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軍用機会社だったスバルが生まれ変われたワケ

プレジデントオンライン / 2019年9月11日 9時15分

1947年に発売され、ベストセラーになった「ラビットスクーター」 - 写真提供=SUBARU

SUBARU(スバル)の前身で軍用機を作っていた中島飛行機は戦後まもなく解体され、自動車メーカーとして歩み始める。世界的指揮者・小澤征爾氏も愛用し、ベストセラーになった「ラビットスクーター」の誕生物語を紹介しよう——。(第4回)

■「富士産業」と改名もつかの間、わずか5年で解体

1941年から1945年までの軍用機生産状況は、中島飛行機が1万9561機で全体の28パーセントでトップだった。2位の三菱重工業は1万2513機で17.9パーセント。続いて川崎航空機が11.8パーセントで、立川飛行機が9.5パーセント、愛知航空機が5.2パーセントとなっている。ゼロ戦を開発し、歴史のある三菱よりも中島飛行機の方が航空機製造数では上だった。

思えば、徒手空拳からひとりで会社を興し、先端産業でたちまちトップ企業にした創業者・中島知久平(ちくへい)の手腕をほめるべきなのだろうけれど、GHQにとってはその成長力が脅威に映った。

結果として、富士産業の役員は全員が退任。会社も15社に分割された。15社とは日本各地にあった工場の単位に分割されたということだ。

1917年に創業した中島飛行機は瞬く間に巨大会社となり、富士産業と名前を変えたのもつかの間で、解体された後は、それぞれの工場が独立した企業体として再出発することになった。起業から解体までの歴史は28年間。夜空にきらめく彗星のような会社だった。

■エンジンに椅子と爆撃機の尾輪を付けただけ

そんな富士産業から分かれた各社のうち、スクーターの製造を手がけたのは太田、三鷹の工場だった。どちらも会社名は富士工業。

一方、中島飛行機で航空機技術者をしていた百瀬晋六が主体となって、バスボディーを作っていた伊勢崎工場の方は富士自動車工業という会社に属する。

スクーターは敗戦直後、爆発的に広まったモビリティ(乗り物)だ。その後、オートバイが出てくると、急速に廃れてしまうのだが、昭和20年代、30年代前半は日本中に走っていた。その代表が、富士産業が生んだラビットスクーターだったのである。

ラビットスクーターと名付けられた製品は1947年から市場に出て、1958年にホンダのオートバイ(モペットともいう)スーパーカブが出るまではベストセラーだった。ラビットスクーターは販売が終了する1968年まで、約50万台を売り、いまもなお、それを修理しながら乗っているファンがいる。

同社がスクーター開発を進めたきっかけは進駐してきたアメリカ軍の兵士が乗っていたパウエル製スクーターに触れたことだった。太田工場の技術者はそれを見て、「エンジンに椅子と尾輪を付ければいいんだ」と考えた。そして倉庫に残っていた尾輪と買い付けてきた資材でスクーターを製造したのである。

その後、エンジンは三鷹工場、車体は太田工場と手分けして作るようになり、三鷹は二馬力、135ccエンジンを開発。太田は陸上爆撃機「銀河」の尾輪を流用した。

しかし、尾輪は元々、航空機用の溝が付いていないスリックタイヤである。そのため、最初に試作したものを除いては溝のあるタイヤを手に入れなくてはならなかった。余っていた尾輪から発想したものだったけれど、量産体制をとるには新しいタイヤを作らなければならなかったのである。

■スクーターの淘汰(とうた)を惜しんだ女性たち

ラビットスクーターは女優の高峰秀子、北原三枝(石原裕次郎夫人)、白川由美といった宣伝キャラクターを起用し、広く宣伝したこともあって、時代を象徴する乗り物になった。

しかし、機構そのものは特に難しいわけではなく、いくつかの会社はまねをしてスクーターを売り出した。昭和20年代、30年代は二輪車の技術が日進月歩で進化していく時代で、それに合わせてラビットスクーターもまた性能をアップさせていった。しかし、スーパーカブに代表される小型のモペット、オートバイが出てきて、さらに軽自動車が登場してくると、スクーターの出番はなくなっていった。

動力二輪車にとってもったいないと思われるのは、スクーターに乗っていた女性たちだ。彼女たちはスクーターが市場から消えていくと同時に二輪車に乗らなくなった。

オートバイにまたがって疾走した女性ライダーもいなかったわけではないが、大半の女子はやはりまたがって乗る二輪車を敬遠したのである。

戦後の自由な空気のなかでスクーターを愛した女性にとっては、オートバイの勃興(ぼっこう)は決して楽しいことではなかったと思われる。

■「町の自転車屋さん」を車のディーラーに

ラビットスクーターは戦後のある一時期だけの看板商品ではあったけれど、ふたつの点でその後の富士重工の発展に結びついている。

まずは同社が販売店網を運営するノウハウを得たことだ。これは軽自動車、乗用車を売るに際しての貴重な体験となった。

1951年に富士工業はラビットスクーターを販売する全国の特約店49社を集めて「全国ラビット会」を発足させた。町の自転車屋さんの集まりで、トヨタや日産が組織した車のディーラーには規模も修理能力も及ばない店舗ではある。

それでも、自転車屋さんの従業員はエンジン修理のコツや取り扱いを覚えることができた。それは実に大きなことだったのである。

ただし、富士工業は全国ラビット会加盟店のすべてをそのまま自動車ディーラーに移行させることはしなかった。技術が優秀で、規模が大きいところだけを自動車ディーラーとして認めて、あとはラビットスクーターだけを扱わせたのである。

そのため、自動車ディーラーになることができなかった自転車屋さんは怒って、スズキ、ホンダなど他社のディーラーになってしまう。

それは、長らく日本の重工業を支えてきた日本興業銀行(興銀)出身の幹部が犯した大きなミスだった。興銀の出身者にとって、「自転車屋がディーラーになるなどとんでもない」ことだったのである。

■つなぎを着ている連中に車を売れるはずない

1912年生まれで、中島飛行機時代からスバルに従事してきた太田繁一は、その失敗を見ていたが、中間管理職の身分だったから、口を出すことはできなかった。

「ラビットスクーターは定価でものすごく売れたんです。ラビット会の連中も売れるから満足していたんですよ。

それで、次にスバル360が出た。これがまた売れたんです。商社の伊藤忠が目をつけて、『中島飛行機が作った車だから売れるだろう』って、モノがないうちから不見転(みずてん)で売り出した。

当時、伊藤忠はいすゞと一緒にカーディーラーをやっていたから、店舗網はあったんです。うちはそっちにのめり込んで、ラビット会の連中のうち、4社にしかスバル360を売らせなかった。

あの頃、本社の興銀からきた幹部が言ってましたよ。

『ラビット会なんて、あんなつなぎを着て油を差してる連中に車なんか売れるはずがない』と。確かにトヨタの神谷(正太郎)さんはつなぎを脱がせて、背広を着せた。あいさつをしろと言った」

■「俺たちは売っちゃいけないのか」と離反者が続出

「それでディーラー網を全国に作った。うちは神谷さんを手本にしちゃったんですよ。ただし、うちにはトヨタほどの体力はない。それでラビット会を切ったんですが、それが後まで響きました」

スバル360
写真提供=SUBARU
1958年に発売され、”てんとう虫“の愛称で親しまれた「スバル360」 - 写真提供=SUBARU

“てんとう虫”の名で日本国民から幅広く支持された「スバル360」が1958年に登場する前、本社の特約店会議に出ていたラビット会の人間たちは猛烈な抗議をした。

「どうして、俺たちは軽自動車を売っちゃいけないんだ」

ある幹部は相手にしなかった。

「いや、自動車とスクーターは別だ」

スバル360が出た1958年以降、ラビットスクーターの売れ行きが止まった背景には社会が豊かになり、スクーターから軽自動車という流れができたこともあるが、この時、頭にきて離反した特約店が販売する気を失ったこともあった。

そして、富士重工がトヨタ、日産をお手本にしてディーラー整備を始めた後、ホンダ、スズキは町の自転車屋さんをディーラーにして、軽自動車を売り始めた。

ディーラーを育てた会社と切り捨てた会社の違いだった。ただし、そうした顕著な失敗があったとしても、富士重工は特約店との付き合い方、運営ノウハウを体で覚えることはできた。

■スクーターに乗った“ミラクルボイス”のヒーロー

もうひとつ、スクーターが売れてよかったことは会社のイメージが向上したことだった。ラビットスクーターは当時の新メディアであるテレビに登場し、子どもたちから支持を得た。さらに後に有名になる人間が愛車にしたことで知られるようになった。

そのため、ただの「売れた車」ではなく、記憶に残るスクーターになったのである。スバル360、スバル1000というその後の製品もどちらも記憶に残る車になったのだけれど、富士重工にとっての嚆矢(こうし)はラビットスクーターである。

デザイン、性能は他社のそれと変わらないのに、今もファンがいて、乗っている人がいるのはこの時に生まれたイメージが幸いしているからだ。

ラビットスクーターが子どもたちに圧倒的な人気を得たのは漫画が原作のテレビドラマ「少年ジェット」に登場したからである。「少年ジェット」は1959年から1年半、フジテレビ系で放映された実写ドラマで、ラビットスクーターに乗ったヒーロー、少年ジェットが怪盗ブラック・デビルと闘う物語である。

当時の少年たちは原っぱで風呂敷をマントのようにまとい、ブラック・デビルに扮(ふん)した友だち相手に「ウー、ヤー、ター」という必殺のミラクルボイス攻撃をした。ミラクルボイスを浴びせられた相手は「やられたー」と言って、草の上に倒れ込む。ラビットスクーターはヒーローの愛車だから、少年たちは大人になったら、あのスクーターに乗りたいとあこがれたのである。

■「世界のオザワ」も欧州行脚の相棒に

そして、ラビットスクーターを愛車にした有名人とは指揮者の小澤征爾だ。少年ジェットが放映された同じ年の2月1日、小澤は神戸港から貨物船淡路山丸でヨーロッパに向けて出発した。船内には借り出したラビットスクーターが1台。

小澤はヨーロッパ大陸に着いてからの交通費を節約するために自らラビットスクーターの宣伝を買って出た。その代わり、富士重工は無償で小澤にラビットスクーターを貸し出したのである。

小澤は日の丸を描いた同車でマルセーユの港からパリを目指した。著書『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)にはこうある。

「スクーターかオートバイを借りるために、東京じゅうかけずり回った。何軒回ったかしれない。最後に、亡くなられた富士重工の松尾清秀氏の奥さまのお世話で、富士重工でラビットジュニア125ccの新型を手に入れることができた。その時富士重工から出された条件は次のようなものだ。
一、日本国籍を明示すること。
二、音楽家であることを示すこと。
三、事故をおこさないこと。
この条件をかなえるために、ぼくは白いヘルメットにギターをかついで日の丸をつけたスクーターにまたがり、奇妙ないでたちの欧州行脚となったのである」

■修業時代を支えた「福の神」だった

小澤はこの時、ヨーロッパでスクーターが故障しても困らないように、工場でスクーターの分解方法や修理方法を学んでいる。マルセーユからパリを目指す途中、若き「日の丸スクーター男」は歓迎を受けた。

「(着いた)翌日、街の中を二時間ほどスクーターでドライブしたが、道がいいせいか実に走りやすい。日本のように年じゅうどこかで道路工事をしているのとは違う。しかしちょっと止まると、すぐに人だかりがして、何やかんやとうるさく話しかけて来る。スクーターに日の丸をデカデカとかかげ、ギターを背負っているので、よほど目につくらしい。変わり者が日本から来たとでも思うのだろうか。中には手をあげて敬意を表してすれちがう車もある。ちょっといい気分だ」(同書)
小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)

結局、小澤はヨーロッパ、アメリカに2年半滞在して、その間、ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位、カラヤン指揮者コンクール第1位、アメリカのバークシャー音楽祭(現タングルウッド音楽祭でクーセヴィツキー賞)を受賞し、ニューヨークフィルの副指揮者になる。

カラヤン、バーンスタインというふたりの巨匠に師事することもできた。小澤にとってヨーロッパ修業とラビットスクーターは福の神だった。

ブザンソンで第1位になってから、小澤は一躍、フランスと日本では有名指揮者になった。仕事も入ってきたこともあり、自動車免許を取る。そのため、実際にラビットスクーターを乗り回した期間は長いわけではなかった。

それでも、事故や故障もなかったから、宣伝マンとしての役目は十二分に果たした。

■戦争を支えた会社が直面した“戦後”

一方、富士重工は小澤にスクーターを提供したことで、新しい才能を育てる会社だというイメージを手に入れた。

「中島飛行機だった会社」といったイメージだったのが、少年ジェットのおかげで身近な会社になり、小澤に提供したことでは、文化を理解する会社、才能ある若者を後押しする会社という、さわやかな印象が付加された。ふたつのイメージはその後の同社にとっては大きな収穫だった。

なにしろ軍用機を作っていたという事実は、当時非常にネガティブなものだった。昭和30年代まで元職業軍人や軍需産業に従事していた人間は複雑な立場に置かれていたからだ。

敗戦から5年経過した1950年、レッド・パージ、朝鮮戦争の勃発と事件が起こる。

レッドパージとはすなわち共産主義者、左翼に対する弾圧だ。それまで労働運動に寛容だったGHQはソ連との冷戦が深まるにつれて共産主義、左翼への弾圧を始めた。その反動として戦前に活躍した軍人、官僚たちにとっては立場がやや好転したことはある。しかし、それでも職業軍人、軍需産業の担い手だった者にとって戦後の日本社会は決して楽なものではなかったのである。

■軍事関係者にとっては肩身の狭い時代だった

わたしは祖父、父ともに職業軍人の家に生まれた。近くに東条英機の一家も住んでいたから、彼ら家族の状況も知っていた。戦争が終わり、東京裁判が終了して、東条が絞首刑になってからでも家族に対して意地悪は続いていた。夜中に雨戸に生卵を投げつけられたという話を聞いたこともあった。

うちも職業軍人だったから、内心、「うちにも生卵が投げつけられたら嫌だなあ」と思ったこともある。実際はまったく意地悪は受けなかったけれど、それでも小学校の時、ある教師から「なんだ、親父は職業軍人か」と軽蔑を込めて、舌打ちされたことはある。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

これもまた子どもの頃の思い出だが、自宅に加藤隼戦闘隊の加藤(建夫)隊長夫人が来たことがあった。わたしは襖(ふすま)の陰からのぞいただけだ。加藤夫人がわたしの父と交流があったせいか、何度かうちの実家に来て、母親としゃべっていった。

おだやかで品のいい人だったというイメージだが、格好は実に質素だった。うちの一家だって金持ちではなかったけれど、彼女はつつましく暮らしているように見え、世間をはばかっているふうでもあった。

それくらい、職業軍人や軍需産業に所属した人間はなんとなく肩身が狭かったし、中島飛行機の印象は決してよくはなかった。

そんな時代だったから、ラビットスクーターと少年ジェットと小澤征爾は、世間に対して肩身の狭い思いをしていた富士重工の社員たちにとっては大きな福音だったと思える。

※この連載は2019年12月に『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)として2019年12月18日に刊行予定です。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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