は直前まであった

戦後の日本外交史研究の関心は別の所にあった。それは要するに開戦回避の可能性だった。時間の経過とともに狭められながらも、開戦回避の可能性は直前まであった。

なぜならば英国やオランダとは異なって、日本はアメリカとの間でアジアの植民地をめぐる対立がなく、戦争に訴えなければ解決できないような問題はなかったからである。

日米開戦は日本からさきに手を出さなければ回避できたのだから、11月26日のハル・ノートをめぐって交渉を続けることにも意味はあった。交渉が続けば、ほどなくして東南アジアは雨期に入る。作戦行動がとりにくくなる。そこへドイツに対するソ連の反攻が始まる。対米開戦に踏み切る前提となっていた欧州戦線におけるドイツの優勢が崩れる。開戦を決意するのはむずかしくなる。開戦は回避される。

以上のように開戦回避の可能性が詳(つまび)らかになったあとに、残された疑問があるとすれば、それは「回避可能だったのに、なぜ戦争に踏み切ったか」である。

日米の国力を比較すれば、合理的な結論は開戦回避以外に選択の余地がない。結論が自明であるのになぜ無謀な戦争に突入したのか。

■陸軍「悪玉」、海軍「善玉」は本当に正しいのか

この論点に対する最新の研究が牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦―秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮選書、2018年)である。

同書は歴史的想像力を働かせて、注目すべき議論を展開している。どうすれば秋丸機関は開戦回避論に説得力を持たせることができたのか?

「3年後でもアメリカと勝負ができる国力と戦力を日本が保持できるプラン」を示して時間を稼ぎ、ドイツの敗北と米ソ冷戦の始まりを待つ。このような「臥薪嘗胆」論であれば、開戦は回避可能だった。あるいは3年も待たなくてよかった。戦後の日本外交史研究の知見は、数カ月の先延ばしでも回避の可能性があったと指摘しているからである。

同書が明らかにしたのは、陸軍の開戦の動機である。海軍はどうだったのか。開戦をめぐって、陸軍が「悪玉」ならば、海軍は「善玉」である。海軍「善玉」論は正しいのか。

この疑問に対する先駆的な研究によれば、永野(修身)海軍軍令部総長は1941(昭和16)年7月21日の段階で、早期開戦論を主張している。さらに10月30日になると、今度は嶋田(繁太郎)海相が開戦を決意する。海軍は「悪玉」である。

海軍が開戦に積極的だったのは、組織利益を守るためだった。1930年代から海軍は軍拡を進めていた。「戦争を為し得ざる海軍は無用の長物なり」。そう非難されれば、戦争の決意をもって応えるほかなかった。軍事戦略上は「万一の僥倖(ぎょうこう)」を賭けた陸軍の方が組織利益を優先させた海軍よりも合理的な判断を下していたことになる。

そうだからといって、海軍を単純に「悪玉」と決めつけることもできない。1941年前半の日米交渉に海軍上層部が大きな期待を寄せていたことも明らかになっているからである。海軍にとっての転換点は別のところにあったのではないか。

■独ソ戦の勃発で暗礁に乗り上げた日米交渉

転換点として真っ先に思いつくのは1940年9月27日の日独伊三国同盟だろう。この点に関連して、敗戦の翌年、日米交渉に携わった岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)陸軍大佐の重要な証言がある。岩畔の証言によれば、三国同盟の圧力があったからこそアメリカを交渉の場へ引き出すことができた(井上寿一『戦争調査会』講談社現代新書、2017年)。

ところが軌道に乗り始めたかに見えた日米交渉は、6月22日の独ソ戦の開始によって、暗礁に乗り上げる。

独ソ戦の勃発によって、ソ連とも戦争をすることになったドイツは手いっぱいになる。そのドイツと同盟関係を結んでいる日本の外交ポジションは低下する。対するアメリカの外交ポジジョンは強化される。アメリカは強気の姿勢に転じる。交渉の成立には日本側からの思い切った大幅な譲歩が必要になった。

独ソ戦の影響は日米交渉にとどまらなかった。ソ連はドイツを相手に戦うことによって弱体化する。そのように見通す陸軍にとって独ソ戦は好機到来だった。陸軍の仮想敵国は伝統的にロシア・ソ連だったからである。陸軍は7月2日に関東軍特別演習(関特演)を実施する。関特演は対ソ作戦の準備行動だった。

■「対米戦争回避」で一貫していた松岡外交

この北進論は国策の矛盾を表す。なぜならば日本は4月13日に日ソ中立条約を結んでいるからである。日ソ中立条約の締結を主導したのは松岡(洋右)外相だった。ところが7月2日の政府決定の際に松岡は北進論を支持している。

一見すると松岡外交も矛盾に満ちていた。しかし7月2日の松岡が北進論を支持するとともに、南部仏印進駐の中止を主張していることに注目したい。

近衛(文麿)内閣は関特演の決定に先立って、6月25日に南部仏印進駐を決定している。南部仏印進駐に対してアメリカは態度を硬化させる。アメリカの対抗措置は在米資産の凍結だった。この対抗措置は事実上の対日全面禁輸につながった(森山優「日米交渉から開戦へ」『昭和史講義:最新研究で見る戦争への道』ちくま新書、2015年)。

南部仏印進駐がアメリカやイギリスを挑発することは、同時代においても認識されていたと推測できる。南部仏印から日本軍機がフィリピンやシンガポールを直接攻撃できるようになるからである(井上寿一『戦争調査会』)。

以上を踏まえれば、矛盾に満ちた松岡外交に一貫性を見いだすことができる。それは対米開戦の回避だった。松岡の意図は、三国同盟と日ソ中立条約によって日本の外交ポジションを強化したうえで、アメリカとの直接交渉によって開戦を回避することにあった。同様に南部仏印進駐は対米関係を決定的に悪化させるゆえに、中止を求めた。松岡外交は対米開戦回避で一貫していた。

■「万一の僥倖」に賭け、真珠湾攻撃に突入

対する海軍は北進論を抑制する目的で南部仏印進駐を進める。南部仏印進駐は、アメリカによる対日経済制裁の段階的な実施を見越した「予防的措置」だった。仏印の重要軍需資源を確保すれば、経済制裁に対抗できるからである。

こうして北進論と南進論は相打ちになる。国策の調整と統合は近衛内閣から東条(英機)内閣に持ち越される。

東条内閣は11月1日に和戦両論併記の決定を下す。12月1日午前零時までに外交交渉がまとまらなければ、武力発動となる。

アメリカ側の回答はハル・ノート(編註:アジアの状態を満州事変前に戻せという米国国務長官ハルの通告)だった。海軍は開戦以外に選択の余地がなかった。陸軍も「万一の僥倖」に賭けた。12月1日午前零時までに外交交渉は戦争を回避できなかった。こうして真珠湾攻撃が始まった。

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井上 寿一(いのうえ・としかず)
学習院大学 学長
1956年東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院を経て学習院大学法学部教授、2005年に同大学法学部長。2014年から現職。法学博士。吉田茂賞、第12回正論新風賞などを受賞。著書に『機密費外交 なぜ日中戦争は避けられなかったのか』『戦争調査会 幻の政府文書を読み解く』(共に講談社現代新書)など。

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(学習院大学 学長 井上 寿一 写真=Roger-Viollet/アフロ)

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