専業主婦が億単位の機会損失に気づかないワケ
プレジデントオンライン / 2019年8月17日 6時15分
※本稿は、周 燕飛『貧困専業主婦』(新潮選書)の一部を再編集したものです。
■生涯で億単位の逸失所得が発生することも
一定収入以下の有配偶女性に対する税や社会保障の優遇政策は、「専業主婦」コースを選ぶ際に発生する所得減を緩和する働きがあります。このため、政府が意図しているかどうかはわかりませんが、日本の女性たちが「就業継続」コースよりも「専業主婦」コースを選ぶよう、誘導する効果があります。
身近な例に置き換えて想像してみましょう。「就業継続」コースは、多くの身体的・精神的負担が伴います。せっかく仕事に復帰しても、いつの間にか補佐的な仕事ばかりが与えられて出世コースとは縁遠くなり、キャリアの展望が見えなくなることもあります。いわゆる「マミー・トラック」というキャリアコースに乗せられることです。子育て期とキャリアの停滞期がちょうど重なり、同期の男性よりも配置と昇進の面で不利となり、仕事にやりがいを感じられなくなる女性も多いことでしょう。
「専業主婦」コースを選択すれば、こうした葛藤からある意味で解放されます。むろん、その対価は、所得の減少です。専業主婦になった期間、賃金収入を失うだけではなく、仕事復帰後の収入も本来よりも低いことでしょう。専業主婦を選択することによって失われた逸失所得のことを、経済学では「機会費用」と呼びます。機会費用の中では、仕事復帰後における将来収入の低下が特に大きいことが知られており、「専業主婦」コースを選ぶことは、生涯で億単位の逸失所得が発生することもあります。
■将来の高収入より、今の負担減を選んでしまう
問題は、こうした機会費用は、生涯にわたり少しずつかかるものであり、その金額の大きさが意識されにくいことです。一方、税や社会保障の優遇政策の恩恵は、機会費用に比べれば金額がはるかに及ばないものの、とても身近で金額もはっきりと分かります。
将来の高収入を選ぶか、現在の身体的・精神的負担減を選ぶか。長いタイム・スパンで考えれば、「就業継続」コースを選ぶ方が、より高い収入と消費水準を享受できます。一方、短いタイム・スパンで考えれば、身体的・精神的負担の軽減に加え、家事生産の「帰属所得」と税や社会保障政策の優遇は大きく、「専業主婦」コースを選ぶ方が有利のように思えるのかも知れません。経済学の用語で、将来の消費よりも、現在の消費を好む程度を「時間選好率」と呼びます。一般的には、時間選好率の高い人ほど、短いタイム・スパンで物事を決める可能性が高くなります。
■子育て期の「欠乏の罠」
時間選好率には大きな個人差があり、貧しく学歴の芳ばしくない人ほど時間選好率が高いことがアメリカの研究によって知られています(S.Mullainathan and E.Shafir(2013)Scarcity:Why Having Too Little Means So Much(Times Books,NY))。貧困主婦の話に当てはめると、彼女たちは時間選好率が比較的高いグループであり、「継続就業」を選んだ場合の長期的な「報酬」を見逃しやすく、短期的な「マイナスの報酬」を過剰意識してしまいがちです。そのような現象に対して、行動経済学的には、「欠乏の罠」という解釈があります。
子育て中の女性は、時間に追われている感覚を強くもっています。子どもの食事づくり、授乳、おむつ替え、戸外活動、読み聞かせ、入浴、添い寝など、日常の子育て活動は、たくさんの時間を消耗します。子どもが病気になったりすると、慌ただしさがさらに増します。彼女たちは、まさしく時間的「欠乏」の状態にあります。
時間的「欠乏」は、お金を使えばある程度軽減できます。日中に子どもを保育所に預けたり、ベビーシッターを雇って子どもの世話を任せたり、戸外活動のできる公園や、ヘルシーでおいしい総菜を買えるスーパーの近くに住居を構えるなどして、時間の節約が可能です。
しかし、仮にお金も「欠乏」していれば、何が起きるのでしょうか。家賃の安い地域に住居を構えるとします。すると、近くには、公園もスーパーも少ない場合が多いため、通うまでの時間が余計にかかります。収入が少ない中、食費を抑えようと、特売日を狙って一層遠くの激安スーパーまで買いに行くこともあるでしょう。
つまり、時間の「欠乏」はお金である程度解消できますが、お金が「欠乏」していれば、時間の「欠乏」にさらに拍車がかかるのです。お金と時間の「欠乏」は、人との付き合いを制約して、社会関係の「欠乏」を呼びます。社会関係の「欠乏」は、情報の「欠乏」に繋がります。情報の「欠乏」はさらなるお金の「欠乏」を招きます。
■貧しい患者ほど、薬を飲まない
「貧困は、生活におけるほぼすべての側面において『欠乏』を呼び寄せてしまう」と、行動経済学者センディル・ムライナタン(ハーバード大教授)と心理学者エルダー・シャフィール(プリンストン大教授)がその著書で指摘しているように、貧しい人ほど「欠乏の罠」に陥りやすくなります。
ムライナタン教授らはさらに、貧困に伴う種々の「欠乏」に囲まれる中、人々は別の新しいことに関わる余力、いわゆる脳の「帯域幅」が、不足しがちになると指摘しています。脳の「帯域幅」は、人々の知力や、新しい情報を処理する能力を指します。それが不足していると、人々は情報を収集する能力、計画や立案する力、とくに長いタイム・スパンを見据えてのプランニング能力が弱くなります。これは、行動面の「失敗」を招いてしまいます。
アメリカの糖尿病患者を例にあげましょう。糖尿病は、昏睡、失明、足の切断や突然死を招くほどの恐ろしい病気ですが、正しく服薬すれば病状を有効にコントロールできることが知られています。言い換えれば、服薬には長期的には大きな「報酬」が見込めるのです。それにもかかわらず、薬の服用を怠る患者が多い。とりわけ低所得の患者ほど、服薬率が低く、糖尿病の進行が早いのです。お金の問題ではありません。低所得の患者には、メディケイドという無料の医療制度があり、自己負担ゼロで薬が入手できます。薬の費用的負担よりも、苦しい、面倒くさいなど服薬に伴う短期的な「マイナスの報酬」があり、それを患者たちが乗り越えられないことに服薬管理がうまくいかない理由があると考えられます。低所得の患者ほど、その短期的な「マイナスの報酬」に左右される傾向が強く、薬の服用を怠るという行動面の「失敗」を起こしやすくなります。
■「貧困なのに専業主婦」は一種の行動面の「失敗」
専業主婦の話に戻ると、「貧困なのに専業主婦」という状態も、一種の行動面の「失敗」として捉えることができます。貧困は、栄養、健康、児童虐待、教育などさまざまな側面において、子どもにとってはきわめて不利な成長環境です。中長期的には、貧困家庭の母親が保育所を利用して働きに出ることは、子どもの健康や教育に良い影響を与えることが分かっています。
それにもかかわらず、子育てを理由に専業主婦を選ぶ貧困家庭の女性が大勢います。保育料が高すぎたことが原因ではありません。認可保育所の保育料は、応能負担が原則であり、貧困・低収入家庭の子どもは、無料または極めて低料金で認可保育所を利用できます。認可保育所のサービスは、実質上、低収入家庭への高額給付と言って良いでしょう。保育所を利用しないことは、この高額給付を自ら放棄することに等しいのです。
その行動に対して、直接的には、「保育所は子供が野放しになるところ」や、「保育所のことがよく分からない」といった保育所への偏見や疎外感をあげる女性が多いことが挙げられます。これは、行動経済学的には脳の「帯域幅」の不足による行動の「失敗」と見ることもできます。
■保活の面倒さは大きなハードルに
我々自身が、日々の生活において種々の「欠乏」と戦ってすでに精一杯の状態であり、脳の「帯域幅」が不足しがちな状況に置かれている時の行動を想像してみましょう。子どもを保育所に入れるためには、保育所に関する正しい情報を収集したり、保育所の希望先を絞ったり、入園申請書類を一通りそろえたり、並びに求職活動を開始したり、履歴書や就職スーツの準備をしたりするなど、一連の面倒な手続きをまず行う必要があります。
脳の「帯域幅」が不足していると、こうした面倒な手続きがもたらす「マイナスの報酬」が前向きの行動を阻みます。その場合、働くことは長期的に魅力的な「報酬」をもたらすことをたとえ分かっていたとしても、実行に移すことができません。短期的な「マイナスの報酬」は乗り越えられないため、「貧困なのに専業主婦」というジレンマが生まれるのです。
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労働政策研究・研修機構(JILPT)主任研究員
1975年中国生まれ。労働政策研究・研修機構(JILPT)主任研究員。大阪大学国際公共政策博士。専門は労働経済学・社会保障論。主な著書に『母子世帯のワーク・ライフと経済的自立』(第38回労働関係図書優秀賞、JILPT研究双書)等
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(労働政策研究・研修機構(JILPT)主任研究員 周 燕飛 写真=iStock.com)
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