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"まっくろくろすけ"に出会える子供の家庭環境

プレジデントオンライン / 2019年10月2日 9時15分

内田樹さん(『プレジデントFamily2019秋号』より)撮影=森本 真哉

これから子供たちには何を教えればいいのか。哲学者の内田樹氏は、「それは英語やプログラミングではない。ゲームもスマホもマンガも取り上げて、『何もない場所』に放り出すのがいい。そうすれば自然と『芽』が出てくる。芽が出る先にすでに『何か』があったら、本当の意味での『創造』は起きません」という——。

※本稿は、雑誌『プレジデントFamily2019秋号』(プレジデント社)の記事の一部を再編集したものです。

■現代の子供はどんな状況で育てられているのか

今の日本は形式的には民主主義社会ですけれど、実際には、それを適切に運用するノウハウをもう市民たちは有していない。教わったことがないからです。だから、今の日本の家庭は民主的でもないし、家父長制でもない。まことに中途半端なものになっています。

なぜそうなってしまったのか。

戦前の家父長制下では、たとえ中身がすかすかでも、家長は黙ってそこにいて、定型的に家父長的なことを言っていれば、それなりの威厳があった。ところが、民主的な家庭では、父親は正味の人間的な力によって家族を取りまとめ、その敬意を集めなければならない。

でも、手持ちの人間的実力だけで勝負できるような父親はほとんど存在しなかった。家父長制の「鎧(よろい)」を剥ぎ取られて、剥(む)き出しになった日本の父親はあまりに非力だったのです。

同じことは学校でも起きました。上に立って威張っていた男たちの「正味の人間的実力」を測ったら、さほど実力がないということが露呈してしまった。それが60年代末からの全国学園紛争です。学生たちから「あなたたちは教壇で偉そうに説教を垂れているけれど、個人としてどれほどの人間なのか? 平場で勝負しようじゃないか」と言われた大学教師のほとんどが腰砕けになってしまった。象牙の塔の権威がそれで崩れたのです。

家庭でも学校でも、組織をとりまとめる仕組みそのものが瓦解(がかい)してしまった。だから、その反動で権威主義的なものを求める人々が現れることには歴史的必然があったのです。

民主化を抑制するもう一つの力は思いがけないところから登場しました。日本社会全体の「株式会社化」です。僕が生まれた50年、日本の農業従事者は人口の49%でした。だから、久しく組織運営は村落共同体をモデルに行われていた。長い時間をかけてゆっくり満場一致に至るまで議論を練り、一度決めたことには全員が従い、全員が責任を負う。

でも、株式会社ではCEOに全権を委ね、その経営判断が上意下達される。経営者のアジェンダに同意する人間が重用され、反対する人間は排除される。経営判断の適否を判断するのは従業員ではなく、マーケットです。

■家庭でも学校でも会社でも「民主主義」がなくなった

安倍政権下では、政権与党は野党との合意形成のためにはほとんど労力を割きませんでした。多数決で強行採決して法律を通すことが当たり前になり、多くの国民はそれに心理的抵抗を感じない。民主主義を知らない人たちが国会に民主主義がないことを怪しんだり、不満に思うことはありません。

でも、成員全員の合意をとりつける努力を怠る組織は、うまく回っているときはいいけれど、いったん失敗したときに復元力がない。政策決定において自分たちの意見が無視されたと感じたメンバーはトップの失敗を「ざまあみろ」と嘲笑するだけで、その失敗に自分たちも責任があるとは思わない。

企業ではそれでいいかもしれません。でも、政権が外交や内政において失敗するということは巨大な国益の喪失を意味しています。場合によっては国土を失い、国富を失う。そのような事態に接して、国民の相当数が冷笑して、「ざまあみろ」と拍手喝采するというのは異常事態です。

今の若い人たちは、民主主義というものを単なる多数決という手続きのことだと思っている。できるだけ多くの人、多様な立場を合意形成の当事者に組み込むことで集団の復元力を担保する仕組みだということを知らない。僕はそれを民主主義の危機だとみなします。

■自分の親よりも年上の「古老」たちの話を聞く場所

内田樹さん(『プレジデントFamily2019秋号』より)撮影=森本 真哉

今、全国で生まれている「私塾」は「民主主義の教育」のための機関になるかもしれないと僕は思っています。僕の主宰する凱風館は武道の道場であると同時に「寺子屋ゼミ」という私塾でもあります。そういう場所で、若い人たちが自分の親よりもさらに年上の「古老」たちの話を聞くというのも大事な教育活動です。

重要なのはそこで受け渡しされる知識や情報のコンテンツではなくて、そこで営まれる対話のプロセスです。どういうふうに学びの場を立ち上げるのか、どんなふうに自分の意見を述べ、どういうふうに異論を受け入れ、思考を深めてゆくのか。そのダイナミックなプロセスを経験してもらいたい。

これまでの学校教育は、教壇から知識や情報や技術が一方通行で伝えられ、子供たちはそれを暗記し、試験で査定された。でも、僕のゼミでは「正解」を暗記させたり、それを査定してゼミ生を格付けしたりはしません。どんな意見でも、そこから汲(く)み出しうる最良の学術情報は何かというところにフォーカスします。僕がゼミ生たちに学んでほしいのは、断片的な素材からどうやって最も豊かな学術的アイデアを引き出すか、そのノウハウだからです。

■人が生きていく上で一番大切なのものとは何か

僕が稽古している合気道は試合がありません。勝敗優劣巧拙を論じない武道です。競争がないから、門人たちは自分の意志で道場に来て、自分のペースで自己を錬磨します。

だから、「雨が降っても槍(やり)が降っても、必ず道場に来い」と僕は言いません。逆です。「今日は何となく道場に行く気がしない」と思ったら、それは何らかの異変を体が感知していて「アラーム」が鳴っているということですから、それに従うほうがいい。

無理して道場に行くというのは、そのアラームを「オフ」にするということです。稽古中に怪我(けが)をするかもしれないし、言葉の行き違いで友達と仲たがいするかもしれない、行き帰りで思いがけないトラブルに巻き込まれるかもしれない。

写真=iStock.com/uladzimir_likman
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/uladzimir_likman

生きていく上で一番大切なのは、異変や危険に対するセンサーの感度を上げて、リスクが接近したらアラームが鳴動する仕組みを作り上げることです。

■子供からゲームもスマホもマンガも取り上げるべき

そのためには「ノイズ」の多い環境に身を置いてはいけない。高刺激環境に置かれると、無意味な入力が多すぎるので、自衛のためにセンサーをオフにしてしまうからです。電車でよく見かけるニットキャップを目深にかぶり、耳にヘッドホンを付けて、スマホでゲームをしている子がいますよね。あれが「センサーをオフにしている」状態です。あれではどれほど危険なことが身に切迫してきても、直前まで反応できないでしょう。

子供は低刺激環境に置いておけば、必ずセンサーを働かせるようになります。娘が小学生の頃、なかなか家に帰ってこないので学校まで迎えにいったら、道ばたにしゃがんでじっと花を見ていました。しばらくすると立ち上がり、数歩歩いてまた別の花を見ている。観察しているというより、花にのめり込み、吸い込まれているような感じでした。主体と対象という境界が消えて、溶け合っている。「自然に出合うというのはこういうものだよな」と思いました。

養老孟司先生がよく言われるように、ゲームもスマホもマンガも取り上げて、自然の中に放り出しておけば、そのうち退屈した子供たちは何か観察対象を探し出す。植物を見る子、虫を見る子。雲や星や波を見る子もいる。自分で選んだ対象をじっと観察しているうちに、ランダムに見える変化の中に一定の法則性があることに気づくのです。

もう一つ、子供の能力を引き出すときに必要なのが「何もない空間」です。植物と同じで、芽が出るためには上に広がる空白が必要なんです。今の教育は、むりやり芽を引っ張り出したり、肥料を投与したり、室温を上げたりして、「芽が出る」ように誘導している。でも、芽が出る先にすでに「何か」があったら、本当の意味での「創造」は起きません。

ユダヤ教のカバラーの天地創造神話では、宇宙を満たしていた神が身を退けて、隙間を創ったことで世界が生まれたとされています。創造というのは「何か」を創ることではなく、「何もない空間」を創ることだというのがその教えです。超越的なもの、外部的なもの、まったく新しいものは「何もない空間」に到来する。あらゆる宗教がそう教えています。

■『となりのトトロ』の「まっくろくろすけ」に出会える空間

前に図書館の司書さんたちの集まりに呼ばれたときに「図書館というのは人があまりいないほうがいい」という話をしました。僕の記憶にある「よい図書館」というのは、天井が高くて、閲覧室が広くて、しんと静かで、一切の生活臭がない空間でした。それでいいと思います。というのは、図書館というのは、そこに踏み入った人が「私は一生かかってもここの蔵書の1%も読むことができない」という自己の有限性と無知を思い知るための場だからです。自己の圧倒的な卑小さを思い知るための場という点でいえば、図書館は礼拝堂や神殿と同じ機能を担っている。

そういう「聖なる場所」には「何も起こらない時間」が必要です。閉館時間になったら施錠して、半日くらい誰も立ち入らないようにしておく。そうすると、翌朝、扉を開けたときに「場が調っている」のです。お寺の本堂や教会の礼拝堂や武道の道場もそうです。半日ほど扉を閉ざして、「何もない空間」に「何も起きない時間」が流れると、場が調う。

「まっくろくろすけ」が登場する宮崎駿監督の映画『となりのトトロ』(販売元:ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)

宮崎駿監督の『となりのトトロ』の中に「まっくろくろすけ」というかわいい妖怪が出てきますね。僕も早朝に道場の扉を開けると、それまで道場の中にいた妖精のようなものがすっと壁の隙間に消えたあとのように感じます。

ノイズのない、調った空間で書物を読んでいると、自然と触れているときのように、吸い込まれていく感じになってきます。いつの間にか別の時代の、この世ならざるものたちの世界に入り込んでいる。寝食も自分が何者なのかも忘れ、完全に書物の中に没入する。そういう経験がすごく大事なんです。

読書というのは一見受動的な行いに見えて、実は非常に能動的な行為です。読む主体が強い権限を持っていて、リテラシーに応じて読み出しうる愉悦、快楽がどんどん高まっていく。そこがゲームとの違いです。

■英語教育やプログラミングなど平時のスキルを学ばせても……

今の親たちは目の前の社会のあり方を見て、子供に英語教育をしたりプログラミングを学ばせたりしていますが、それらはすべて社会のシステムがこのまま続くことを前提にした「平時のスキル」です。

でも、今、親たちが「実学」と呼んで子供に習得させている知識や技術のうち、20年後も「それで食える」ものがどれだけあると思いますか? これから雇用環境がどう変わるか、身体実感のある親の言葉は子供に染みるんです! これからはどういう職業に対して社会的ニーズがあるのかまで考えている人は「実学」志向の親たちの中にはほとんどいません。

親たちはとりあえず「みんながやっていること」を自分の子供にもやらせようとします。でも、「みんなができること」しかできない子供は将来の職業選択に際して、競争倍率の高いところに自動的に追い込まれる。それよりは「誰もできないこと」に資源を投じるほうが、少なくとも競争的環境を回避することはできます(まったく食えない可能性はありますけど)。みんなが英語をやるなら、自分はアラビア語をやるとか、ヒンディー語をやるとか、発想の転換が必要なんです。

■哲学と合気道の共通点は「人間の力と知恵の最大化を追求すること」

「この分野をやっているのは自分しかいない」という専門性はそれなりの武器になります。以前、『ガンダム』を描いた安彦良和さんと対談したことがあります。どうして僕なんかにお声がかかったのかわからなかったのですが、安彦さんはそのとき『虹色のトロツキー』という漫画で、満州におけるユダヤ人問題と、登場人物の一人である合気道開祖・植芝盛平先生を描いていらした。日本でユダヤのことを研究している人は何千人もいます。合気道を修行している人は数十万人もいます。でも、「ユダヤと合気道の両方の専門家」となると、日本ではたぶん僕一人しかいない。二つの専門分野を掛け合わせると、「それは日本で自分しかいない」ということがあり得る。

『プレジデントFamily』2019秋号の特集は「東大生184人『頭のいい子』の育て方」。親の素顔、親がかけた言葉、小学生時代に読んだ本などを紹介している。

二つ以上の専門分野を持つことはそれぞれの専門領域での自分の活動を吟味する上で、たいへん有効です。僕は哲学や文学の研究におけるアイデアの適否をつねに道場で検証してきました。逆に、稽古がうまく進まないときには「人間について間違った理解をしている」というふうにフィードバックしてきました。

哲学も合気道も、突き詰めれば、「どうすれば人間の持つ生きる力と知恵を最大化できるのか」という課題に帰着します。たどる道は違いますが、目的地は同じです。だから、合気道の稽古中に、「レヴィナス(※)の言っていることはこれだったか!」という発見が生まれるし、レヴィナスを読んでいるうちに合気道の術理が腑に落ちることがある。長くやるほどに、この種の「気づき」の頻度は高まります。

※エマニュエル・レヴィナス。フランスの哲学者。内田氏の研究のメーンテーマ。

■身体実感のある親の言葉が子供に染みるんです!

子供の頃、父は「人間の価値を決めるのは哲学だ」とよく言っていました。中国に20年近くいて、政府機関で働き、敗戦後も北京にとどまった人ですから、敗戦のときには、人に言えないような経験をしたはずです。日本の行政機関も軍隊も総崩れしたカオスの中では、組織内の地位や軍隊での階級や学歴などにはまったく意味がないことを実感したんでしょう。どんなに偉くても仲間を捨てて逃げ出す者もいるし、どんなに非力でも手を差し伸べてくれる人がいる。おそらくそのような経験を踏まえて、「学歴や地位で人を判断してはいけない。見るべきはその人がどんな哲学をもっているかだ」という言葉が出てきたのでしょう。

こちらは子供ですから「哲学」が何を意味している言葉なのかはわかりません。でも、実感を込めて語られた言葉は子供にも伝わる。

写真=iStock.com/Hakase_
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hakase_

父親の影響なんでしょう、僕も人を見る時には、外形的なことよりも、「人間としてどれぐらいまっとうか」を基準にします。システムが瓦解するようなカオス的状況で、どれくらい正気を保っていられるか、どれくらい筋を通し、約束を守れるか、どれくらい礼儀正しくふるまえる人か、そういう点を見ます。

それほど親の影響というのは大きいものなんです。「子供をこう育てよう」という作意がなくても、親が筋の通った人生を生きていれば、子供も筋の通った人生を生きる。ふっと口にする言葉でも、リアルな身体実感の裏付けがあると、子供の体には刻み込まれる。それが蓄積されて「家風」が生まれる。

「やっぱりビールは冷えてないとな」でもいい。身体実感からにじみ出る言葉に子供は影響されるんです。家風は侮れないですよ。

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内田 樹(うちだ・たつる)
思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授
1950年東京都生まれ。日比谷高校を中退して家出。ジャズ喫茶でアルバイトをするも生活に窮して実家に戻る。大検で東京大学へ。東京都立大学大学院で修士課程修了。専門はフランス現代思想史。合気道7段の武道家で道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。ブログ「内田樹の研究室」主宰。初めての自伝『そのうちなんとかなるだろう』ほか著書多数。

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(思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授 内田 樹 構成=柳橋 閑)

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