日本が積極的に最低賃金を引き上げるべき理由
プレジデントオンライン / 2019年9月10日 9時15分
■今年は過去最大の引き上げ幅に
10月以降、最低賃金が引き上げられる。全国加重平均は901円となり、平均引き上げ幅は27円と、2002年に時給単独で示す方式になって以来、最大の引き上げとなる。
最低賃金制度とは、すべての労働者が下回ってはならない時給を法律で保障するもので、違反した使用者には50万円以下の罰金が課される。ワーキング・プア(働く貧困層)の解消に向けて、政府は2000年代半ば以降最低賃金の引き上げを誘導してきた。
さらに近年、経済好循環につながる賃上げのトリガーにしたいという政府の思惑を受けて、最低賃金の引き上げ幅は高めで推移してきたが、今年は決着に至るまでにひと悶着あった。
参院選を控えて、政治サイドから大幅引き上げを主張する声が上がり、これに対して商工会議所が強く牽制する緊急要望を公表した。結局、今年は引き上げ「率」でみればここ数年来のペースに収まったものの、来年を展望すると対立の構図は一層強まることが予想される。
景気減速で中小企業の景況感悪化が予想される一方、政治サイドでは衆院解散総選挙の可能性も絡んで、賃上げを加速したい思惑が働くと考えられるからである。
■最低賃金引き上げは経済にプラスかマイナスか
そもそも最低賃金引き上げの是非を巡っては、経済学者の間でも論争が続いており、議論が分かれるのは無理からぬことである。
元来、標準的な経済学では最低賃金の引き上げにはデメリットが多いとされてきた。いわゆる完全競争のもとでは賃金は労働生産性に等しく決まるため、それを政治の力で恣意的に引き上げれば企業は事業を縮小させ、結果として失業者が増えてしまう、というロジックがあるからだ。しかし、現実の世界では、必ずしも完全競争の状態が成立しているとは限らない。
例えば、大型スーパーなどが特定地域での求人需要をほぼ独占している状態を想定してみよう。この場合、その地域に居住し仕事を見つけざるを得ない人々は、働き(生産性)よりも低い賃金を提示されても、その賃金で働くしかない。経済学ではこれを「需要独占」のケースと呼ぶが、この場合、最低賃金を引き上げることにより、雇用を減らすことなく労働者の手取りを増やすことができる。
もう一つ、標準的な経済学はあくまで静態的な状況を想定しての話であり、動態的に考えれば結論が異なってくる可能性がある。つまり、静態的には労働生産性は所与であるが、動態的には賃金引き上げが労働生産性を押し上げる効果が期待できる。この場合、雇用を減らさずに賃金を増やすことが可能になる。
■わが国で積極引き上げが必要な理由
ではわが国の現実はどうか。結論的にいえば、最低賃金の引き上げに積極的に取り組むべき状況にあるといえる。
その第1の根拠は、人手不足が深刻化していることである。有効求人倍率の数字は足元全都道府県において1を上回る。これは、最低賃金の引き上げによって、ある企業が雇用を減らしたとしても、失職者は人手不足の状態にある他の企業で新たな職を見つけることが可能であることを意味している。さらに、賃金が低い地域では高い地域への人口流出が起こり、人手不足に拍車がかかっている可能性がある。人材確保のために、そうした地域では高めの最低賃金の引き上げが必要といえる。
第2は、先にみた「需要独占」のケースの存在である。労働需給(有効求人倍率)と給与水準(所定内給与)の地域別関係をみると、一定の正の相関は認められるものの、両者の相関関係はさほど強くない。地域間の労働移動がスムーズに行われる前提では、理屈上有効求人倍率が高まれば賃金も高くなるという関係が明確に確認されるはずである。
それが曖昧であることは、地域間の労働移動に無視できない制約があることを意味しており、すなわち特定の地域で需要独占の状況にあることを示唆している。この場合、企業には最低賃金を引き上げるだけの余裕があり、失業を発生させずに最低賃金の引き上げが可能である。
第3は、不採算事業の再編を促して、地域産業基盤の強化と賃金底上げを同時実現する可能性である。賃金水準と企業の廃業率の地域別関係をみると、緩やかな逆相関、すなわち賃金水準が低い都道府県ほど廃業率が高いという関係が確認される。そこには、超低金利で資金調達が容易な環境が常態化したために不採算事業の存続が可能になり、低価格・低賃金競争(race to the bottom)の構図が生まれている可能性を指摘できる。最低賃金の引き上げは、この悪循環の構図を断ち切るきっかけとなる。
第4に、事業承継を促して産業基盤を強化する可能性が指摘できる。東京商工リサーチの調べによれば、時系列的に見て倒産件数は減少するも、廃業する企業が年々増加している(※1)。この背景として、社長年齢が上がるほど赤字企業割合が高まる関係がみてとれる(※2)ことから、社長年齢の高齢化が企業の廃業増加に影響している面が示唆される。
この点に注目すれば、あくまで総論としてではあるが、最低賃金の引き上げを契機に、事業承継・後継者育成を推進し、地方の賃金の底上げと企業の存続を同時に実現することが期待できると思われる。
(※1)東京商工リサーチ「2018年 休廃業・解散企業 動向調査」
(※2)東京商工リサーチ「2018年 全国社長の年齢調査」
■最低賃金の一律・急進的な引き上げは危険
以上、積極的な最低賃金引き上げの論拠を指摘したが、実際の推進にあたっては考慮すべきことがある。まず、わが国には赤字企業が大量に存在するという事実である。国税庁「会社標本調査」によれば、2017年度で62.6%の企業が赤字企業であり、その雇用量を推計すると1675万人と、全雇用者数の28.6%に相当する。
もっとも、赤字企業であっても多額の資産を持つ企業も多く、直ちに廃業につながるわけではないし、少なからぬ中小企業が節税対策のために意図的に利益を圧縮しているとの指摘も聞かれる。
とはいえ、経営基盤の脆弱な企業が多いことも事実であり、低収益企業(赤字企業)の存続が雇用需要を嵩上げし、有効求人倍率を高く見せかけている可能性を否定できない。この場合、急激な最低賃金引き上げで低収益企業が大量に廃業に追い込まれれば、雇用需要は急減し、結果として失業者が急増する恐れは排除できないであろう。
加えて、そもそも人口減少で経済規模が縮小する地域では、生産性向上のハードルは高い。急激な最低賃金の引き上げによる無理な人件費増が廃業を増やし、地域産業基盤をかえって弱体化させるリスクがあることには、十分な配慮が必要である。
さらに留意すべきは、求人が求職を数の上で上回っていたとしても、職種別・地理的なミスマッチがある場合は、失業増加の恐れが高いことである。実際、有効求人倍率は全職種では1を超えているが、職種別にみれば1を下回る職業も多い。とくに、ボリュームの大きい「事務的職業」は0.5倍を下回り、技能的にはすぐに就きやすいと思われる「運搬・清掃・包装等の職業」も0.7倍程度にとどまっている。
以上のように、最低賃金を積極的に引き上げていく必要性は十分に認められるものの、地域における最低賃金と生産性、雇用の関係は極めて多様であり、全国一律に考えて急進的に進めるのは危険であるといえよう。地域ごとの実態を精査したうえで、総合的な政策(生産性向上支援策、労働移動円滑化支援策)を講じることが重要といえよう。
■英国の事例から学ぶべき「現実的対応」
最低賃金引き上げを具体的にどう進めるかにあたっては、英国の事例が参考になる。同国は最低賃金引き上げの成功例とされるケースが多く、同国に習って積極的な最低賃金の引き上げを主張する声も聞かれる。だが、その内容を子細に検討すれば、同国の事情に即した現実的な対応をしてきたことがわかる(※3)。
第1に、景気動向を考慮しながら引き上げられてきており、景気悪化時には引き上げペースを抑えている。第2に、わが国との比較の際に留意すべきは、インフレ率が異なることだ。英国の最低賃金上昇率は名目ベースでは高め(過去20年間の平均引き上げ率は約4%)だが、実質ベースでは2%をやや上回る程度に制御されている。第3に、雇用へのマイナス影響が生じないように、スキルの低い若年労働者には別枠で低い賃金率を適用している。しかも、最低賃金を引き上げるに従ってこの別枠を増やし、きめ細かく対応してきた。
わが国への示唆という点で、全国最低賃金制度の導入に際して創設された「低賃金委員会(Low Pay Commission)」について紹介しておきたい。同委員会は、ブレア政権下の1997年7月に創設され、そのミッションは労使協議の重視と事実に基づく議論を基本原理として、最低賃金率の提案を行うこととされている。労使それぞれ3名および公益3名の計9名から成る独立機関で、委員は高い専門性により「雇用面などへのマイナス影響を及ぼさずに低賃金労働者の処遇を改善する」という使命を協力して追求することになっている。
エコノミスト、統計専門家、政策専門家をメンバーとする事務局を有し、事務局は委員会の提案に必要なエビデンスを提供する。委員会は創設以来2019年4月までに130以上の研究プロジェクトを実施し、レポート第1号のために全国60地域を訪問したという。
(※3)以下はLow Pay Commission(2019)“20 years of the National Minimum Wage”に基づく。
■引き上げ方針の提案を行う「専門委員会」の設置を
以上を総合すれば、今後わが国で最低賃金を引き上げていくにあたって、考慮すべきポイントは以下の通りである。
①最低賃金上昇率は実質ベースで2%程度が望ましく、わが国の物価上昇率が1%程度であることを踏まえれば、3%程度の引き上げペースが妥当といえる。3%を上回る高めの賃上げ目標を掲げるならば、英国ほか欧州各国に習い、スキルの低い労働者には別の賃金率を設けることが考慮されるべきであろう。
②最低賃金の一層の引き上げに向けては、総合的な政策(生産性向上支援策、労働移動円滑化支援策)が重要になる。
③最低賃金の引き上げの雇用・賃金への影響については、a)需要独占状態における労働供給増加効果、b)赤字企業の再編による経済効率の向上、c)企業倒産による雇用減、等様々なルートが想定され、多面的な実態把握によるきめ細かい対応が必要になる。
■最低賃金の持続的引き上げには客観的実証分析が不可欠
以上のポイントに沿った施策を具体的に推進するにあたり、以下の仕組みを提案したい。
第1に、エビデンスに基づき中期的な最低賃金引き上げ方針の提案を行う「専門委員会」の設置である。現状、公労使三者構成の中央最低賃金審議会で最低賃金の目安が決められるが、必ずしも十分な分析や実証に基づいて決められているとは言えず、その時その時の公労使(政労使)の力関係で決まっている印象がある。今後、最低賃金の持続的引き上げを成功裏に進めるためには、客観的な実証分析は不可欠である。
そうした意味で、英国の「低賃金委員会」を参考に公労使三者構成とした「専門委員会」を設置したうえで、その下部組織として労働経済および産業政策の専門家を含む事務局を置き、調査・実証分析を行うことを提案したい。より具体的には、地域別・産業別に人手不足状況・賃金状況・経営者状況等を把握し、エビデンスに基づく複数の中期的な最低賃金引き上げプランと支援政策メニューの提言を行う。それを今秋以降半年程度かけて行い、来年の夏までに専門委員会が提言書を取りまとめることとする。
その提言を参考に、中央最低賃金審議会が毎年の最低賃金額の目安を建議すればよいだろう。その後も事務局が継続して調査・分析を行い、「専門委員会の提言→中央最低賃金審議会の建議→地方最低賃金審議会の決定」というプロセスを確立する。
第2に、最低賃金引き上げを円滑に進めるにあたって必要な政策支援メニューを決める「官民協議体」を地域別に設置する。上記専門委員会報告をベースに、地方最低賃金審議会(最低賃金額を決定)と連携しつつ、地域の実情に合った政策パッケージを取りまとめる。政策パッケージには、企業間連携・商慣行見直し積極的に推し進めるための、各種コンサルタントや地域金融機関などコーディネーターの役割を重視したプログラムを織り込むことがポイントとなろう。
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日本総合研究所副理事長
1987年京都大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)入行。93年4月より日本総合研究所に出向。2011年、調査部長、チーフエコノミスト。2017年7月より現職。15年京都大学博士(経済学)。法政大学大学院イノベーションマネジメント研究科兼任講師。主な著書に『失業なき雇用流動化』(慶應義塾大学出版会)
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(日本総合研究所副理事長 山田 久)
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