私がNYの超高級タワマンを退去した理由

プレジデントオンライン / 2019年7月23日 17時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Ultima_Gaina)

デザイナーとしてニューヨーク5番街のトランプタワーに住んでいたアケミ・S・ミラーさんを支えたのは、どんなときにもそばにいてくれる最愛の夫だった。しかし、アケミさんはある日、単身で日本へ帰国する。数億円に及ぶ資産を捨ててまでも彼女がニューヨークを離れたかった理由とは――。(第4回、全5回)

■NYでのキャリアを支えてくれた最愛の夫

ニューヨークで25年間活動してきた私ですが、渡米する前は日本できもののデザイナーをしていました。日本のきものは日本の女性としてきちっと着こなしたいと思います。しかしそのきものを現在に生かす方法として、きものからインスピレーションを得た、洗練された美しいドレスをデザインし始めました。

その作品200点だけを持ち渡米したのが1989年の春のこと。ワーキングビザの取得から、アトリエや会社の設立、プロダクションの生産体制まで全ての準備をこなし、渡米後わずか1年で、念願のニューヨークコレクションにデビューすることになりました。その年にデビューしたデザイナーの中で1番の売り上げを出し、『WWD』やニューヨーク・タイムズ、CNNなどで“Welcome to newface.”と大きく取り上げられました。

仕事に邁進しつつ、アメリカではプライベートでも大きな出来事がありました。私の人生最愛の夫、ロイとの出会いです。場所は知り合いのパーティー。私たちは共通の趣味も多くすぐに意気投合し、なんと2回目のデートで彼にプロポーズされました。

でも、そのとき私には結婚の意思はありませんでした。すでに一度離婚を経験していましたし、滞在ビザも自分で取得していましたので、結婚の必要性をまったく感じていなかったのです。そのことを正直にロイに告げると、彼は「結婚してくれないんだね。でも、君のそばにいるよ」と優しく言ってくれました。

■夢だったトランプタワーに入居した

ロイは私と一時も離れたがりませんでした。朝、私をアトリエに送って行き、その後彼は刑事事件のトライアルロイヤー(法廷弁護士)のため、職場の裁判所に向かいます。お昼になったらアトリエに来て、私と一緒に近くのお店でランチをします。その後、ロイはまた裁判所に戻ります。夕方になったら彼の事務所に電話をかけて、急用がなければ私のアトリエに来て、私の隣の部屋で仕事をします。

基本的に18時ぐらいになったらロイは家に帰るのですが、私が仕事を終える頃になるとまた迎えに戻って来ます。それが毎日でした。たまに私がタクシーで勝手に帰ったら叱られていました。

短期で遊びに行くのはアトランティックシティーのカジノが多かったです。ニューヨークからドライブして2時間ちょっとで着きますから。ロイはルーレットが大好きでした。別に賭け事だけをやるのではなく、昼間はボードウォークを歩いたり、ジムで運動してマッサージを受けたり、とにかくリフレッシュしていました。

他にはパリにあるお気に入りのレストランにふらっと食事に行ったりもしました。カリブ海の島々に泳ぎに行くなど、ニューヨークの日常から離れて、疲れを取るための手段です。今もそうですが、私はその頃もスケジュールが入らない限りお休みを取らないので、定期的にバケーションを無理やり作っていました。

「トランプタワーに住みたい」という話をロイから聞いていたので、彼を驚かせようと思い、内緒で内見に行ったりもしましたよ。トランプタワーに入居するには、職業、収入、経歴などに厳しい審査が入るのですが、それらを全てクリアして彼と一緒に念願のトランプタワーに入りそこで暮らし始めました。

■これ以上待たせたら罰が当たる

そんなふうに愛を育み、いつも一緒で周りには、“ツインズ”と呼ばれていましたが、思えばプロポーズを断ってから既に17年の年月がたっていました。

そんなある日、ロックフェラー財団からの依頼で“花の女神”というタイトルでコレクションを製作したときのことです。ショーの後、ロイは私のスタッフたちと一緒に私の作品を片付けてくれていました。

普段はアルマーニのスーツが好きでそれを着こなし、さっそうと裁判所に出廷する超おしゃれな彼が、Tシャツ、ジーパン姿で汗だくになって作業してくれているのを見て、「これ以上彼を待たせていたら罰が当たる」と心から思いました。

著者(右)とロイ・P・ミラーさん(故人)=著者提供

その日の夜に今度は私からプロポーズしました。「ロイ、私と結婚してください!」ロイは何も言わずに涙を流しました。そして、めでたく晴れて夫婦となった私たちですが、その6年半後、突然の別れが訪れました。

■朝、目が覚めると失明していた

事の始まりはある日の朝起きると、彼の目が90%見えなくなっていました。信じられない出来事が起こり、ニューヨークの著名な眼科医を5軒回ったのですが、どこのドクターも「100%失明している」とか、“I'm sorry.”と首を横に振るばかりでした。ほんの少しは見えると言っても誰も信用してくれず、「もう、どうしようもない」ということでした。

思えばその前に予兆はあったのです。毎週、週末にはセントラルパークを走っていたロイは、ある時期から息が続かなくなり、皆にどんどん抜かれると言うのです。スポーツマンで、身長190cm、筋肉質のやせ形で、皆からうらやまれる体型だったのに、苦しくて階段も上がれなくなりました。病院嫌いのロイが自分で病院に行くと言い出しました。

「肺高血圧症」。心臓から肺に血液を送るための血管である肺動脈の血圧が高くなり、体に酸素が回らなくなる病気です。失明もおそらくそれが原因で起こったのだと思います。まさかそんな病気にかかっているとは……。

■苦しくても「自分が行かないと」と法廷へ

ロイは失明してからも裁判所に通い続けました。アシスタントに内容を読み上げてもらい彼が判断を下していましたが、病気による腹水でおなかがぱんぱんに膨れ、スーツの前も閉められない状況でしたが、「自分が行かないと、容疑者のあいつは無期懲役になる」と何度も言うので両サイドを抱えて連れて行きました。ロイは苦しくて、はぁはぁ吐息をしながら少しずつ進むのですが、法廷に入ったとたん弁護士の顔、態度に変わりました。

著者(右)とロイ・P・ミラーさん(故人)=著者提供

裁判官が検事とロイに「準備はいいか?」と尋ねます。ロイはドンッ! て机をたたいて、声を振りしぼり“I'm ready.”って言うんです。彼が亡くなる7日前まで裁判所に通いました。

2年ほどの間で、5カ所のビルの維持費や治療費等で億単位のお金が出ていき、キャッシュはほとんど使い果たしてしまいました。アメリカ国民は健康保険がないので、とても高額な個人の保険に入らない限り、治療費として驚く金額が請求されます。

例えば、3日間検査入院した場合3万ドルものお金が当たり前にかかります。当時トランプタワーの60階からトランププレイスの42階に移り住んでいましたが、高層階の大好きなロイのために住んでいたにもかかわらず、目が見えないことや健康上の諸問題等で、ここにいても意味がないなと思い始めました。

どこか空気の良いストレスのない所にしばらく移ろうと思い、探し回った末、ウエストチェスター(ニューヨーク郊外)の山の中の別荘を借りてそこへ引っ越しました。もう、自分のキャリアや仕事どころではありませんでした。私たちは初めてマンハッタンを後にしました。

■絶対に死なせない。私が助ける

体中に酸素が回らないため、色んな最悪の症状が出てくるようになりました。

皮膚疾患があちこち出てくるのですが、脚にもあちこち穴が開きリンパ液が染み出てくるようになりました。早朝に毎日薬局に行っていた私は、色んな種類のばんそうこうを買い、傷の大きさに合わせて、毎日朝、晩、彼の脚のばんそうこうを張り替えました。

剥がすときに皮膚もめくれてしまってとても痛いから、もう貼るのをやめたほうが良いと思っていた時、「それでも貼ってほしい」とロイは言いました。私は毎日泣きながら貼っていました。彼の脚の皮膚は、シーツやパジャマのコットンが当たるだけで火が吹くほど痛くなるほど膿(う)んでいました。

医者からはいつ死んでもおかしくない状況であると宣告されていましたが、私にはロイの居ない生活は考えられず、“何があっても私はロイを絶対死なせない! 絶対に私が助ける!”という気持ちでした。

医者の言葉を聞いたロイは、家に帰ってからうずくまって泣いていました。私が「何で泣いているの? 死ぬわけないじゃない。外国人の嫁を1人置いてここで死ぬわけ?」って言ったら、彼は「ああ、ごめんね。何か大きな間違いをしていたようだ。死ぬわけない。君と一緒にいるよ」って言ってくれました。

■「おいしいね」と最期に欲したもの

しかしその言葉もむなしく、ロイはある日の朝亡くなりました。

呼吸困難でベッドに横たわることもできず、リクライニングチェアで寝ていた彼は、朝起きると汗びっしょりになっていました。「暑い、暑い」と繰り返すので水を飲ませると、“It's so delicious.”と言いました。慌てて、2杯目、3杯目と運びましたが、「そんなに飲めないよ」という返事を聞き、うれしかったのを覚えています。

この頃は毎日緊急病院に連れて行く状況でした。こんな状況なのに病院に行っても何もしてくれないので、家に帰るという日々でした。この日も病院に連れて行こうと車を呼ぼうとして、はっと気が付いたらロイの瞳孔が開いていて動かなくなったのです。

急いで救急車を呼びました。さっきまで普通にしゃべっていたし、お水も飲んでいたから気絶しているだけだと自分に言い聞かせて。救急隊員が到着し彼の容態をチェックしている横で、入院のための荷造りをしていました。

そうしたら救急隊員が、荷物を準備している私の手を押さえて、“I'm so sorry. He has gone”と言ったんです。さっき喜んで飲んでいた水が死に水だったんですよね。彼は死んだと言われても信じられなくて、頭の中がぐるぐる回り、泣くにも泣けませんでした。

ロイは髪の毛が長くてポニーテールにしていたので、まずそれをほどいて髪の毛をといてあげました。「お願いだから椅子から降ろしてあげて」と救急隊員に懇願しましたが、「警察が来ないと触れない」と言われ、「でも降ろしてあげてほしい」「もうちょっと待って、すぐ来るから」と押し問答でした。

家の中で亡くなったので、NYPD(ニューヨーク市警察)とウエストチェスターの地元の警察が来ました。主治医に連絡するなど現場検証をした後、事件性はないということで、葬儀社に連絡しました。

■出張もドライブも布団の中も、いつも一緒だった

しばらくすると葬儀社の人が来て、ロイのお気に入りのスーツやネクタイ、下着や靴などを渡しました。洋服を入れるようなプラスチックの袋にロイを入れました。ジッパーをジャーっと上げられてロイは連れて行かれました。ものすごくあっけなかった。1人残った私は現実を受け止められませんでした。

24時間いつでも一緒だった夫と死に別れたつらさを想像できますか? 私が仕事で日本に行くとき、彼はほかの弁護士にお金を払って代わりに出廷してもらい、追いかけてきたんですよ。それぐらい四六時中一緒でした。車を運転しているときにも私の膝の上に手を置いていたし、電車の中でも必ず私の肩を抱いていた。冬の寒い日、ベッドで寝ているときも、冷たい私の脚をあったかくなるまで自分の脚で包み込んでくれていました。

そんなロイと、23年6カ月過ごしたニューヨークに、1人で居続けることなんてできませんでした。自分の夢をかなえるために渡米してきたニューヨークでの生活でしたが、いつしかロイと2人で歩んでいました。ニューヨーク中に彼との思い出があります。だからロイを亡くした今、1人でニューヨークに住み続けることは考えられませんでした。

絶望で正気ではない中、とにかく全てを置いてここから離れようと思いました。山の別荘を引き払い、マンハッタンに戻り、すべてをクローズしていきました。もちろんパークアベニューの彼の弁護士事務所もです。

■身一つで来たんだから、身一つで去ればいい

日本に帰るまでの2週間くらいは、驚くほどボロボロのホテルに初めて泊まりました。ロイが亡くなった時のことを思えば、私がゆっくりきれいなホテルで過ごすことはありえないと思いました。何も感じなくなっていたので、どこに居ても一緒でした。

著者(右)とロイ・P・ミラーさん(故人)=著者提供

現金はほとんど無くなっていましたが、歌川広重やシャガールのオリジナルの絵画や、ポルシェ、メルセデス・ベンツの車など、他にも財産はかなりありました。でも、それらすべてをニューヨークに置いてきました。もう私には、そのままニューヨークにとどまり、交渉しながらすべてをお金に変えるという気力はありませんでした。一部は知人にあげましたが、結局すべてを放棄したことになります。

一番大切な人を無くしてしまい、私には何も必要が無くなったのです。その時は品物を見て思い出を浮かべるのもつらかったせいかもしれません。日本の友達には「なんでそんなもったいないことを!」と怒られましたが、私はもう死んでもいいと思うくらい絶望の縁にいたので、財産を日本に持って帰りたいなんて思い至りませんでした。25年前にニューヨークに裸で来たわけですから、裸で帰ればいいと思ったのです。

■生きる目的を探すために帰ってきた

日本に戻ってきてからは、家族や知り合いの家に住ませてもらいました。しばらくは何も考えられず、今考えてもどうやって帰って来たのかもはっきりした記憶がありません。そんな中で、人生で初めて8カ月間、ただひたすら弟の食事や家事をする生活をしました。その後一人住まいを兵庫・芦屋で始め、最初に来たのがタイ・バンコクのオークラホテルでの私のNYコレクションのショーの依頼でした。

その後、AKEMI S.MILLER BEAUTY STUDIOの設立や化粧品開発の仕事も始めました。事業を広げたり、いろんな人に会ったり、まだまだやりたいことはたくさんあります。

母国日本に帰ってきたのは、生きる目的を探すためです。ロイ以上のパートナーは現れないと思っていますが、もしどなたか私のことを気に入ってくれる方がいて、ロイとは違う形のパートナーシップができるのだったら、それもいいかなって最近やっと思い始めました。そう思えるまで丸5年半。自分にとってはとても長い年月でした。

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アケミ・S・ミラー(Akemi S. Miller)
トータルビューティープロデューサー
兵庫県生まれ。京都できものを学び、1979年から東京で“曽根あけみ”として活動。89年にニューヨークに渡り、AKEMI STUDIOを設立。ニューヨークコレクションのデザイナーとして活躍した。

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(トータルビューティープロデューサー アケミ・S・ミラー 構成=万亀すぱえ 写真=iStock.com)

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