1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

「世界遺産の都市で人肉食が横行」独ソ戦の悲劇

プレジデントオンライン / 2019年8月30日 9時15分

1942年4月1日、ナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラードの通りを行く市民(ソ連・レニングラード) - 写真=SPUTNIK/時事通信フォト

1941年から45年まで続いた「独ソ戦」では、多数の市民が犠牲となった。特に悲惨だったのはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の包囲戦だ。300万人が取り残された結果、人肉食が横行するほどの飢餓で100万人以上が犠牲となった。多数の世界遺産をもつ美しい街で、なぜこのような悲劇が起きたのか——。

※本稿は、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の一部を再編集したものです。

■「敵の絶滅」を目指す戦争を支えた世界観

語弊があるかもしれないが、独ソ戦におけるナチス・ドイツの収奪政策は、他国民を餓えさせてまでも自国民の支持を確保・維持するという点で、まだしも「合理性」の枠内にあった。しかし、以下に述べる絶滅政策は、戦時下において、貴重なリソースを投入しながら、無意味と思われる虐殺を繰り返すものであった。したがって、一見、「合理性」、とりわけ「軍事的合理性」を逸脱した狂気の行為であるとみえるかもしれない。

けれども、ヒトラーとナチス・ドイツの指導部にとって、対ソ戦が「世界観戦争」であり、軍事的な勝利のみならず、彼らが敵とみなした者の絶滅を追求する戦争だったという補助線を引けば、まだしも、その論理を知ることができるだろう。しかも、この「絶滅戦争」を支えるイデオロギーは、ヒトラーの脳髄のなかに存在していたのみならず、ドイツ国民統合の原則として現実を規定するようになったことにより、独自のダイナミズムを得ていたのである。

その指標ともいうべき存在が「出動部隊(アインザッツグルッペ)」であった。出動部隊とは、国家公安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将直属の特殊機動隊で、敵地に侵攻する国防軍に後続、ナチ体制にとって危険と思われる分子を殺害排除することを任務としていた。すでにポーランド戦役においても編成されたことがあり、教師、聖職者、貴族、将校、ユダヤ人など、ドイツの占領支配の障害となるであろう人々を殺戮(さつりく)している。

■出動部隊による虐殺

対ソ戦においては、出動部隊の編制はさらに大規模になり、AからDまでの4隊がつくられ、北方、中央、南方の各軍集団、また、クリミア半島の征服にあたる第11軍に配属された。各出動部隊には、軍隊でいう一個大隊ほど、およそ600ないし900名弱の人員が配属され、特別分遣隊、もしくは出動分遣隊に区分された。武装親衛隊、警察などの隊員を中心とする彼らは、文字通り機動的に出動し、占領地でユダヤ人などの虐殺を実行したのである。

戦後、国防軍の軍司令官たちは、出動部隊の殺戮(さつりく)は、軍の管轄外の後方地域で行われたことで、自分たちには責任がないと主張した。しかし、今日では、1941年3月の「ユダヤ・ボリシェヴィキ知識人」を殺害すべしとのヒトラー命令に、国防軍最高司令部(OKW)も同調していたことがわかっている。同年3月13日、OKWは、「陸軍の作戦領域では、総統の委任にもとづき、親衛隊全国指導者〔ヒムラー〕が政務行政準備の特別任務を帯びる」ことを承認していたのだ。その結果、ヒムラーの指揮下にあるハイドリヒが出動部隊に指示を下すが、それらへの補給は国防軍が行うと定められる。親衛隊と出動部隊は、ポーランド侵攻のとき以上に、自由な行動が取れるようになった。

■犠牲者の総数が多すぎてわからない

出動部隊と国防軍の協同は、通常、つぎの手順を踏んだという。大量殺戮の前に、出動部隊長、または、その隷下(れいか)にある特別分遣隊か、出動分遣隊の指揮官が、対象となる集落や地域を管轄する国防軍部隊、もしくは業務所に連絡を取り、行動計画を通告する。必要とあらば、当該地の封鎖や殺害対象者輸送用のトラックの提供など、国防軍が支援を与えた。通訳の助けを借り、多くは地元住民から得た情報によって、ユダヤ人が特定され、集められる。そこから、射殺地に運ばれるか、追い立てられるのだ。また、射殺される前には、ユダヤ人は貴重品と着用している衣服を提出させられた。

こうしたやり方で、出動部隊はソ連各地で虐殺を重ねていった。2日間で、女性や子供を含むユダヤ人3万3771名の生命を奪った、キエフ近郊バビ・ヤールの殺戮(1941年9月)、1942初頭のハリコフにおける1万人の射殺……。出動部隊の手にかかった人々の数は、少なくとも90万人と推計されている。ただし、正確な犠牲者の総数は、その膨大さゆえに、今日なお確定されていない。

■政治委員は「除去」せよ

絶滅戦争の対象になったのは、民間人だけではない。ソ連軍の各級部隊に配された指揮官の政治的補佐役、「政治委員」も殺害の対象とされた。政治委員とは、共産党による軍指揮官の統制のため、各級部隊に配されていた政治将校で、ヒトラーからみれば、ボリシェヴィキの核心分子と思われたのである。

独ソ開戦前の1941年3月30日、ヒトラーは、国防軍首脳部との会議において、来たるべき対ソ戦においては、政治委員は捕虜に取らず、殺害するとの方針を示した。OKW統帥幕僚部は、このヒトラーの意向を受けて、「コミッサール指令」(正式名称は「政治委員取り扱いに関する方針」)と通称される命令を起案する。そこには、作戦地域において抵抗した、あるいは、過去に抵抗を試みた政治委員は「除去」する、また、軍後方地域において疑わしい行動を取った政治委員は、出動部隊に引き渡すべしと定められていた。

本指令は、1941年6月6日に、配布先は各軍・航空軍司令官までとするとの留保付で、陸海空三軍の総司令官に下達された。それ以下の職階にある指揮官には、口頭で伝えることとされたのだ。国際法に反することを承知しているがゆえの措置であることはいうまでもない。また、1941年秋からは、ユダヤ系のソ連軍捕虜も殺されることになった。

■「コミッサール指令」の皮肉な結果

こうして、ドイツ軍の捕虜となった政治委員やソ連軍のユダヤ人将兵は苛酷な運命を強いられる。通常のソ連軍捕虜から分別されたユダヤ人のうち、約5万人が命を失ったと推計されている。政治委員については、捕虜となった者およそ5000名が前線地域で殺され、別の5000名が捕虜収容所や後方地帯で処刑された。これら、戦時国際法に反する殺戮(さつりく)は、出動部隊や公安警察ばかりか、国防軍部隊によっても実行された。

ところが、コミッサール指令は、皮肉な結果をもたらした。捕まれば殺されるのだと知ったソ連軍の政治委員たちは、たとえば、包囲された絶望的な状況にあっても、徹底抗戦を命じ、ドイツ軍を悩ませるようになったのである。ドイツ軍の前線指揮官たちは、コミッサール指令の撤回を求めたが、ヒトラーは頑として応じなかった。包囲されたソ連軍部隊の投降をうながすためにという理由で、コミッサール指令が「実験的」に停止されたのは、ようやく1942年5月になってのことであった。

■捕虜となったソ連軍兵士の53%が死亡した

このように、政治委員に対しては組織的な殺戮(さつりく)が遂行されたが、捕虜となった一般のソ連軍将兵も、戦時国際法にのっとった扱いを受けたわけではない。彼らは、非人間的な環境の捕虜収容所に押し込められ、労働を強制されて、死に至った。その背景にあったのは、またしても「世界観」であった。1941年3月の演説で、ヒトラーは有名な言葉を洩らしている。ソ連の敵は、「これまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない」と。敵であろうと戦士としての尊厳を認め、人道的に扱うことなどしないという意味であろう。よって、ソ連軍捕虜に対する待遇は、西側諸国の捕虜の扱いとは、まったく異なるものとなった。

捕虜たちは、食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない捕虜収容所にすし詰めにされた上、日々、重労働に駆り出された。1941年の段階で、81の捕虜収容所が設置されているけれども、質量ともに不充分だった。飢餓と凍傷、伝染病のため、多数のソ連軍捕虜が死んでいく。反抗した、あるいは脱走をはかったとのかどで、射殺される者もいた。ゆえに、最終的な決算は恐るべき数字を示している。570万名のソ連軍捕虜のうち、300万名が死亡したのだ。実に、53%の死亡率だった。

この戦争犯罪に関しては、とくにドイツ国防軍の責任が問われている。捕虜に最低限の人道的な待遇を与えることは、軍の義務であり、専管事項でもあったのだが、国防軍指導部は、それを怠ったのである。

■ユダヤ人絶滅は「国外追放失敗の結果」だった

かつて、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅は、ヒトラーの人種イデオロギーを動因とし、ナチの政権奪取から、欧州のほぼすべてを占領、ないしは同盟国とする過程で、実現・拡大されたのだと説明されることが多かった。けれども、現在では、ナチス・ドイツは最初からユダヤ人絶滅を企図していたのではなく、国外追放が失敗した結果、政策をエスカレートさせていったとする解釈が定着している。また、追放から絶滅への転換についても、ヒトラーの意図というアクティヴな要因と、それを受けた関連諸機関の競合・急進化というパッシヴな要因が相互に影響し合ってのことだったとする説が有力である。独ソ戦は、この過激化に対し、大きくアクセルを踏む作用をおよぼしたのであった。

そもそも、ナチ政権は、彼らのいう「ユダヤ人より解放された(ユーデンフライ)」ドイツを実現すべく、当初、国外排除の政策を進めていた。公職追放や市民権の剥奪、経済的な締めつけによって、ユダヤ人が自らドイツを去っていくように仕向けたのだ。ところが、ユダヤ人の貧困層、あるいは高齢層は国外に逃れようとせず、ナチスの眼からすれば、もっとも残ってほしくない分子が「滞留」したことになる。加えて、1930年代後半からの領土拡張により、ナチス・ドイツの支配下にあるユダヤ人の数は急増した。開戦と占領地増大は、この傾向にさらに拍車をかける。いうまでもなく、ユダヤ人の海外移住路が遮断されたからである。

■独ソ開戦後に行われた「殺害の効率化」

ナチス・ドイツは、占領下のポーランド(ポーランド総督府)、仏領マダガスカル、また対ソ戦開始後はロシアの一部と、ユダヤ人を大量移住させる先を探しもとめた。しかし、そのいずれもが破綻した結果、システマティックな絶滅政策へと舵を切っていく。1941年3月には、ハイドリヒがゲーリングと、対ソ戦における絶滅の対象について協議している。同年7月31日、ゲーリングは、「ユダヤ人問題の最終的解決」に必要な措置すべてを取るに当たっての全権を、ハイドリヒに付与し、絶滅政策の総責任者にした。9月、ハイドリヒは、親衛隊大将に進級している。

独ソ開戦後には、前述の出動部隊が組織的な殺戮に踏み切った。彼らが得た経験をもとに、射殺から毒ガスの使用へと、殺害の「効率化」が行われた。1941年9月、アウシュヴィッツ強制収容所では、ソ連軍捕虜600名などに対してガス殺の実験が行われたが、これは同収容所におけるツィクロンBを用いたガス殺の最初の事例である。同年12月には、ポーランドのヘウムノに、強制労働ではなく、ドイツ語でいう「工場式(ファブリークメーシヒ)」の殺戮を目的とする、最初の絶滅収容所が設置される。一方、やはりポーランドの占領地で、「ラインハルト」の秘匿名称のもと、恒久的な絶滅収容所も建設されつつあった。

1942年1月20日、ハイドリヒは、ベルリン郊外ヴァンゼーに親衛隊公安部が持っていた保養施設に、ユダヤ人政策に携わる関連機関の実務者たちを招集し、「最終的解決」を協議した。この「ヴァンゼー会議」によって、労働可能なユダヤ人には、劣悪な条件での労働を課して自然に死に至らしめ、労働できない者は毒ガスで殺害するとの計画が了承された。絶滅政策が、正式に国家の方針として採用されたのだ。独ソ戦で試された絶滅政策が、いまやヨーロッパ各地に拡大されることになったのである。

■「ペテルスブルクをとろ火で煮込む」政策

また、そのような「世界観」にもとづく絶滅政策は、軍事的合理性を以て遂行されるべき作戦指導にも入り込んでいた。1941年9月、ドイツ北方軍集団はレニングラードへの連絡路を遮断した。しかし、北方軍集団は、包囲したレニングラードを一気呵成(いっきかせい)に陥落させるのではなく、兵糧攻(ひょうろうぜ)めにして干上がらせる策を採った。軍事的には、大きな損害が出ることが不可避の市街戦を避けるという理由付けがなされている。しかし、ヒトラーは実際には、レニングラードを「毒の巣」とみなし、その守備隊のみならず、住民もろともに一掃することを欲していた。彼の相談にあずかる国防軍首脳部も、「ペテルスブルクをとろ火で煮込む」ことを望んだ。

北方軍集団司令部に勤務していた、ある将校は、このように記している。「この都市に進入する企図はない」。レニングラードは「ボリシェヴィズム生誕の地」であり、ゆえに「かつてのカルタゴのごとく、地上から消滅させなければならぬ」。こうして、北方軍集団麾下(きか)の第18軍が、大都市レニングラードを取り囲み、外界からの物資輸送を遮断することになった。

■飢餓がひどくなり人肉食が横行した

1943年1月18日に解囲されるまで、このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民が嘗(な)めた悲惨は筆紙につくしがたい。食料備蓄がほとんどない状態で包囲された同市の配給は、とても生命を維持できない量にまで切り詰められた。たとえば、1941年末のパンの配給は、1日に125グラムにすぎなかったのだ。飢餓がレニングラードに蔓延した。ある医師は、つぎのように回想している。「12月になって、餓えに寒さが加わり、公共交通機関が停止すると、死者が出てきた。凍えて、餓えた人々は、誠実にその〔労働の〕義務を果たした。1日に125グラムのパンと腐りかけたキャベツの葉か、パン種のスープを摂っただけということがしばしばだったのに、とぼとぼと何十キロも歩いていったのである」。

こうした窮境にあって、人肉食が横行するようになった。1941年12月13日付の内務人民委員部(NKVD)の文書には、最初の人肉食に関する報告が現れている。1942年12月までに、NKVDは、死肉食・人肉食の嫌疑で2105名を逮捕した。ただし、当時のレニングラードのNKVDは、体制に従順でない分子を逮捕する名目に人肉食を使ったと伝えられているから、実際の数は判然としない。なお、人肉食に関するNKVDの報告が公開されたのは、ようやく2004年になってのことだった。

■900日の包囲で100万人以上が犠牲になったという

市民の死亡率も、たちまちはね上がった。1941年10月には、それまでの月平均死亡数より約2500人増、11月にはおよそ5500人増である。この数字は、12月には、おおよそ5万人増にまで上昇した。加えて、ドイツ第18軍には、市民の降伏を受け入れてはならないとの命令が下達されていた。同軍麾下のさまざまな部隊の記録には、「繰り返された突囲(とつい)に際して、女や子供、丸腰の老人を撃った」と記載されている。

大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)

もっとも、レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない。革命の聖都を放棄することをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ300万人が包囲下に置き去りにされることになった。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために、NKVDの秘密警察も冷厳な対応を取った。動揺する者、統制に従わない者を「人民の敵」として狩り立てたのだ。1942年6月から9月にかけて、レニングラードでは、9574名が逮捕され、うち「反革命集団」の625名が「根絶」されたとある。

結局、900日におよぶ包囲の結果、100万人以上が犠牲となったとされるが、正確な数字は確定していない。ヒトラーは、モスクワやスターリングラードも同様の運命に陥れるつもりだったと唱える研究者もいる。周知のごとく、軍事的敗北により、それは現実とならなかった。

----------

大木 毅(おおき・たけし)
現代史家
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。

----------

(現代史家 大木 毅)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください