名門・開成の教師は「東大に行け」とは言わない

プレジデントオンライン / 2019年8月21日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/taka4332

日本一の東大合格者数を誇る開成高校の生徒は、高校3年の5月まで部活動と運動会の運営に異様なほど熱中し、学校側も彼らに口を出さない。また教師たちから「東大に行け」ということもないという。それではなぜ東大合格日本一が続いているのか。卒業生への取材からその理由に迫る――。

※本稿は、永井隆著『名門高校はここが違う』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■一番の特徴は、課外イベントの多さ

最高学府・東京大学に38年連続で日本一の合格者数を誇る開成中学校・高等学校。2019年の入試でも187名の合格者を輩出し、堂々の一位である。初代校長は、後に総理大臣にもなる高橋是清。優秀な卒業生を輩出する名門高校の伝統や校風を、OBはこう語る。

「中学・高校併せて開成学園の一番の特徴は、課外のイベントが多いことでしょう。4月には筑波大学附属高校とのボート対抗戦があり、5月の第2日曜日には学園最大のイベントである運動会があります。ちなみに私はボート部の所属だったのですが、2回出場して一勝一敗。今でも当時をありありと思い出す、大事な青春の記憶です」

開成高校の特徴を尋ねた時、意外な答えを返したのは、富士電機元会長で現在は独立行政法人国立公文書館館長の加藤丈夫氏(1957年卒)だ。OBの加藤氏は開成学園の理事長(2000~09年)と学園長(2000~09年)を務め、学園と深く関わってきた人物の一人である。開成の創立は1871年(明治4年)。1891年の尋常中学校令で一時的に東京府立の中学校になった時期もあるが、1901年に再び私立校へと戻り、創立直後の一時期を除いて、一貫して男子校だ。

■勉強「しろ」と言わない教師

62年に卒業した直木賞作家の逢坂剛氏は、「56年に中学に入ってから6年間、教師から“勉強しろ”と言われた記憶がありません。とにかく自由な校風でしたね。開成OBには、世界的な演出家の蜷川幸雄さん(55年卒・故人)や、作曲家の猪俣公章さん(57年卒・故人)もいます。私と同様に、それほど勉強に熱心なタイプではなかったでしょうけれど(笑)、個性的な突き抜けた人材が生まれたのは、その校風によるところは大きいでしょう」と指摘する。

■受験以外の目標をいかに定められるか

進学校として知られる開成だが、昔も今も、勉強をするか否かは生徒に委ねられている。また、進路指導を学校が積極的に行っているわけではない。

メディアアーティストであり筑波大学准教授・学長補佐の落合陽一氏(2006年卒)は、「開成は中高一貫校として中学で300名が入学しますが、高校からも100名が入学します。私も高校からの入学。入試はそれなりに難しいけれど、一度入学してしまうと学校は勉強せよと迫りません。だから好きなこと、やりたいことができます。それでも地頭がいいというか、ガリ勉じゃないのに成績のいい奴が何人もいて、高3が受ける模試で高校2年生が一番を取ってしまったり。とんでもなく頭のいい人がいますね」と話す。

クリーンエネルギーの開発と支援に取り組むクリーンプラネット社長の吉野英樹氏(93年卒)は、「開成は進学校ではあるものの、大学受験がすべての目標ではありません。私は柔道部に所属していましたが、高2の運動会が終わった直後に翌年の運動会の団長選挙に立候補。橙(だいだい)組(5組)の団長に就任しました。高3の運動会まではガンガン体を鍛え、部活と運動会に備えたのです。運動会は生徒の自主運営で、学校は口を出しません。それくらいに大事な行事なのです」と言う。

■メインイベントは運動会の“棒倒し”

高校は2年生から3年生になる時に組替えがなく、そのまま持ち上がる。メインイベントの棒倒しは、高校3年生と2年生のみの組別のトーナメントだ。ちなみに高1以下は、たとえば中1は騎馬戦などほかの競技が用意されている。また、仮装行列などのアトラクションがあり、女装した“ミス開成”が非公式に決まり、毎年話題となったそうだ。

現在、内閣情報官を務める元警察庁の北村滋氏(75年卒)は、「警察官僚になった私ですが、当時は文学青年でした。それでもボートレースの応援指導、そして“棒倒し”がメインイベントの運動会には思い入れがある。質実剛健であり、ディスプリン(規律)が保たれていることが開成の特徴だと思います。卒業後も、省庁や会社ごとにOB会があり、何かと結束力は強い」と語る。

73年に高校から入学した外務大臣の岸田文雄氏は、入ってすぐ衝撃を受ける。

「ボートの応援指導だといって、屈強な3年生たちがいきなり、ドカドカと教室に入ってきた。高校生には見えないような大きな人たちでしたが、彼らから怒鳴られ、脅かされながら、一生懸命に応援歌を歌ったのを覚えています。強烈でした」。とはいえ、岸田氏はすぐに硬式野球部に入部。東東京ブロックは、早実や帝京といった強豪校がひしめく激戦地区。遥(はる)かなる甲子園への出場を目指し、白球を追う日々を重ねる。「ポジションはセカンド、またはショート。他の学校よりレベルは低かったかもしれませんが、一所懸命やりました」。

■育てたいのは学力ではなく「自主性」

開成中学校・高等学校校長で東大名誉教授でもある柳沢幸雄氏(67年卒)は、次のように語る。

「息子を東大に入れたいと願う親御さんから、『(大学受験に対し)これほど面倒見の悪い学校はないのでは』と指摘されることもあります。しかし、開成は予備校のように受験指導したりはしません。わが校は『開物成務(かいぶつせいむ)』という理念を掲げ、目指すは、人間性の開拓・啓発です。勉強するもしないも、生徒の自由。自主性の中に、本来の知性が育まれると思うのです」

「だから、うちには『君は東大に行きなさい』と言う教師はいません。しかし、そうやって生徒の自主性に任せながらも、大抵の生徒は、高3の5月、運動会が終わってから受験勉強を始めます。そして、翌年には東大などの大学に入学する。これを後輩たちは見ていて、『棒倒しで大暴れしたあの人もできたなら、自分もやれるだろう』と後に続くのです。もちろん教師も、相談に来れば丁寧に指導します。年に二度、生徒にアンケートを取るのですが、学校に対する満足度は高く、中退者がほとんど出ないのも開成学園の特徴です」

■世界に開かれた建学の精神

開成高校は1871年、明治政府の兵部省で造兵正(ぞうへいのかみ)を務めた佐野鼎(かなえ)が中心となり、「共立(きょうりゅう)学校」として神田淡路町で設立されている。駿河国(現・静岡県富士市)生まれの佐野は、若くして洋式兵学に秀で、1860年(安政7年)に江戸幕府の遣米使節団として31歳で渡米。翌年には遣欧使節団にも随行し、英、仏、オランダ、ロシア、ポルトガルを歴訪した。

永井隆著『名門高校はここが違う』(中公新書ラクレ)

佐野について、自治医科大学学長で東京大学名誉教授の永井良三氏(68年卒)は、「佐野先生は江戸末期に米・欧を訪れ、英語教育をはじめ教育の重要性を実感された。つまり、わが国で世界を知る最初の人であり、開成建学の精神にも進取の精神が強調されたのでしょう」と語る。

ちなみに国家プロジェクトとして岩倉使節団が米欧を視察するのは、1871年末から73年秋にかけて。佐野は、これより実に10年も早く米欧に赴いたのである。まさに、“グローバル人材”の先駆けだった。

ところが、77年に佐野は急逝。学校は廃校の状態に陥るが、翌78年に初代校長として高橋是清が就任する。高橋は、学校を「大学予備門(後の旧制一高=現在の東大)に入る者の学力充実を目的とする」と明確に打ち出し、多くの志願者を呼び込んで経営再建を果たした。明治の一時期、再び経営難から東京府立となり「開成」と校名を変更するが、6年後の1901年、私立へと復帰している。

■華麗なる卒業生

明治期の卒業生は偉人揃(ぞろ)いである。尾崎行雄(文部大臣)、岡田啓介(総理大臣)、高田早苗(早大総長)、長岡半太郎(阪大総長・物理学者)、黒田清輝(洋画家)、秋山真之(海軍中将)、正岡子規(俳人・歌人)、南方熊楠(民俗学者)、島崎藤村(詩人・小説家)、柳田國男(民俗学者)、斎藤茂吉(歌人)、浅野総一郎(浅野セメントなど創業)、山口多聞(海軍中将)——。各方面に人材を輩出している。

その後、関東大震災により校舎が焼失し、1924年に現在の西日暮里に移転した。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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