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「表現の不自由」は誰にとっての問題だったのか

プレジデントオンライン / 2019年10月16日 11時15分

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の最終日を終え、拍手する芸術監督の津田大介氏(右から3人目)と大村秀章愛知県知事(同2人目)ら=2019年10月14日、名古屋市東区 - 写真=時事通信フォト

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」が10月14日、75日間の会期を終えた。企画展「表現の不自由展・その後」がわずか3日で中止になるなど混乱したが、会期末まで1週間に迫る10月8日になって展示を再開。抗議のため展示中止となっていた作品などもすべて元に戻った。現地を視察した観光学者の井出明氏は「今後のためにアートと大衆の分断を避ける手立てを考えるべきだ」と指摘する――。(第5回/全5回)

■「慰安婦像」を扱った部分が見えなくなっていた

今回は、筆者が視察した9月16日時点での展示内容を前提に、あいちトリエンナーレが残した課題について考察したい。

「不自由展」の会場は愛知芸術文化センターだったが、その影響は豊田会場の作品にも及んでいた。たとえば、小田原のどか「↓(1946‐1948/1923‐1951)」については、いわゆる「慰安婦像」を扱った部分が見えなくなっており、このことは、公式のウェブサイトでは告知されていなかった。ステートメントを読めば経緯がわかるのだが、現場の悩みを感じさせる。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。小田原 のどか《↓(1946‐1948/1923‐1951)》2019 - Photo: Takeshi Hirabayashi

彼女の作品「↓(1946‐1948)」「↓(1923‐1951)」については、豊田会場担当のキュレーターからの依頼を受けたという前提があるものの、長崎の被爆や戦前の軍人像の台座を題材にしている以上、大規模な空爆を経験し、かつて軍都であった名古屋でも対峙したかったというのが鑑賞者としての率直な思いである。もちろん豊田にあることによってこの作品自体の価値が下がるわけではないのだが、仮に名古屋にあれば観光学者としての私の想像力はより掻き立てられたであろう。

時間と空間を相手にする観光学を専門にしているからかもしれないが、私は各種のインスタレーションを見たとき、妄想のように「あの場所においたらどうかな?」とか「あっちの広場においたらどうだろう?」などと思い浮かべる。現実には様々な制約があり、作者にせよキュレーターにせよ、「鑑賞者は勝手なことを考えるものだ」と感じるかもしれないが、屋外インスタレーションをどこにおいたらもっと楽しめるだろうかと考えることは、芸術の新しい楽しみ方の一つだと思う。

■平面作品を覆う新聞紙が「赤旗」だった謎

豊田会場の美術館の展示作品にも影響が出ていた。レニエール・レイバ・ノボの作品の中には、毛沢東やカストロの姿を消すことによって権力への懐疑を表すものもあるそうだが、こちらの会場に展示されていた「革命は抽象である」は、「不自由展」の展示中止によって、抗議の意を示すためにオブジェにビニールが被せられるとともに、平面作品は新聞紙で覆われてしまった。

当初この展示室に入ったとき、元の作品が事実上見られなかったため筆者としては大いに残念に感じたものだったが、平面作品を覆っている新聞紙の一部が日本共産党の機関紙である「赤旗」となっており、新鮮な驚きを持つに至った。

ノボの20枚の平面作品のうち、3枚ははっきりと「赤旗」として確認できる新聞紙で覆われていた。公立美術館の美術作品として、日本共産党の機関紙を目の当たりにした私は、いろいろと思い悩むことになる。

撮影=井出明
新聞紙で覆われてしまっていたレニエール・レイバ・ノボの平面作品。 - 撮影=井出明

■美術展で政党機関紙を「見せられる」という状況

美術館にあいちトリエンナーレの展示作品としてオーソライズされた状態で展示されているとすれば、それは愛知芸術文化センターにおける慰安婦を表象する少女像や昭和天皇の肖像写真が燃える(ように解釈されうる)映像作品などと異なり、直接的な政治活動としての意味を持ってくる。

図書館に赤旗があるのというのは、情報にアクセスしたい人がそれを見るだけだから、特に問題はない。だが、美術展を見に行った人が政党機関紙を「見せられる」という状況は、公立美術館の持つべき政治的中立性が侵されていると言えないだろうか。

この「新聞紙」は、1枚を除き「表現の不自由展・その後」に関する記事が掲載されたものであるため、覆いに使われることには論理的整合性が感じられるものの、なぜここにこれほどの「しんぶん赤旗」が集積しているのかは、私の想像力を刺激する。

■作家は「共産党の機関紙」とわかっていて選んだのか

豊田の街にはもちろん労働組合関係者もたくさん住んでいるものの、トヨタ系の組合は基本的に共産党と関わりが薄い。ノボが、新聞紙で作品を覆って、「表現の不自由展・その後」の展示中止に抗議の意を示したかった点については理解できるが、この3枚の赤旗はどういった経緯でここに運ばれてきたのだろう。

キューバ人アーティストが、「これは共産主義政党の機関紙である」であるという認識を持っていたかと言えば、それには疑問符がつく。元々の彼の作品が共産主義革命に対する皮肉を含んでいたそうであるから、もし当人が理解していたとすると、そういった素材は避けた可能性が高いのではないだろうか。

とすれば、アーティストが「表現の不自由展・その後」に関する記事が載った新聞を集めてほしいというリクエストを出した後に、周辺の人々から意図的にか、あるいは自然の流れなのか、とにかく赤旗が届けられたということになる。

■作者の意図と異なる「誤配」が生まれる空間だった

私個人は、赤旗が公立美術館で展示されてよいかという点については、議論が必要だと考えるものの、現代アートの美術作品としては、展示作品を覆い隠すことによって逆説的に非常に興味深い完成度を示しているように思う。

というのも①豊田の街の特性を考えると相対的に少ない部数の政党機関紙が、②共産主義政権に距離を置くアーティストの手に渡り、③公立美術館で展示されるという奇跡は、「表現の不自由展・その後」の展示中止がなければ生まれなかった芸術的邂逅だからだ。

もちろん、こういった楽しみ方は作者の意図を全く無視したものである。ただ、アートに限らず芸術文化をどう楽しむのかは鑑賞者に委ねられるものであり、私のような見方は、いわゆる「誤配」が起こっている状況であると言える。

当初、あいちトリエンナーレ2019のアドバイザーを務めていた東浩紀は、表現者の思惑と異なる形で情報が伝わることを、著作『存在論的、郵便的』(新潮社)などで「誤配」と表現している。人類の文化は「誤配」によって発展してきたともいえ、現代アートの祭典であるあいちトリエンナーレは、この「誤配」を大いに楽しめる空間だった。

■「表現の自由」への賛同を全作家に強いるべきなのか

「不自由展」がいったん中止されたことを受け、愛知県の大村秀章知事は、8月に表現の自由を重視する「あいち宣言」の採択を提案。その後、参加作家有志が草案をまとめ、10月8日付けで内容が公表された。それに対するコメントを付して、あいちトリエンナーレをめぐる旅を締めくくりたい。

「あいち宣言」の理念は崇高だ。しかし美術展の開催後にこうした宣言を事後的に採択する場合には、考えなければならない問題がある。

「表現の自由」は絶対的な価値であると私も思いたい。だが、現実問題としては、中国やシンガポールと言った巨大検閲システムを持つ国家から招いたアーティストもいる。中国やシンガポールに検閲があることは、同志社大学の河島伸子教授が「税金を使った美術展は『不自由』でも仕方ないか」(プレジデントオンライン、8月27日)で述べている通りだ。彼らに自由圏の価値概念である「表現の自由」に賛同するような“踏み絵”を迫ることは慎重に検討する必要があろう。

「あいち宣言」の草案に、「中国(やシンガポール)のような検閲体制を作るな」というアピールがあれば私も驚嘆したが、やはりそういった主張は入っていなかった。

■「表現の自由」のない国の素晴らしい作家や作品をどう考えるべきか

「表現の自由」が制限された国や地域で芸術活動を展開しているアーティストにも素晴らしい作品があり、イスラムを始めとする西欧文明圏には理解しにくいタブーを有した文化においても芸術は発展してきた。

そもそも、「暗黒の中世」と言われた1000年間のヨーロッパ社会においても、丁寧に見るならばそこには文化的革新が波状的に存在し、その間に生み出された芸術の価値は現代にまで続く。所詮、「表現の自由」は、西欧近代システムにおけるドグマであり、一方で現代アートは、ポストモダンの観点から近代の価値概念に疑念を投げかける。

「表現の自由」は、我々が当然としてきた西欧近代システムの価値規範の核心であるのは間違いない。ただ、その文脈から離れ、「表現の自由」が芸術文化に対してどのような作用を持ちうるのかという両者の関係性について考察する機会としても、今回のあいちトリエンナーレは大きな価値を持っていた。

■アートに無関心な「大衆」に向き合う必要がある

本稿の執筆中に、「表現の不自由展・その後」は、非常に限定的な条件のもとで再開され、他の展示作品も当初の状態に戻った。ただ、JNNの世論調査(調査日:10月5日、6日)によれば、文化庁の補助金不交付の決定に対し、「適切だった」という回答は46%で、「不適切だった」は31%、「(答えない・わからない)」が23%だった。

美術展が再開されても、問題の根本は解決されておらず、世論の支持がないとすれば「宣言」は美術界と愛好者だけの価値規範になってしまいかねない。今回の「表現の自由」をめぐる論争が、「だからアートは理解できない」とか「現代アートは特殊な趣味」などと思ってしまう人々を増やすことになりはしないだろうか。理想を理想のままで終わらせないための方策が必要であろう。

「あいち宣言」の草案には、実はこの「特に美術に関心のない大衆」に対する働きかけがほとんどない。「宣言」は芸術家、キューレーター、カルチュラルワーカー、鑑賞者などの芸術文化産業のステークホルダーのあり方や責務に関しては非常によく考えられているが、地方芸術祭を支える美術に無関心な納税者たる「大衆」に対して、どう向き合っていくのかという考察に乏しい。新たな分断を生まないためには、芸術祭が「気楽で楽しい単なる観光イベント」という側面を持つことも重要であろう。

■導入としての「気楽で楽しい単なる観光イベント」

「気楽で楽しい単なる観光イベント」に来てみたら、初めて現代アートというものに触れられて、そして来場者はちょっと考えるようになるというアフォーダンス(導入)が組めれば、新しいファンが増え、その結果として「表現の自由を守ることは大事」と考えてくれる一般のサポーターもまた増加するであろう。

「表現の不自由展・その後」の展示再開にあたって、名古屋市の河村たかし市長は愛知芸術文化センターの前で座り込みを行い、多くの芸術文化の愛好家から非難を浴びた。だが、彼を非難してみたところで、あまり意味はない。彼は日本に多くいるであろう「現代アートの展覧会になんぞ行ったことのない中高年のオヤジ」の典型にすぎないからだ。

Photo: Takeshi Hirabayashi
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。葛宇路(グゥ・ユルー)《葛宇路》2017 - Photo: Takeshi Hirabayashi

仮に美術展が「気楽で楽しい単なる観光イベント」になれば、家族に引っ張り出されたり、ちょっとした暇つぶしに行くようになり、そこでアートの面白さに気づき、アートファンになってしまうかもしれない。「観光イベント」にするとは、さまざまな障壁を下げることだ。それはアートに関心のなかった人を会場に呼び込む仕掛けとも言えるのである。

ここまで5回にわたってあいちトリエンナーレ2019を考察してきた。連載をご覧いただけばわかるように、筆者は、日本の芸術文化に「観光」というクッションを入れることを提案したい。「観光」は、新しい分断を避け、芸術文化にイノベーションをもたらすことに寄与するはずだ。

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井出 明(いで・あきら)
観光学者
金沢大学国際基幹教育院准教授。近畿大学助教授、首都大学東京准教授、追手門学院大学教授などを経て現職。1968年長野県生まれ。京都大学経済学部卒、同大学院法学研究科修士課程修了、同大学院情報学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(情報学)。社会情報学とダークツーリズムの手法を用いて、東日本大震災後の観光の現状と復興に関する研究を行う。著書に『ダークツーリズム拡張 近代の再構築』(美術出版社)などがある。

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(観光学者 井出 明)

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