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薬物依存の母親に育てられた万引き少年の半生

プレジデントオンライン / 2019年10月29日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yuuji

広島の基町に、「ばっちゃん」と呼ばれ子どもたちから慕われる女性がいる。元保護司の中本忠子さんだ。中本さんは、約40年間にわたり恵まれない子どもたちに無料で手料理をふるまってきた。彼女が支援してきた子どもたちの壮絶な半生とは——。(第1回、全3回)

※本稿は、秋山千佳『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「差別のない社会を作っていきたいのが私じゃけん」

中本さんがばっちゃんとして話をする時、よく憤りとともに口にする一語がある。差別、だ。

そもそも広島の基町という地域には、アパートができるまで、原爆で焼け出された人や外地からの引揚者らが建てたバラックの密集する『原爆スラム』と呼ばれる一帯があった。アパートはスラムからの移住者に加えて中本さんのような一般公募での入居もあったが、住民へ向けられる差別的な視線は残った。被爆者や貧困に対する差別意識が表れた流言飛語も、かつてはあった。

中本さんもその中で暮らす一人として、差別というものを意識することは当然あっただろう。まして自身が被爆体験を持つのであれば、より敏感にならざるを得なかったのではないか、と感じていた。

現在の自身の活動については、皆が素晴らしいというものなら他の人もやっているだろうし、私は続けていないよ、と語った。自分に向けられてきたまなざしをどう捉えているのか。

「なぜクズみたいな奴らに金を使うて飯を食わせにゃいけんのか、とか、あいつらホームレスになるか、刑務所へ行くかなのに何の得にもならん、とか、差別的な言い方をされることは多いよ。保護司の中にもおるよ。排除するのが一番早いけんね。でもそういう批判があることで、これは私にしかできん、というエネルギーになった」

それに続けて、こう言い切った。

「差別のない社会を作っていきたいのが私じゃけん」

■暴力団員の夫と離婚した母と子の困窮

私の知る限り、中本さんの口から差別という一語が最もよく出るのは、力さんについて語る時だ。

力さんは22歳。中学生の時からの常連で、NPO法人「食べて語ろう会」が立ち上げた拠点「基町の家」に毎日のようにやってくる。

ある日の夕食は、天丼にマヨネーズをかけて平らげた後、丼飯に生姜焼きを山ほど載せてかきこみ、コールスローもおかわり。布袋様のように突き出たお腹を揺らして冷凍庫をのぞきこみ、「ばっちゃん、アイスちょうだい、最後の1個」と言う。

「2階にはチューチューもあるよ」と中本さん。チューブ入りアイスの存在を教えているのだ。

「チューチューはいらんよ。あれは中学生まで」と、甘えん坊の顔から急に大人ぶって言う力さんに、見ていて吹き出してしまった。

偶然だが彼は、私が中本さんの自宅で最初に出会った「食事をしにきた子」だった。21歳になったばかりで、今とは違って、建築関係のアルバイトをしていた。

もっとも中本さんが、支援する相手のことを何歳であろうが「子ども」と一括りにすることを考えると、私の最初に出会った「子ども」は彼ではなく、母親の麻子さんと言うべきかもしれない。力さんを語るにも、麻子さんは避けて通れない存在だ。

私が最初に中本さん宅を訪れた2016年1月の2日間、いずれも日中から来ていたのが、当時50歳の麻子さんだった。ひと目でその異様さは伝わってきた。

暴力団員の夫と離婚して一人暮らしだという麻子さんは、ジャンパーの下はフリースのカットソー1枚で、足元は裸足といういでたち。首にも足の甲にも入れ墨があるのが目を引く。本人は暑がりだから薄着でいいと気にする様子はなく、唐突に「ブラジャーもないよ」と言いながら服をめくりあげた。服の下の肉付きのいい体一面に、入れ墨が彫られていた。虎、大蛇、般若……まるで入れ墨のカタログのようだ。寝るときも着たきりというそのカットソーは異臭を放っていた。

■母親が見えない誰かと話すようにぶつぶつと独り言

「今日、ご飯食べたん?」と、中本さんが子どもに語りかけるように声をかける。

「昨日ばっちゃんにもらった冷凍のおじや、食べよったよ。でも卵入れたら吐いたよ」と麻子さん。

その卵は麻子さんの家にあった、いつ買ったかわからないものだという。普段の食生活を尋ねれば、「ばっちゃんのところで食べさせてもらうか、家でばっちゃんにもらったものか、子どもが持って帰るインスタントラーメンを食べる」と答える。

翌日は、普通に会話できる時もあれば、見えない誰かと話すようにぶつぶつと独り言をつぶやいては笑っている時間帯もあった。彼女は会話中の一人称に「麻子は」というように名前を用いるのだが、それが別の名前になっている時さえあった。

中本さんいわく、長年使っていた覚せい剤の後遺症で幻聴がひどいらしく、感情のコントロールがきかずに暴れだすことがある。数日前には突然意識を失って入院してもいた。麻子さんから病院の明細を見せられた中本さんは、「生活保護でもオムツ代は出んのじゃね」と感心したように言った。

かくして自己管理もおぼつかない麻子さんに、子育ては求めようもなかった。

■両親が逮捕され、万引きをして食いつなぐ生活

強烈なエピソードがある。

力さんには3歳上の兄と1歳下の弟がいる。その全員が小学生だった時、長らく刑務所に入っていた父親だけでなく母親の麻子さんまで逮捕され、子どもだけで生活していた時期が1年ほどあったらしい。中本さんいわく「力のお兄ちゃんが、弟たちを食わすために俺が悪いことして育てた、って言いよったよ」。

その間は、高学年になっていた兄が、低学年の弟2人のために万引きで食料を調達していたというのだ。盗めそうで食べられそうなものなら手当たり次第だった。

八百屋のモヤシをザルごと持ち逃げしたことさえあった。味のない生のモヤシを海水で洗って兄弟で食べたと、彼は笑い話として語っていたそうだ。

当人に詳しく聞いてみたいところだが、今は受刑者で広島にいないので、力さんに聞いてみた。モヤシを口にしたかは覚えていなかったが、彼の一番古い記憶は子どもたちだけで必死に生き延びたこの時期なのだそうだ。力さんはこう回想する。

「兄ちゃんはろくに食ってなかった。『俺はいらんけえ、お前らが食え』って。だんだん兄ちゃんは他の悪いこともするようになって、12歳で鑑別(所)行った。そこから自分と弟も、万引きするようになったんすよ」

出所してきた父、あるいは母と暮らしている時でも落ち着いた生活は望めず、むしろ地域社会で敬遠される一方だったようだ。父と暮らしていた時には、罰としてバットで殴られたり、遊びとして煙草の火を手に押し当てる「根性焼き」をされたりすることがあった。家出し、児童相談所の一時保護所で保護されたが、結局父が迎えに来て帰ることになった。母の麻子さんも、人を殴ったり恫喝(どうかつ)したりするので、関わり合いたくない存在として近隣で有名だったらしい。

ただ小学校では兄の担任だった女性教師が、力さんと弟の面倒も見てくれるようになり、洗濯や、家の掃除に来てくれることもあった。給食費未納だったが「学校に食べに来て、余っている食べ物は持って帰りんさい」と声をかけてくれたので、不登校にならずに済んだ。力さんは「お母さんだと思っとった」と語る。

■力さんの審判で涙ながらに「チャンスをください」

力さんが中本さんと出会ったのは、中学生の時。後に自殺した暴力団員の父を持つ敦さんが、「俺よりかわいそうな子がおるんじゃ」と言って、中本さん宅に力さんや弟を連れてきたのだ。芋づる式で麻子さんもやってくるようになった。中本さんは「親子ともどもうちが目をかけんことには悪さをしていけんよね」と大らかに受け入れた。

秋山千佳『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』(KADOKAWA)

中本さんにお腹いっぱい食べさせてもらい万引きは落ち着いた力さんだが、どうしてもやめられなかったものがある。小学5年生で覚えたというバイクでの暴走行為だ。これによって力さんは少年院に二度行き、20歳の時にも逮捕された。

力さんを初めて取材した際、彼は「二度目の少年院に行く前の審判で、ばっちゃんが来とって泣きました」と語っていた。中本さんが裁判官に対して、もう一度社会に帰ってこられるチャンスをくださいと涙ながらに訴えてくれたのだという。

21歳になった彼は、実の祖母だと思っているという中本さんを前にして、「もう心配かけたくない。3回も裏切ったんで」と誓っていた。(続く)

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秋山 千佳(あきやま・ちか)
ジャーナリスト
1980年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、朝日新聞社に入社。記者として主に事件や教育などを担当した。2013年に退社し、フリージャーナリストに。九州女子短期大学特別客員教授。著書に、『戸籍のない日本人』(双葉新書)、『ルポ 保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』(朝日新書)。

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(ジャーナリスト 秋山 千佳)

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