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「国際芸術祭」は観光イベントよりもエラいのか

プレジデントオンライン / 2019年10月9日 11時15分

あいちトリエンナーレ2019の展示風景。越後 正志《飯田洋服店》2019 - Photo: Takeshi Hirabayashi

企画展「表現の不自由展・その後」の展示をめぐって揺れている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」。現地を視察した観光学者の井出明氏は「作品のよしあしとは別の次元で、観光イベントとしては不十分なところが目立つ。芸術界に『芸術は観光より上』という感覚があるのではないか」という――。(第3回、全5回)

■観光としては歩きにくい四間道・円頓寺界隈のスキーム

今回のあいちトリエンナーレは、名古屋市と豊田市の4つのエリアで開催されている。このうち名古屋駅に最も近い「四間道(しけみち)・円頓寺(えんどうじ)会場」は、街を歩きながら作品を鑑賞することができ、ほかの会場とは趣が異なる。それは名古屋の戦後の復興と大きくかかわっている。

名古屋は戦前から産業都市として名を馳せ、さらに陸軍の第3師団が置かれていた巨大な軍事都市であったため、太平洋戦争では米軍による徹底的な空爆を受けた。名古屋は「焼け野原」となり、戦後はゼロからの復興となった。現在、名古屋市の中心部には道幅が100mある大通りが東西に走っているが、これは復興の都市計画で作られたものだ。一度に渡りきれないほどの横断歩道の巨大さは、戦争の被害を物語っている。

その一方、四間道周辺は空襲から奇跡的に焼け残り、戦後、早い段階で立ち直った地域である。ただ、戦後復興および高度成長の過程において、栄周辺が繁華街としてにぎわいを取り戻し、さらに近年は名古屋駅周辺の整備が集中してなされた。それゆえ四間道・円頓寺界隈については再開発が遅れ、時代から取り残されたような雰囲気がある。

今回のあいちトリエンナーレで、ここ四間道・円頓寺界隈が会場に設定された背景には、この地域の活性化も見込まれていたという。越後正志による「飯田洋服店」は、あえて昭和テイストあふれる空間を作り出し、街の鄙びた風情と作品をシンクロさせている。

さて筆者も徒歩で作品めぐりをしたのだが、個々の作品のよしあしとは全く別の次元で、観光オペレーションとしては問題を感じた(なお、以下に記した論点は、筆者が視察した9月14日時点のものであることをお断りしたい)。

■展示終了の表示がないので、客はウロウロするしかない

まず筆者は「四間道・円頓寺会場」のインフォメーションセンターに行き、まち歩きのマップをもらったが、このマップにはすでに展示が終わった作品についてもそのままになっていた。筆者がそれに気付いたのは。ユザーン「Chilla: 40 Days Drumming」の展示をいくら探しても見つからず、同じように探し回る人がたくさんいたからだ。

インフォメーションに戻って「どこにあるのか?」と聞いたところ、「タブロイド判の公式情報で展示終了の旨を告知している」という説明を受けた。だが12ページもあるタブロイド判をその場で読むのは負担が大きい。観光客がまち歩きマップを頼りにするのは当然だ。そこに案内がないのは不親切ではないか。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。葛宇路(グゥ・ユルー)《葛宇路》2017 - Photo: Takeshi Hirabayashi

現場にも展示終了の表示がないので、客は道に迷ったのかとウロウロするしかない。インフォメーションと展示終了の作品は、徒歩で5分ほどの距離にあるのだが、マップを手渡されたときにはなんの案内もなかった。

私は、観光学者の責務として、自分が受けた被害を放置した場合、次に困る人が出そうな場合はたいていその場でクレームを入れる(単に自分が嫌な思いをしたというだけであれば、「商売の参考に」という趣旨で数日後にメールでお知らせすることが多い)。

この件に関しては、私が即座の注文をつけたところ、翌日にはマップに手書きで情報が書き加えられていた。このためスタッフやボランティアにホスピタリティマインドが足りないわけではないのだろう。具体的に客がどこで何に困るのかという点に対する想像と理解が足りないだけなので、事前に観光のプロが入っていればトラブルは防げたはずである。クレームへの対応力はかなり高く、現場の奮闘ぶりを感じた。

■イレギュラーなイベントの認知はSNSではあまり有効ではない

また、「表現の不自由展・その後」の展示中止の後、有志アーティストが「サナトリウム」と称する非公式の話し合いの場を円頓寺・四間道界隈に作っているのだが、この情報が公式案内所にはないため、探すのに難儀した。若い人たちはツイッター検索でつながるそうなのだが、Google検索だけでは目当ての情報にたどり着くことは難しい。

地方芸術祭でも、そして地方映画祭でも、その場のノリや雰囲気で、オーソライズされていないイベントが自主的に立ち上がるシーンは何度か目の当たりにした。こうしたゲリラ的なイベントを広く認知させる方法としてSNSはあまり有効ではない。SNSはもともと嗜好の近い人々をつないでいるため、ある日たまたまそこにいる人に対する伝播力が弱いのである。

ここは、円頓寺の風情もあって、昭和の頃に立ち返り、駅の伝言板のようなものにチョークで書いたり、ホワイトボードにポストイットで貼るなど、原始的な情報伝達を試みると、より早く伝えられた可能性がある。

■客に予定の読めないような無理を強いるオペレーション

観客の誘導面では穴が多かった。

路地裏の会場への誘導では、街灯がつくまで、案内板を探すことも困難だった。(撮影=井出明)

例えば路地裏の会場への誘導では、夕方以降、街灯がつくまでの間は案内看板が全く見えなくなってしまい、訪問者は展示を探すのにかなり苦労することになる。

また、幸円ビルにおけるキュンチョメ「声枯れるまで」は、15名程度のキャパなのですぐに定員オーバーで席が埋まってしまう。満員になると整理券が配布されるのだが、逆に満員にならなければ整理券は出ない。

要するに「行ってみて、空いていればその場で見られるし、混んでいれば当日の整理券はもらえる。ただ、整理券はなくなることがあり、その場合はその日には見られない。翌日以降の予約はできない」という冗談のような行動の制約を受けることになる。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。キュンチョメ《声枯れるまで》2019 - Photo: Takeshi Hirabayashi

私は観光学者として数多くの地域イベントを視察しているが、複数会場を設定しているにもかかわらずに、客に予定の読めないような無理を強いるオペレーションには疑問が残った。作品自体はアイデンティティについて視聴者と一緒に再考するという非常に意義深い問題提起となっている。それゆえより多くの人の目に触れてほしいと思ったのだが、そもそもこの小さい会場で投影する必然性があったのかという思いも抱いた。

■「ベビーカーは外に置く決まりになっている」

さらに、「四間道・円頓寺会場」では、無料ゾーンと有料ゾーンがパンフレットからも建物の外観からも全くわからない。チケットを出すと「不要です」と言われ、ドアが開いていたので入ろうとするとチケットの提示を求められる。中には建物と展示室がほぼ一直線であるのに2回チケット提示を求められるケースもあった。チケットチェックのオペレーションが顧客の立場で考えられていないのだ。「これではチケットをなくす人が出るのではないか」と懸念していたところ、知人がやはり紛失してしまい、泣く泣く買い直すことになった。

古民家の「伊藤家住宅」を使った会場では、何人かのボランティアに「ここはいつできたんですか?」と聞いたが、全員が「知りません」という答えだった。容易に想定される質問にすぐ答えられないのは、客としては不安になるし、また「イベントに思い入れはあるのか」という気持ちにもなる。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。津田道子《あなたは、その後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう。》2019。江戸時代に建てられた伊藤家住宅内の二間続く座敷に展示されている。 - Photo: Takeshi Hirabayashi

さらに残念なシーンもあった。ベビーカーで来ていた若夫婦が「子どもがベビーカーで寝ているので交代で見学したい」と申し出たところ、スタッフが「ベビーカーは外に置く決まりになっているので、外で親御さんと一緒に待ってほしい」と対応していたのだ。結局、エントランスが空いていたので、他のスタッフが気を利かせて屋内に誘導していた。商店街でのイベントであるのに、ファミリーフレンドリーでない点は残念だった。

■美術館長「ただの観光イベントでは、表現も緩くなる」

観光の専門家を入れないで芸術イベントを作るとこうなるのだなと思う他に、通常の(特に関西の)観光イベントなら怒号が飛び交ってもおかしくないような話なので、美術ファンというのは我慢強いなと感心もする。

このようなことをつらつらと考えていたら、朝日新聞の大西若人編集委員の「芸術祭、観光イベント超えて 愛知と宮城、二つの問いかけ」という記事(2019年9月19日朝刊文化文芸欄)を見かけた。ここでは、ワタリウム美術館の和多利恵津子館長の「ただの観光イベントでは、表現も緩くなる」という発言が紹介されている。こうした発言をみると、観光イベントをアートフェスティバルより格下に見ているのではないかという懸念を持つ。

当初、あいちトリエンナーレの企画アドバイザーだった東浩紀は、著書『ゲンロン0 観光客の哲学』で、人間の知的営為における観光の持つ意味を示している。美術鑑賞と観光は重なり合う部分も多い上に、矛盾する活動でもない。

写真=時事通信フォト
博物館網走監獄(北海道網走市) - 写真=時事通信フォト

■観光と芸術は車軸の両輪として地域を支えられるはず

私はダークツーリズムの成功例として「網走監獄」(北海道網走市)をよく紹介する。ここは「家族でコスプレと監獄食を楽しみに行ったら、北海道開拓時の強制労働と明治の行刑システムが分かった」という誘導が作られている。

娯楽と本質的理解は背反ではなく、シームレスに結合できる。このノウハウを高度に蓄積させた学問分野が観光学であり、今後の芸術祭においてはより広い国民の支持と芸術への理解を両立させるために、観光と芸術の協働はより重要になってくる。

折しも、演出家の平田オリザ氏を学長候補とする国際観光芸術専門職大学(仮称、兵庫県豊岡市)の構想が発表されたばかりであるが、観光と芸術は車軸の両輪として地域を支える存在になっていくのであろう。

観光という観点から見ると、オペレーションが未熟な上、ボランティアの訓練も不十分なので、おそらく企画が決定してから現場で実務を策定するまでの時間が足りなかったのではないかと拝察される。

■国際芸術祭の「接客」はどうあるべきなのか

通常、地域イベントのオペレーションは、現場で起こった問題が、すぐ運営側に伝わり、統一的な対策が練られて現場に情報が戻ってくるのだが、そういった情報の流通経路が通っていないのかもしれない。初めの一週間だと、予期しない顧客対応で混乱するケースも多いのだが、開始1カ月を過ぎてこの状況だとすれば、ノウハウの蓄積がなされていないように感じられる。

「表現の不自由展・その後」が展示中止に追い込まれたとき、運営側は「抗議に対する準備はしていたのだが、想定を超える量が来た」と述べた。さらなる推定にはなるが、上記の通り地域イベントとしての完成度が低いため、「不自由展」に抗議が来た際にも十分な対応が取れなかったのではないだろうか。

9月26日に本稿のため、ベビーカーの貸し出しの仕組みなどを事務局に直接聞こうと思い架電したところ、自動音声で「会話はすべて録音されます」「あらゆる会話は10分に制限されます」という乾いた声を耳にすることになった。

これが訪問を検討していた潜在的顧客だったとすれば、関西弁でいうところの「けったくそ悪いわ」と電話を切ってしまう人もいるだろう。国際芸術祭の接客はどうあるべきなのか。観光学者としては、あらためて運営側に問いかけてみたいのである。(続く)

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井出 明(いで・あきら)
観光学者
金沢大学国際基幹教育院准教授。近畿大学助教授、首都大学東京准教授、追手門学院大学教授などを経て現職。1968年長野県生まれ。京都大学経済学部卒、同大学院法学研究科修士課程修了、同大学院情報学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(情報学)。社会情報学とダークツーリズムの手法を用いて、東日本大震災後の観光の現状と復興に関する研究を行う。著書に『ダークツーリズム拡張 近代の再構築』(美術出版社)などがある。

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(観光学者 井出 明)

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