ナイキが「マラソン厚底規制」に高笑いする理由
プレジデントオンライン / 2019年10月31日 11時15分
■ナイキの「ピンク」のシューズが世界を席巻している
9月15日に行われたマラソングラウンドチャンピオンシップ(以下、MGC)でピンク色のシューズに目を奪われた方も多いだろう。男子は出場30人のうち16人が、「ナイキ ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%」(以下、ヴェイパーフライ)の新色「ピンクブラスト」を着用していたからだ。
「ヴェイパーフライ」は世界のマラソンを席巻しているナイキ厚底シューズの最新モデル。そのピンクはMGC当日に一般発売されると、結果を求めるランナーたちがすぐに買い求めた。
10月26日の第96回箱根駅伝予選会では、「ヴェイパーフライ」を着用している選手が異様なほど多かったのだ。個人100位以内に入った選手のシューズをテレビ画面でチェックしたところ、新色のピンクが48人、最初(7月)に発売されたグリーンが23人。その合計は71人だ。それにプラスして前モデルを履いていた選手もいた。
加速し続ける厚底シューズだが、「待った」がかかるかもしれないというニュースが飛び込んできた。このシューズはいわば“ドーピング”にひっかかるのではないかとの指摘が出ているのだ。
■なぜ42.195kmを1時間59分40秒で走破できたのか
こうした声が出てきた背景には、この秋、ナイキで走ったランナーのタイムが劇的に伸びたことが挙げられる。
9月29日のベルリンマラソンでケネニサ・ベケレ(エチオピア)が世界記録に2秒と迫る2時間1分41秒をマークすると、10月12日にウィーンで行われた「INEOS 1.59 Challenge」というイベントで世界記録保持者のエリウド・キプチョゲ(ケニア)がとんでもないことをしでかした。
41人の世界トップクラスの選手が交代でペースメーカーを務める非公式レースながら、42.195kmを1時間59分40秒で走破したのだ。キプチョゲは一昨年5月にも「BREAKING2」という非公式レースを2時間0分23秒で走っている。今回はシューズの進化もあり、“2時間切り”を達成した。
さらに10月13日のシカゴマラソンではブリジット・コスゲイ(ケニア)が2時間14分4秒で連覇を達成。ポーラ・ラドクリフ(英国)が16年以上も保持していた女子の世界記録(2時間15分25秒)を1分21秒も塗り替えた。
コスゲイは前年のシカゴも制しているが、そのときの優勝タイムは2時間18分35秒。従来の自己ベストは今年4月のロンドンでマークした2時間18分20秒で、そのタイムを一気に4分16秒も短縮したことになる。
■「ナイキのシューズは“ドーピング違反”なのではないか?」
ちょっと想像が追いつかないほどの記録が立て続けに生まれたことで、ナイキを使用していないアスリートグループが不満を訴えた。そして、国際陸連(IAAF)が調査に乗り出すと、BBCやESPNなど欧米主要メディアが10月19日までに報じた。
両メディアともIAAFの「いくつかの技術がスポーツの価値とは相容れないサポートをアスリートに提供しているのは明らかだ。IAAFの課題は新技術の開発と使用の促進と、普遍性、公平性の維持との間で適切なバランスの技術的ルールを見出すこと」というコメントを掲載した。ESPNの見出しは「キプチョゲ、コスゲイの偉業によりシューズテクノロジーへの懸念が高まっている」で、本文中には「より厳しい規則につながる可能性がある」と規制に発展する可能性を指摘している。
■カーボンファイバーを航空宇宙産業で使う特殊素材フォームで挟む
渦中のシューズは、反発力のあるカーボンファイバープレートを、航空宇宙産業で使う特殊素材のフォームで挟んでいるため、「厚底」になっている。それなのに重量は28cmで片足184gと軽い。推進力が得られるだけでなく、脚へのダメージが少ないという画期的なモデルだ。
厚底シューズの初代ともいえる「ズーム ヴェイパーフライ 4%」(2017年7月に一般発売)はナイキの代表的レーシングシューズよりランニング効率を平均4%高めることを目標に開発された。なお、南アフリカ・フリーステート大学の運動生理学者ロス・タッカーは、「ランニング効率が4%高まると、勾配が1~1.5%の下り坂を走るのに相当する」と分析している。
今年7月に一般発売された「ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%」は、最大85%の高いエネルギーリターンだというフォームの量を全体で15%増量。その分、エネルギーリターンも増えた。本来ならシューズは重くなるところだが、アッパー部分の素材を軽量化したことで、シューズの重さは変わらない。
■「厚底」シューズは普通の市民ランナーも入手可能
ベケレとコスゲイは、最新モデルの「ヴェイパーフライ」を着用。キプチョゲだけは、これまでの厚底シューズをカスマイズしたモデルを履いていた。そのシューズは“超厚底”といえるものだ。
画像だけでなく、設計図も公開されているが、前足部は「エアユニット」が2段重ねで搭載されている。これまでのナイキのシューズ戦略を考えると、キプチョゲの履いていたプロトタイプは、今後一般発売されるモデルの“原型”になるものだと推測できる。
IAAFはシューズに関して、「使用される靴は不公平な補助、アドバンテージをもたらすものであってはならず、誰にでも比較的入手可能なものでなければならない」と定めている。
以前は品薄状態が続いていたとはいえ、ナイキの厚底シューズは限られた選手仕様ではない。普通のショップで市販されており、誰でも「入手可能」だといえる。問題は「不公平な補助、アドバンテージをもたらすもの」か、どうかだ。
■カーボンファイバープレートの「厚底靴」を他メーカーも発売
ナイキの厚底シューズで最も特徴的なのは、カーボンファイバープレートが使用されていることだろう。シューズの爪先がせりあがっており、重心を前へ傾けることで、前足部がググッと曲がり、カーボンファイバープレートがもとのかたちに戻るときに、グンッと前に進む。しかし、このシステムを採用しているのは、もはやナイキだけではない。
ホカオネオネは2月に「EVOカーボンロケット」を、ニューバランスは9月に「フューエルセル5280」というカーボンファイバープレートと高反発のフォームを組み合わせたモデルを発売している。他にも同様のシューズを開発中というメーカーの噂(うわさ)がある。
そもそも陸上競技のスパイクにはカーボンタイプのソールを使用しているものが少なくない。見た目は随分と違うが、マラソンの厚底シューズは短距離のトップスプリンターが履くスパイクに似た原理といえる。
また、両足義足のスプリンターで「ブレードランナー」の異名で注目を浴びた、パラリンピック・オリンピック陸上選手オスカー・ピストリウス(南アフリカ)の例もある。
IAAFは、ピストリウスが一般選手と同じ速度で走るとき、約25%少ないエネルギー消費で足りることなどの優位性をテストで実証。カーボンファイバー製の義足は、「競技力向上を手助けする人工装置」にあたるとし、一般の大会への出場を禁じると発表した。
しかし、スポーツ仲裁裁判所(CAS)は、「義足が身体的、機能的に他の選手に比べて有利となることを証明し切れたとは言えず、参加を禁じるだけの根拠は不十分」として退けている。となると、カーボンファイバープレート入りのナイキの厚底シューズも問題ないと判断される可能性が高いのではないか。
■「レーザー・レーサー」禁止後、世界記録が23個更新された
ギア(衣服・道具など)の規制で思い出されるのが、競泳水着の「レーザー・レーサー」だ。2008年の北京五輪ではトップクラスの選手のほとんどがレーザー・レーサーを着用。世界記録が23個も更新されたものの、2010年からは着用が禁止となる。国際水泳連盟(FINA)が水着素材を布地のみに制限する規定に変更したからだ。
その後、記録が低迷したかというと、そうではない。当時の記録を多くの種目が越えて、続々と世界記録が誕生している。何かしらの規制があったとしても、それを上回るような新たなテクノロジーが開発されていくものだ。
■ナイキ幹部「2020東京五輪に向けてさらに飛躍させたい」
以前、筆者がナイキ ランニングフットウエア ヴァイスプレジデントのブレット・ホルツを取材したとき、厚底シューズについてこんなことを語っていた。
「2017年の『BREAKING2』での使用を目指して、2016年のリオ五輪で試作品をテストしました。オリンピックに向けてイノベーションを開発している部分もあるので、2020年に向けて、さらに大きく飛躍させたいと思っています。エネルギーリターンをもっと高めたいですね。もちろん、その先の2021年、2022年に向けたプランも考えていますよ」
今回の“騒動”で、ナイキの厚底シューズが「ドーピング」に該当することになれば大打撃を受けるのではないかとの見方もあるが、逆にさらに厚底に注目が集まる結果となって、ナイキは高笑いしているのではないだろうか。スポーツはフィジカル、スキル、メンタル、さらにテクノロジーの進化があって、パフォーマンスが高まっていくものなのだ。
いまのマラソン界はナイキの独壇場にあるといっていい。
だがナイキだけでなく他メーカーも、今後も新たなイノベーションを搭載したシューズを登場させるはずだ。マラソンの公認レースで2時間を切るなど、今後もタイムがどんどん短縮していくと筆者は予想している。ギアが進化し続ける限り、アスリートに限界はないのかもしれない。
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スポーツライター
1977年、愛知県生まれ。箱根駅伝に出場した経験を生かして、陸上競技・ランニングを中心に取材。現在は、『月刊陸上競技』をはじめ様々なメディアに執筆中。著書に『新・箱根駅伝 5区短縮で変わる勢力図』『東京五輪マラソンで日本がメダルを取るために必要なこと』など。最新刊に『箱根駅伝ノート』(ベストセラーズ)
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(スポーツライター 酒井 政人)
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