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"中2でヤンキーと家出"帰国子女は今何してる

プレジデントオンライン / 2019年8月27日 8時15分

外資系損保AIGジャパンの執行役員・林原麻里子さん - 撮影=堀 隆弘

人生の修羅場をどう切り抜ければいいのか。外資系損保AIGジャパンの執行役員・林原麻里子さんは、中学時代にイジメ被害や家出を経験。新卒では年収200万円台の窮乏生活を送った。そんな林原さんの「しくじり人生」を紹介しよう――。(前編/全2回)

■家出、極貧、離婚……「私は人生の修羅場をこう乗り越えた」

「今でこそおとなしくしていますが、若いころは相当やんちゃでした」

そう語るのは、外資系損保AIGジャパン・ホールディングス(以下、AIGジャパン)で執行役員を務める林原麻里子さん(49歳)だ。これまでロイター通信で金融経済記者を務めたほか、広報部門のプロとして名だたる外資系金融機関を渡り歩いてきた。

現在はパリっとしたホワイトスーツに身を包むエグゼクティブだが、その道のりは平たんではなかった。思春期の家出経験、社会に出た際の極貧生活、離婚、そして出産・育児……。そうした人生の修羅場をどう切り抜けてきたのか。

■幼少時から、「敷かれたレールからはみ出す」子だった

林原さんは大手メーカーに勤務する父親の海外転勤により、5歳から12歳までの8年間(1974~81年)をインドネシアのジャカルタで過ごした。

「小学校時代はインドネシアの日本人学校に通っていました。校内には様々な人種の子がおり、一歩外に出れば、貧富の差を目の当たりにする環境でした。ヒンズー教やイスラム教などの宗教の違い、文化の違いを肌で感じるうちに、『人はそれぞれ違っていて当たり前』という感覚が自然と身につきました」

週末は、他の家族と合同で、船に乗って無人島まで行き、大自然の中で「山猿のようにのびのびと過ごした」という。

「私は幼稚園の頃から、敷かれたレールからはみ出てしまう子だったようで、みんなと一緒に何かしたり、こうあるべきだと決めつけられたりするのが大嫌い。お遊戯でもひとりだけ歌を歌わないし、整列の時もひとりだけはみ出て、人と違う景色を見るのが好きでした。だからでしょうか、多様性に満ちあふれ自由にのびのびと過ごせるインドネシアでの生活は、肌に合っていたんですね」

■ヤンキーと2泊3日の家出で補導され、陰では猛勉強する中学時代

ところが一転、中学生になって帰国して愛知県内の公立中学校に戻ると、まるで「軍隊」のような学校生活が待っていた。今思えば、この時期が林原さんの人生の中で1回目の転機だったという。

撮影=堀 隆弘

「その中学は、地方の小さな町にあって、いまだかつて転校生を迎えたことがほとんどない“鎖国状態”。ただでさえ窮屈な校則に押しつぶされそうなのに、私は帰国子女ゆえに何をやっても目立ってしまい、相当嫌がらせやイジメを受けました。自宅から延々と続くブドウ畑を歩き、やっと学校に着いたと思ったら、上履きに砂が盛り込まれていたり、1980年代に流行っていた小泉今日子の髪型を真似て刈り上げにしたら、ツッパリに『その刈り上げはなんだ!』とトイレに呼び出されて小突かれたり、自宅の石垣にスプレーで落書きされたこともありました」

当時は、「横浜銀蠅」というリーゼントに革ジャンスタイルのロックバンドや、非行少女を描いたドラマ「積木くずし」が大ブーム。林原さんが通った公立中学でもヤンキーは花盛りで、「卒業式には学校中の窓ガラスが割られるのが伝統」だったそうだ。

面白いのは、そんな環境に戸惑いつつも林原さんがその世界に新鮮さを覚えていくということだ。男子はリーゼントヘアで革ジャンに白い“ドカン”姿。女子は金髪で眉毛がなく、くるぶし丈のロングスカートで闊歩。「人類学的に研究材料としたいくらい」と興味がわき、女子ヤンキーたちと“お近づき”になっていったのだ。

「結局、みな家庭の事情など理由があってヤンキーをやっているんですよね。そこに共感した部分もありますし、ものすごいエネルギーを持っている人もいた。彼女たちのことをもっと知りたいと思っているうちに、自然と距離が縮まっていきました。その流れで、一緒に2泊3日の家出をして名古屋駅前で警察に補導されたこともありますね。女子ヤンキーとつるんでいると、その手下のような生徒からの嫌がらせが激減しました」

■ヤンキーとつるんでもグレなかったワケ

こうしたケースでは、そのままヤンキーの道へ足を踏み入れ、グレてしまう人も多いが、林原さんは「付き合い」をしない時は、家で猛勉強したという。

「『こんな田舎から抜け出してやる!』という一心で、読書と勉強に明け暮れました。『名古屋の中心地にある進学高校に入れば、この閉塞感から抜け出せる。勉強して成功するしかない』と思ったんです」

ただ、担任の先生からは「お前は絶対受からない」と言われた。その言葉でますます闘争心に火がつき、悲願だった「都会」の有名進学校にリベンジ合格した。これが「逆境は努力次第で抜け出せられる」ことが証明された、人生で最初の成功体験だった。

「この時に培った反骨心が、その後の人生で軸となっていったんだと思います」

■バブル絶頂期、高校時代は連夜ナイトクラブ通い

そして高校時代から「はみ出し人生、寄り道人生が本格的に始まりました」と振り返る。当時はバブル絶頂期。ワンレン、ボディコンが一世を風靡する中、林原さんはあえてベリーショートのヘアスタイルで、服は全身古着でヒッピースタイルにしていた。

写真=iStock.com/shironosov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/shironosov

「もともとお調子者で目立ちたがり屋。常に“逆張り”で注目を浴びるのが気持ちよかったんですね。そして夜は、毎晩のように名古屋市内のナイトクラブに通い、ウーロン茶一杯で朝方まで踊り狂っていました。もちろん親には内緒で、こっそり家を抜け出し、朝方に塀をよじ登って帰ってくるんです」

とはいえ、無駄に踊りまくっていたわけではない。林原さんはそこでしっかりと、のちに役立つコミュニケーション能力を磨いていた。

「クラブには、中学しか卒業してない人もいれば国立大学を出ている人もいて、業界もテレビ局の人やアパレルと、いろんな職種、年代、国籍の人が入り交じっていました。だから、“異業種交流”をして、高校生なりにネットワークを築いていたわけですよね」

もともとジャカルタ時代に多様な人種と接していたこともあり、異業種の壁を乗り越えるのに時間はかからなかった。ただ、夜遊びに興じれば興じるほど自分の道を見失い、悶々としてしまう。

■名門私立大に入学するも退学し、台湾、中国へ……

そこで、現状を打破するかのように、奨学金制度を使い、高校2年から1年間、憧れのアメリカ・アリゾナ州に留学する。その後、親から「せめて大学には行ってほしい」と泣きつかれ、県で有数の私立大学に推薦入学する。

「でも、ここでまた鬱屈してしまうんです。お坊ちゃま、お嬢さまが多い大学の中、一人ボロボロのジーンズをはいていて浮きまくっていますし、同級生は私から見ると、ひどくおとなしくて、とにかく学校がつまらない。『私はこれでいいのか!』と、思い切って中退しました。でも、自分探しの旅に出ようとしたものの、目的地が見えず、『高卒の身でこのまま何も見つからなかったら……』と不安は募る一方でした」

そんなある日、父が台湾に赴任になる。千載一遇のチャンスとばかりに、父の後を追って台湾に飛ぶ。「何か人と違うことをやろう」と、台北の語学学校に入った林原さん。そこで中国語の面白さに目覚めた。林原さんにとって中国語は発音をマスターするだけでどんどん上達する、勉強しがいのある語学。楽しくて仕方なかった。

またこの時、中学時代から愛読していたジャーナリストの桐島洋子の影響で、中国特派員を目指そうと、名門中の名門である中国人民大学へ入学した。ようやく自分の進むべき道が見えた瞬間だった。

■石を投げられる、公安につけられる、薄給……苦難に満ちた中国生活

目指す方向が定まってからは、勉強に没頭する日々を送る。

「政治色の強い学校で、中国人、ロシア人などに囲まれ3年半勉強し、卒業後は、ジャーナリストになるべく毎日新聞の北京支局でバイトを始めました。この頃は中国ブームが起こる前で、しかも天安門事件(1989年)の3年後。北京に留学している人なんてよほどの変わり者か研究者か外務省職員くらいでした」

「ちょっと違う景色を見てみたい」と寄り道した中国での生活。蓋を開けてみると、想像以上に過酷だった。

写真=iStock.com/leochen66
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/leochen66

「当時の中国は生活水準が著しく低く、水道からお湯が出る時間が決められていたので、それを逃すと体を洗うことすらできない。洗濯機も留学生7~8人と一台を購入してシェアしていました。当時の中国は、外国人は全て監視対象。新聞社でのバイトの帰りは公安が必ずついてくる。まだ反日感情も残っていたので、石を投げられることもあった。でも、ここで『負けてたまるか』の反骨心が再びムクムクとわき上がった」一転、アメリカのスタンフォード大学院を目指し、全額奨学金の枠を勝ち取った。

■スタンフォードを卒業後に働いたが年収200万円台の極貧生活

米国最難関のひとつ、スタンフォード大学ではコミュニケーション学部ジャーナリズム学科で26歳まで学ぶ。卒業後は、満を持してジャーナリストになるべく、香港の『ウォールストリートジャーナル』でのインターンを経て、同地のローカルビジネス雑誌の記者として就職。一年間下積みをする。

「念願の記者になったものの、実態は日本円で年収にして200万円台の極貧生活。香港島の端にあるボロアパートに住まざるを得ませんでした。セキュリティ面も不安の多いアパートで、酔っぱらいや喧嘩の声に夜な夜なおびえ、身の危険を感じながら床に就く生活。『このままここで一生貧乏生活を送るのかな……』と悲観的になった時期もありました。でも、しばらくして一念発起するんですね。中学時代のように、『ここから抜け出したい!』との思いで、20社ほどのメディアに履歴書を送りまくりました」

しかし、当時27歳になっていたので、年齢制限に引っかかり、日本のメディアからはすべて門前払い。

「でも捨てる神あれば拾う神ありで、履歴書を送った1年後に、ロイター通信社の東京支局から採用の電話があったんです。苦節26年、ここでようやく希望の光が見えました」

これが人生2年目の転機となったという。1回目は高校受験、2回目はなりふり構わぬ転職活動で、逆境から抜け出したのだ。高校や大学時代に悶々と過ごしていた時期も、海外留学などで自ら環境を変えていった林原さん。ダメだと思ったらすぐ方向転換し、「はみ出し、寄り道」を恐れない。この行動力は、逆境から抜け出す成功体験を重ねていくことで身についていったといえよう。

ところが、ここで苦難が終わったわけではなかった。「人生は思い通りに行かないことの連続」。こう痛感する事件がこの後、10数年にわたり繰り返し降りかかってくるのである。(後編に続く)

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桜田 容子 ライター
明治学院大学法学部を卒業後、男性向け週刊誌、女性向け週刊誌などで取材執筆活動を続け、気付けばライター歴十数年目に突入。にもかかわらず、外見は全然ライターっぽく見られない。趣味はエアロビとロックンロールと花見など。

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(ライター 桜田 容子)

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