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愛のピークを結婚式に注ぎ込む夫婦の末路

プレジデントオンライン / 2019年7月26日 6時15分

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Виктор Высоцкий)

恋愛結婚と見合い結婚の最大の違いはなにか。文化人類学者の上田紀行氏は「恋愛結婚では結婚式で情熱がマックスになる。その結果、結婚式の後に愛がバブル崩壊を起こすカップルが少なくない」と指摘する――。

※本稿は、上田紀行『愛する意味』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

■結婚を遠ざける「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」

そもそも日本というのは、愛や自由を基軸に組み上げられている文化ではなく、かつては結婚も地縁・血縁で見合いをして行われてきました。恋愛結婚が増えたのはごく最近だと言えます。

そこで、近代に出てきた恋愛と結婚とセックスを強く結びつける考え方を「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」と言います。男女の精神的・人格的結びつきが強調されることから、不倫は当然否定されますし、子孫を絶やさないためにお妾さんをおくというような考え方も、今の日本には完全になくなっています。

実際にはどうでしょう。恋愛結婚は、ワクワクできる素敵なことなはずですが、みんながそれを謳歌しているというわけでもないようです。

恋愛結婚がスタンダードになるにつれて、結婚する人は減っています。30年前の統計では、男性の平均初婚年齢が27.8歳、女性は25.2歳でしたが、2010年には男性は30.5歳、女性は28.8歳と、一世代で晩婚化は3年もすすんでいるのです。

その一方で離婚率はと言うと、2000年代に入ってからは3組に1組が離婚する時代です。生涯未婚率も増えているので、結果的にロマンティック・ラブ・イデオロギーは、現代人を結婚から遠ざけていると言えるのかもしれません。

■愛が最高潮に達するタイミングで行う結婚式

これについて思い当たるフシで言うと、恋愛結婚で情熱がマックスになるのは結婚式及び披露宴であるわけです。出会って愛情関係をむすび、互いの愛のエネルギーがどんどん高まっていって100%のフルチャージに近づいていく実感を得て、「この人となら」と、結婚するという大英断ができる。恋愛結婚によくない点があると思うのは、まさにこの部分です。

チャペルや神前式、人前式で愛を誓い、披露宴で2人の誕生から出会いを描いたビデオを流し、両親への花束贈呈をして、新婚旅行でリゾート地のスイートルームに泊まり、結婚生活が非日常的な物語のクライマックスから始まるのです。

愛のエネルギーがハイパーインフレと化していたからこそ、これだけの大事業を乗り越えられるのかもしれません。しかし本来ならば、そこから始まる結婚生活こそが人生の彩りなのですから、エネルギーを使いきってバブル崩壊をおこしてしまうのはどうかということなのです。

それもこれも近代に入って日本では、「結婚式は結婚の閾値である」と思われてきたのではないでしょうか。つまり、地味でも派手でも、結婚というのは何らかの神聖なイベントをしないと始まらないと思っているのです。

実際には結婚や結婚式というのは時代によってまったく違うもので、特に「神に誓う」というかたちはむしろここ数十年の新しい流れです。

■神前挙式は神社が売り出したブライダル事業

これは以前、私の研究室の学生が修士論文で調べているのですが、日本の伝統的な挙式スタイルと思われている神前結婚式が始まったのは、明治33年です。

大正天皇の結婚にあたり、日本は海外に向けて文化国家を演出するために、結婚式という公式行事を見せなければいけなくなりました。このとき皇居で行った神前挙式に、ビジネスチャンスを見出したのが神社です。皇居での式を見習って日比谷大神宮(現東京大神宮)で模擬結婚式が行われ、これを神宮奉賛会という神社の全国組織が事業として売り出したところ、一気に庶民に広まったのです。

このときのキャッチコピーが、「室町以来継続していた伝統の伊勢・小笠原流の礼法を古史として、神道式の飾りに三三九度の杯を折衷し、親族の固めの杯を取り入れるなど、古来より行われてきた結婚儀礼を簡略化し再編成した形式」となっています。

「三三九度」が初めて登場したのも、実はこのときです。それまでの結婚式というのは、自宅に親類を招いてお披露目の会食をするような、緩いものだったのです。

結婚や結婚式という常識がどれだけ時代の流行に左右されているかということです。であれば、これから先、フランスのように結婚制度を緩めて、結婚式や入籍をしなくても、一緒に暮らしたり子どもを育てたりするための税制上の優遇を得られるようなしくみを作るというのもいいのかもしれません。

■見合い結婚がほとんどなくなった背景

恋愛結婚が増えるのと反対にほとんどなくなってしまったのが見合い結婚ですが、その大きな理由は、戦後私たちの暮らしの中から、地縁・血縁といったかつての共同体が失われていったからなのでしょう。

地域だけでなく、家族制度そのものが、当時の多くの若者にとっては厄介で、将来を封じ込めようとするしがらみ以外の何ものでもありませんでした。

「長男だから家の跡を継がなくてはいけない」「女だから学問などしないで早く嫁にいけ」など、生まれた順番や性別で人生を決められてしまうことに対し、1947~49年生まれの団塊の世代以降の私たちは、大きな反発を覚える世代になっていたのです。

こうして、地域共同体を逃れて都市生活を始めた若者は、自由を得た反面で、地縁・血縁の持っていた温かさのようなメリットも受けられなくなったと言えます。

孤独なタイプの人間は、本当に孤独になってしまいました。恋愛こそが結婚に至る正攻法という考え方では、どれだけまじめに生きて社会的な役割をきちんと果たしている人でも、コミュニケーション力の弱さが大きなネックになり、なかなかゴールにたどり着くのは難しいのです。

少し前ならどんな町内会にでも、「あなたもそろそろでしょ」「この人なんだけどどう?」と、お相手の写真を持ってきて、勝手に話を進めようとするおせっかいな仲人おばさんがいたものです。

本人にはまだ結婚する気などなくても、あまりのしつこさにしぶしぶ見合いをしたら、それがご縁になったなどというのがほとんどのなれそめだったかもしれません。

恋愛結婚では、ピッチャーとして試合を切り盛りしていくことをすすめている私ですが、見合い結婚では、バットも振らないのにフォアボールで塁に出られて、急かされながら走っていたらなんだか1点入っちゃったということもあったのかもしれません。

■恋愛で浮き彫りになる「人生の癖」

さて、ここからは恋愛や結婚の中であぶり出されてくる、ひとりひとりの「人生の癖」について考えてみたいと思います。それは人生の始まりから身につけた癖なのですが、それが2人の関係に大きな影響を与えることが少なくないからです。

この世に生まれたとき、私たちは誰もが100%の愛を与えられ、何の不満も不安もない状態です。泣けばいつでも母がおっぱいをくれ、また気持ちよく眠りながら、世界は私のためにある、私は世界そのものだという混沌の中に生きているのです。しかし、あるところで「私と世界とは違う」という分断線が入ります。

たとえば、弟や妹が生まれて、「あなたはもうお姉さんになったのだから、そんなふうに甘えていないでしっかりしなくちゃね」と、言われる。それは、100%の存在であった私に「甘えないでしっかりした子どもになったら愛されるけれど、甘えているままでは愛されないのよ」という禁止事項が与えられたということです。

この禁止によって、混沌として一体化した世界に分断線が入り、「私」と「世界」に分離されるのです。このことは、世界のあらゆる神話に描かれています。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた(『創世記』1章1節)

■世界から切り離された「痛み」が人を育てる

上田紀行『愛する意味』(光文社新書)

混沌とした世界に、あるとき「光あれ」という言葉とともに光と闇ができる。そして、ギリシャ神話のプロメテウスや日本神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)などの文化英雄が出てきて天と地を分け、天と地は「痛い」と言いながら分断される。その分断によって「私」という意識が生じ、同時に誰もがものすごい痛みを抱えることになる。

世界中にある創世の神話は、どれも荒唐無稽な作り話などではなく、人間の自我の形成そのものを示しているのだというのは、ユング心理学の系列の神話学者であるケレーニイなどの学説です。

私は最初から私であるのではなく、世界から切り離される痛みを持って私になっていくのであるということ。そして、痛みとともに与えられた条件(禁止事項)が、その人の「人生の癖」になるという考え方です。

ある人にとっては、兄弟が生まれて「もう甘えてはいけない」という禁止であるし、ある人にとっては、食事や排便のしつけが関係する場合もあります。また、夫婦(両親)の間の葛藤に巻き込まれていく中での条件付けのようになっている場合もあります。

この条件は、ひどいときには、成長してからの不安発作の原因にもなります。「なぜ、この状況になると私は不安発作が起きるのか」ということを探っていくと、この痛みにたどり着くということになるのです。

■「嫌われているかも」と不安になるのも“癖”

私の場合で言えば、家の中に母親とお手伝いのおばさんという2人の女性がいたために、「このおばちゃんの言うことを聞かなければいけないのよ」とか「周りの人に愛されてないとあなたはダメなのよ」というような条件です。

それで、私の場合は、嫌われているのではないかということに対して非常に鋭敏になってしまいました。そう親しくもない人ならいいのですが、近い存在である嫁さんとかの機嫌がちょっと違うだけで、「自分を嫌いになったのでは」と、とても嫌な気持ちでドキドキしてしまうことが多かったのです。

しかしこれは禁止事項であり、痛みでありながら、「こうすればあなたは生き延びられる」という戦略としても与えられているものです。そこで、大人になってもその「人生の癖」をずっとやり続けるという人が多くなります。

■誰かと交際する前に、自分の隠された条件を知る

虐待とかアダルトチルドレンのことだけを言っているのではありません。誰もが、生まれたときの「私が世界のすべて」という、心地よく混沌とした状態を続けていきたかったのに、そこに分断線が入れられて、痛みとともに切り離されてしまったのです。

誰でもが、「私」という意識を持つと同時に、すでに「こうしないと生きていけない」という条件付きにコントロールされた存在なのだということです。

あなたが虐待を受けていようがいまいが、親の愛がどのようであろうが、何らかの形で私たちは「人生の癖」を身につけてしまっています。成熟した人間になるというのは、私というものが分断されたときにどういう条件が付いたのかということに関して気がつくことが必要です。

特に、この条件は親子のような親しい人間関係について与えられているために、恋愛や結婚で問題になってきます。大人として、誰かとつきあいたいとか一緒に住みたいと思ったとき、そのプロジェクトを前にすすめていくためには、自分自身にはどういう隠された条件が付いているのかに気づいていく必要が出てくるのです。

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上田 紀行(うえだ・のりゆき)
文化人類学者、医学博士、東京工業大学教授
1958年生まれ。東京大学大学院博士課程単位取得退学。岡山大学で博士(医学)取得。86年よりスリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後「癒やし」の観点を最も早くから提示し、生きる意味を見失った現代社会への提言を続けている。日本仏教再生に向けての運動にも取り組む。代表作『生きる意味』(岩波新書)は、06年全国大学入試において40大学以上で取り上げられ、出題率第1位の著作となった。近著に『愛する意味』(光文社新書)がある。

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(文化人類学者、医学博士、東京工業大学教授、リベラルアーツ研究教育院長 上田 紀行 写真=iStock.com)

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