「治る見込みのない子ども」は見捨てるべきか
プレジデントオンライン / 2019年11月7日 11時15分
■幼い命の尊さ、それを守る難しさ
私は、大学病院の小児外科の医局に19年間所属し勤務しました。そのあと、開業医として13年間働いています。大学病院にいたときは、先天性疾患をもつ赤ちゃんに手術をしたり、小児がんの治療に力を注いでいました。ただ、その頃は夢中で働いたので、幼い命をめぐる生命倫理について心底考えたことはありませんでした。
命の尊さについて自問自答するようになったのは開業医になってからです。そのきっかけは、先天性染色体異常児の13トリソミーの乳児の地元主治医を依頼されたことにあります。私は幼い命の尊さと、それを守る難しさについて執筆活動もしています。最近上梓した作品『いのちは輝く わが子の障害を受け入れるとき』の中でも、命とは何かという問題を突き詰めました。そうした本の中から発せられる問いかけは、一般の人だけに向けられているのではなく、医療に携わる人たちにも向けられています。
■重度心身障害児の体にメスを入れる経験
私は若手の頃、県の小児病院に1年間出向しています。その小児病院にはいろいろな特色がありましたが、もっとも大学病院と異なっていたのは、重度心身障害児の外科治療を積極的に行うことでした。重度心身障害児とは、寝たきり、あるいは座位までが可能で、知能指数(IQ)は35以下と定義されます。IQ35とは、「読み書き・計算が不可能で、言語がやや可能」という状態です。
重度心身障害児は長期に臥床しているため、関節の拘縮が起こり、側弯症を伴うことがしばしばあります。そして胃食道逆流という症状が起こり、胃酸や胃の中の栄養剤を頻繁に嘔吐します。この結果、誤嚥性肺炎を起こしたり、食道炎になって吐血をくり返したりします。
重度心身障害児の体にメスを入れるということは、私が医師になった1987年頃には全国でもあまり行われていませんでした。県の小児病院ではそうした経験を少しずつ積み上げていっていました。そんなときに私は赴任したのでした。
■医師の葛藤は手術前から始まっている
胃食道逆流を止めるためには、手術によって、胃袋の上部を食道の周囲にぐるっと一周巻いて固定してしまいます。すると胃の中に水分や栄養剤が満ちると、胃が食道を圧迫するので嘔吐が止まるという理屈です。私は上司の医師に指導していただき、何例もこの手術を行いました。
手術自体はとりわけ難しいということはありません。問題なのは手術後です。麻酔と手術という大きな侵襲を受けると、重度心身障害児の体内では非常に強い炎症反応が起こり、場合によっては多臓器不全に近くなったりするのです。
したがって子どもたちは手術後は常に集中治療室(ICU)に入ります。ICUを運営していたのは麻酔科医でしたので、私は麻酔科の医師と共に術後管理に当たりました。お子さんによってはそのまま呼吸器から離脱できなくなり、在宅で人工呼吸器を使用するようになった患者もいました。そうなると気管切開が必要になりますので、もう一度手術が必要になります。重度心身障害児の体のメスを入れるというのは本当に命がけでした。しかし手術をめぐる医師の悩みや葛藤は手術前から始まっていることを、私はのちになって知りました。
■「この子は助けなくちゃいけないよね」への疑問
重い障害のある子どもに対して手術が必要ではないかと提案するのは、実は小児外科医ではありません。障害児の主治医である小児神経科の医師です。小児神経科のA医師は県の小児病院に20年勤務し、重度心身障害児を県内で最も多数診た経験のある方です。A医師は、重度心身障害児の生活の質を少しでも改善しようと考え、手術の適応の有無を呼びかけます。すると、関係各科の医師・看護師・コメディカルが集まって会議が開催されます。小児外科からは私の上司二人が出席していましたので、私がその詳細を知るのはのちになってからだったのです。
小児病院をリタイアしたA医師が私に語ってくれます。
「会議では常に子どもの障害の度合いが議論になります。一例一例、手術のメリットとデメリットを検討していくのです。すると、ある医師からこんなセリフが出てくることがあります。『この子は助けなくちゃいけないよね』。この子は助ける? じゃあ、他の子は助けないのですかと私は訊きたくなる」
私はその話を聞いて、医者が生命を線引きしているのではないかと疑問に思いました。
「その可能性はありますね。その医者に向かって、あなたはどこで線を引いているのですかと聞いても、その医者は答えられないでしょう。でも私には分かります。それは、その子とわずかでも意思の疎通が可能か否かです」
■「意思が疎通できる子か」で判断する怖さ
私はそう聞かされて大変複雑な気持ちになりました。確かに重度心身障害児の知能には幅があります。顔の表情や瞬きなどで何かを表現しようとしている子もいるし、深い眠りの中にいてほとんど顔に表情のない子もいます。そういった違いに基づいて、子どもが少しでも長く良い生活ができるように手術をするか、それとも見捨てる判断をしてしまうのかが決められるとしたら、かなり怖いことです。
意思の疎通の有無によって命の分かれ目があるとしたら、それは医療的判断というよりも、医師のジャッジに優生思想が潜んでいると言わなければいけないかもしれません。しかしながら、助けることがむしろ残酷という場面が医療の中で存在することもまた否定できません。そういう場面を私は何度も経験してきました。
■小児がん末期の女児がRSウイルスに感染
私が大学病院の小児外科で小児がん治療のリーダーをやっているとき、生後6カ月の女の子が入院してきました。縦隔(胸の中の肺以外のスペース)に巨大な腫瘍があり、肺を押しつぶして、肋骨に腫瘍がくいこんでいました。骨を画像化する検査を行うと、肋骨は腫瘍の浸潤によって一部が溶けていました。さらに胸水が貯まっており、癌性胸膜炎の状態です。小児がんの末期症状の状態でした。
私は、まずいったん女児に対して全身麻酔下の開胸生検を行い、腫瘍の一部を摘出し病理検査に回しました。そして中心静脈カテーテルという点滴の管を心臓の近くまで入れて、抗がん剤の投与ルートとしました。病理検査の結果、やはり神経芽腫という最も悪性度の高い小児がんでした。
術後1週間で抗がん剤治療を開始しました。シスプラチンを含む4剤の多剤併用療法です。女児にはたちまち抗がん剤の副作用が出て、輸血が必要になり、白血球は正常の100分の1まで低下しました。まったく免疫がない状態です。そんなとき、どういうルートなのか不明ですが、女児はRSウイルスに感染しました。
■常識で考えて「数日で亡くなる」状態
RSウイルスは健常児が罹っても細気管支炎から肺炎に至る重い感染症です。心奇形のある子がRSに感染すると命に関わると言われています。この女児も免疫が低下しており、肺がつぶれていますから、RS感染症になることは相当に危険なことが容易に予測されました。
私たちは女児の上半身に酸素テントを張りました。手首の動脈にAラインと呼ばれる点滴を入れて、2時間ごとに動脈血を抜いて酸素と二酸化炭素の圧を測定しました。しかし、見る見る間に女児の検査データは悪化していきます。このままでは呼吸不全になります。そこで私は女児に鎮静をかけ、気管内にチューブを挿入し、人工呼吸を開始しました。
当初の呼吸器の設定は、吸入酸素濃度が40%です。しかし動脈血の検査データは少しも改善しません。1日ごとに酸素濃度を50%、60%とあげていき、ついに100%まで上げました。
抗がん剤の副作用は強く、白血球の数は上がってきません。肺のX線を撮影すると癌性胸膜炎とRS肺炎はまったく改善していません。このままではこの子は亡くなると私は判断しました。いえ、常識で考えればこの子は、もう数日で亡くなります。
■「器械で維持」されていた女児の命
最後の可能性は膜型人工肺(ECMO=エクモ)です。心臓は自分の力で動いていますから、人工心肺から心臓の働きだけを除いたECMOをやるしかないと思ったのです。女児をICUに移送し、局所麻酔をかけて首を切開しました。1本のカテーテル(管)は頸静脈から心臓に入れて、血液を体外に出します。人工肺を通って血液は酸素化されます。もう1本のカテーテルは頸動脈に入っていますので、ここから酸素化された血液が全身を循環します。
ECMOを回し始めると女児の全身は桜色に色調を取り戻しました。勝負は1週間です。ECMOはいつまでも使用できません。体外循環の最も怖いところは、回路の中で血液が固まってしまうことです。このため、循環血液の中にはヘパリンという血液凝固阻止剤が入っています。ただでさえ、抗がん剤の副作用で血小板が減少しているのに、ヘパリンを使うと脳内出血を起こす可能性があるのです。
しかし、ECMO開始から1週間を過ぎても女児の肺の状態はまったく改善しませんでした。人工呼吸器をつけてすでに2週間が経過しています。血圧は低下し、しだいに除脈になっていきます。不整脈も頻発します。ペンライトを当ててみても瞳孔は開いたままで反応がありません。気管内の痰を吸引しても、咳のような反射はまったくありませんでした。脳内出血を起こしていることは、明らかでした。
毎日面会に見える両親の顔にも悲しみと疲れが滲むようになっていました。ECMOと呼吸器が動いているだけで、女児の命は器械によって維持されているだけという状態です。
■このままだと、子どもにも両親にも残酷すぎる
その日、夕方に両親が面会に来ることになっていました。心拍数はさらに一段と低下し、不整脈も注射薬では抑えられない状態でした。
私が考えたことは、もはやこの子を助けることではありませんでした。両親の面会に合わせて、両親が見守る中で逝かせてあげようと考え始めていました。ICUの入り口に両親の姿が見えたら、私はECMOのダイヤルを絞って体外循環の流量を落とそうと考えていたのです。
しかし、そんなことをやってもいいのだろうか。それは「治療の差し控え」だろうか、「治療の停止」だろうか。それとも「積極的安楽死」に相当するのだろうか。私はこの子の命を軽んじているだろうか。それはない。このままだと、この子にも両親にもあまりにも残酷に過ぎるのではないだろうか。
私がダイヤルに向かってためらいながら右手を伸ばしたとき、入り口に両親が姿を現しました。その瞬間、アラームが鳴って心電図の線がフラットになりました。
「早く!」
私は叫びました。両親がICUの中を走ってきて、女児にそばにはりつきます。
「手を握ってあげてください」
私は心臓マッサージをしませんでした。そして腕時計に目をやり、その時刻を告げました。
■「一人の人間」として、子どもと丁寧に向き合う
私がECMOのダイヤルを絞ろうとしたことは、今でも自分の胸の中に澱のように暗い記憶として残っています。心臓マッサージをしなかったことは、あの子の命に線を引こうとしたことになるのではないかと考えます。こうした自分の態度が倫理的に正しいのか、今でも分かりません。
では、重度心身障害児の中でも、とりわけ脳の障害が重い子に対して手術をしないという判断を私は批判できるでしょうか? この問いに対しても答えを出すことができません。
ただ、一つだけ確実に言えることがあります。それは、どんな子どもにも人権があるということです。病気が重篤で治る見込みが皆無でも、重い障害が一生消えないとしても、子どもには人権があります。子どもの命は子ども自身のもので、医者がその命の期限を決めるというのは、やはり危うさがあると思います。
子どもの人権を尊重し、子どもを一人の人間として丁寧に向き合っていくことが、医療者には求められるのではないでしょうか。それは大病院の医者でも、開業医でも同じことです。私はそういう思いを大事にしながら、現在、診療を行っています。
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医師
1961年、東京都生まれ。87年、千葉大学医学部を卒業し、小児外科医となる。日本小児外科学会・会長特別表彰など受賞歴多数。2006年より、「松永クリニック小児科・小児外科」院長。13年、『運命の子 トリソミー 短命という定めの男の子を授かった家族の物語』で第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。著書に『子どもの危険な病気のサインがわかる本』(講談社)、『小児がん外科医 君たちが教えてくれたこと』(中公文庫)、『呼吸器の子』(現代書館)、『子どもの病気 常識のウソ』(中公新書ラクレ)などがある。
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(医師 松永 正訓)
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