ドイツ人が「ナチと心中」を選んだ不都合な真実
プレジデントオンライン / 2019年9月5日 9時15分
※本稿は、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)の一部を再編集したものです。
■「世界観戦争」貫徹という揺るぎない意思
東部戦線は崩壊に瀕していた。1944年8月20日に発動されたルーマニア方面へのソ連軍攻勢は大きな成功を収め、9月末には、ブルガリアに進出する。ブルガリアは枢軸国の一員だったが、陣営を転じて、ソ連側に立って参戦したのである。
ついで、ソ連軍はハンガリーに進撃し、12月末までに首都ブダペストを包囲、ドイツ軍とハンガリー軍の守備隊を孤立させた。ドイツ軍はブダペストを救出するため、装甲部隊を派遣して、1944年12月末から翌1945年1月にかけて反撃を行い、ひとまずソ連軍の前進を止めた。
しかし、ソ連軍は攻撃を再開し、2月12日、激しい市街戦ののち、ブダペストを占領した。北方、バルト海沿岸からポーランドにかけての地域においても、ソ連軍は「バグラチオン」以来の連続攻勢により、北方軍集団の後方を遮断しつつ、ドイツ国境に迫っていた。軍事的にみれば、すでに戦争の結着はついていたのである。
この窮境をみたリッベントロップ外相は、駐独日本大使大島浩を招き、ソ連との仲介を依頼した。日本側は、望み薄とは思いつつも、工作に着手し、その旨をリッベントロップに伝えた。ところが、結局、ヒトラーは最後まで軍事的成果に頼ると決定したというのが、リッベントロップの回答であった。
この一挿話に象徴されているように、ヒトラーは、敗北直前にあってもなお、対ソ戦を、交渉によって解決可能な通常戦争に(それが可能であったか否かは措(お)いて)引き戻す努力をするつもりなどなかった。「世界観戦争」を妥協なく貫徹するというその企図は、まったく動揺していなかったのである。
■なぜ抵抗運動は起きなかったのか
しかし、ヒトラーはそうであったとしても、ドイツ国民は何故、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不可能としたではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によって、戦争を拒否することも可能ではなかったのか。どうして、1944年7月20日のヒトラー暗殺とクーデターの試みのごとき、国民大衆を代表しているとはいえない抵抗運動しか発生しなかったのであろうか。
これらの疑問への古典的な回答として、しばしば挙げられるのは、連合国の無条件降伏要求である。周知のごとく、1943年1月のカサブランカにおける、ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相の会談で打ち出された方針で、枢軸国に対しては、和平交渉を通じての条件付降伏を認めないとするものだ。ナチス・ドイツは、無条件降伏など、全面的な屈服と奴隷化を意味することだと喧伝し、それをまぬがれたければ、ひたすら戦い抜くしかないと、国民に対するプロパガンダに努めた。また、体制の統制・動員能力が、秘密警察等により、第一次世界大戦のときよりも飛躍的に高まっていたため、組織的な罷業や反抗など不可能だったとする説明もある。
■ナチ政権の「共犯者」となったドイツ国民
けれども、近年の研究は、より醜悪な像を描きだしている。ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗(こと)して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合をはかった。
しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策が採られた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦をみちびいた「1918年のトラウマ」がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだとする研究者もいる。
とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行き詰まることはいうまでもない。しかし、1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえの特権維持を可能とした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。
それを意識していたか否かは必ずしも明白ではないが、国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう。
つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくなっていたのである。
■スターリンの目的は勢力圏の拡大に変わった
他方、スターリンとソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏を確保するための戦争へと変質していた。ドイツの侵攻前に獲得していた地域に加え、さらに領土を拡大することが戦争目的とされたのだ。
たとえば、戦後に成立するであろうポーランドにも、1939年に奪った地域は返還せず、ドイツの領土を割譲させて、同国を西に動かすこととされた。また、それ以上に、中・東欧を制圧して、衛星国を立て、西側との緩衝地帯とすることが重要であった。そのためには、できる限りソ連軍を進撃させ、中・東欧の支配を既成事実にしなければならない。
こうしたスターリンの政策が如実に示されたのは、1945年2月、クリミア半島のヤルタで行われた米英ソ首脳会談であった。スターリンは、敗戦ドイツの分割統治のほか、ポーランド、バルト三国、チェコスロヴァキア、バルカン半島諸国を勢力圏とすることを求めた。
ドイツ本土進攻作戦は、事実上、こうしたスターリンの戦略目標を達成するための計画であった。バルカン方面の攻勢により、ドイツ軍の予備を南に誘引したのちに、正面攻撃と南からの突進により、東プロイセンにある敵を包囲殲滅(せんめつ)、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)を占領する。この東プロイセン作戦と同時に、ヴィスワ川からポーランド西部を横断し、ベルリンを指向する主攻がはじまる。
■ソ連軍はドイツ軍を追撃し、ウィーンへ
1945年1月12日、ソ連軍のドイツ進攻作戦が開始された。第一ウクライナ正面軍は攻勢発動から1週間でドイツ本土に進入、同月21日から22日にかけての夜に、ベルリンを守る最後の自然の障壁であるオーデル川を渡河していた。第一白ロシア正面軍も、1月31日にキュストリン北方でオーデル川を渡る。
もはや、ソ連軍のベルリン進撃を押しとどめるものはないかと思われたが、スターリンは安全策を採り、敵首都に前進する前に、両側面、ポンメルンとシュレージェン(シレジア)のドイツ軍残存部隊を掃討せよと命じた。この間、首都を守るべきドイツ軍装甲部隊の主力は、そこにいなかった。
1945年1月の反撃が当初成功したことを過大評価したヒトラーは、最後に残った強力な装甲軍(第六SS)をハンガリーに派遣、反攻を実施させていたのである(3月に作戦中止)。3月16日、ソ連軍が攻勢を発動するとともに、ベルリン前面のドイツ軍の戦線は寸断された。南では、潰走(かいそう)するドイツ軍を追撃したソ連軍が、4月13日にウィーンに入った。
■ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」
当初は慎重な作戦指導を堅持していたスターリンであったが、4月に入ると、ベルリン攻略を急ぐ必要が出てきた。西側連合軍がライン川を渡り、急速に東進をはじめていたからだ。敵首都占領の栄誉を譲ってはならないと、スターリンは、ベルリンへの進撃を速めるように命じた。
1945年4月16日、ジューコフ指揮の第一白ロシア正面軍は、ベルリン東方のゼーロフ高地の攻撃にかかった。ここを突破すれば、ベルリンへの道には何の障害もなくなる。ところが、圧倒的な数で攻めたはずのソ連軍は、ドイツ軍装甲部隊の巧妙な反撃を受け、大損害を被った。しばしば、ドイツ軍装甲部隊の「白鳥の歌」と称される戦術的な勝利であった。
だが、今日では、ゼーロフの戦いは、いわば、ドイツ軍の勝利というよりも、ジューコフの敗北だったことがわかっている。ジューコフが狭隘(きょうあい)な正面に兵力を過剰集中したため、ソ連軍は、作戦・戦術的に有効な動きを取ることができず、ドイツ軍の防御砲火の好餌となったのである
■「闘争を継続せよ」と書いてヒトラーは自殺
その晩に、ゼーロフ高地奪取の失敗を報告したジューコフに対し、スターリンは、イヴァン・S・コーニェフ元帥率いる第一ウクライナ正面軍の進撃は順調であるから、そちらにベルリン包囲の命令を出すと告げた。典型的な分割統治である。スターリンは、将軍たちを分断し、競争させることこそが、おのれの利益にかなうことを心得ていたのだ。
ジューコフとしても、ライバルが大功を上げるのを拱手傍観しているわけにはいかない。翌17日、第一白ロシア正面軍は、ゼーロフ高地を迂回、他の正面で突破に成功する。戦闘の焦点は、いよいよベルリンに移った。
4月20日、ソ連軍先鋒部隊は、ベルリンに最初の砲撃を浴びせた。第一白ロシア正面軍が北東、第一ウクライナ正面軍が南東から、ベルリン包囲にかかる。しかし、ヒトラーは、首都を離れようとしなかった。総統がベルリンにある以上、ドイツ国民は抗戦しつづけるはずだし、また、外部からの救援軍が包囲を解くものと信じたのだ。だが、そうした部隊は、実際には、すでに消耗しきっており、ベルリン解囲など不可能であった。
4月26日、ジューコフの第一白ロシア正面軍は、ベルリン市内に突入した。市街戦が開始され、とりわけ国会議事堂(ライヒスターク)周辺では激戦となった。ソ連軍はしだいに市の中心部を制圧、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏する。それに先だつ4月30日、ヒトラーは、総統地下壕で自殺していた。その遺書には、なお闘争を継続せよとの訴えが記されていたのである。
■1000名以上の市民が集団自決したと推定
大戦最終段階のドイツは黙示録的様相を呈していた。ドイツ本土に進攻したソ連軍は、略奪、暴行、殺戮(さつりく)を繰り返していたのだ。かかる蛮行を恐れて、死を選んだ例も少なくない。なかには、集団自決もあった。
フォアポンメルンの小都市デミーンでは、ソ連軍の占領直後、1945年4月30日から5月4日にかけて、市民多数が自殺した。正確な死者数は今日なお確定されていないが、700ないし1000名以上が自ら命を絶ったと推定されている。世界観戦争の敗北、その帰結であったが、ナチのプロパガンダは、デミーンこそ模範であるとして称賛した。
加えて、ドイツが占領した土地へ入植した者、ロシア、ポーランド、チェコスロヴァキア、バルカン諸国のドイツ系住民が、ソ連占領軍や戦後に成立した中・東欧諸国の新政権によって追放されたことによっても、膨大な数の犠牲者が出ていた。彼ら「被追放民(フェアトリーベネ)」は、財産を没収され、飢餓や伝染病に悩まされながら、多くは徒歩でドイツに向かったのだ。その総数は、1200万ないし1600万と推定されている。うち死者は100万とも200万ともいわれる。
かかる混乱の余波もさめやらぬなか、7月17日より、ベルリン近郊のポツダム市で、連合国首脳会談が開かれた。スターリンと米英のトップが、戦後秩序のあり方を論じたのだ。この会談の結果、ドイツ東部領土のソ連とポーランドへの割譲、ドイツ分割占領の方針などが決められた。後者は、のちに、ドイツの東西分裂につながっていく。そうしてできたドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が、再び統一されるまでには、半世紀近い時間を要した。
東方植民地帝国の建設をめざして開始された「世界観」戦争は、ヒトラーが一千年続くと呼号した国家の崩壊、さらには他民族による占領と民族の分裂というかたちで、ピリオドを打たれたのである。
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現代史家
1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学(専門はドイツ現代史、国際政治史)。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、著述業。著書に、『「砂漠の狐」ロンメル』(角川新書、2019)、『ドイツ軍事史』(作品社、2016)ほか。訳書にエヴァンズ『第三帝国の歴史』(監修。白水社、2018─)、ネーリング『ドイツ装甲部隊史 1916-1945』(作品社、2018)、フリーザー『「電撃戦」という幻』(共訳。中央公論新社、2003)ほかがある。
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(現代史家 大木 毅)
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