1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

「大酒飲みの小説家」がついに禁酒を遂げた方法

プレジデントオンライン / 2019年11月21日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GeorgeRudy

30年間毎日酒を飲み続けていた作家の町田康さんは、この4年間、1滴も酒を飲んでいない。なぜ大好きな酒をやめることができたのか。町田康さんは「楽しもう、頑張ろうという発想が飲酒の原因になる。まずは『人生は楽しくないもの』とする認識改造が必要だ」という——。

※本稿は、町田康『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。

■楽しもう、頑張ろう、では酒はやめられない

此の世の中には1泊30万円の部屋に泊まり三鞭酒を飲んでいる人があるというのに自分は1泊3000円の安宿で合成酒を飲んでいる。そしてそれが一夜の宿りならまだよいが、此の世における魂の宿りたる肉体の出来具合が3000円なのであればとてもじゃないがやりきれぬ。

とこぼす人に対して、「いやいや此の世の中は夢の世の中。常なるものはありません。つまり無常。よって嘆く必要はありません。3000円のなかに楽しみを見出しましょう。里山とか行ってみましょう。無農薬野菜食べましょう」と考えて乗りきる。

或いは、「よっしゃ。ほんだら俺もいってこましたるで。泪橋を逆に渡るで。とりあえず投資セミナー行って自分を高めつつ、あくまでも法の範囲内で銭を儲けていこう」と頑張るのも、どちらも酒をやめることにはつながらない、と申し上げた。

なぜかというと、2つの認識の根底に共通する大きな認識があって、その認識こそが飲酒の原因となっているからでその認識とはなにかというと。

そも人生は楽しいもの、または楽しむべきもの。

という認識で、これを改めることこそが、認識改造のぎりぎりの肝要のところなのである。

■「人生は苦しいもの」と考えを改める

では、どのように改めるべきか、というとそう、そも人生は苦しいもの、と改めるべきなのだが、しかしこれまで、楽しいもの、または、楽しむべきもの、と考えていた人が一気にその段階に進むのはさすがに苦しいだろう、なのでとりあえず現段階では、

そも人生は楽しくないもの。

に留めておくことにしよう。しかしこれにしたって承服できぬ、という人が多くあるのかも知れない。というのは例えば、運動競技の国際的な大会に出場するために外国へ出掛ける選手が取材に応じる際などにニコニコ笑って、「楽しんできます」など言っていることからも知れるであろう。

普通で考えれば運動競技などというものは日常生活においてまずあり得ない負荷・負担を身体に掛けるのだから苦しいに決まっている。200キロのバーベルを持ち上げる。100メートルを10秒で走る。なんてことは、おけさやかっぽれを踊るような調子でヘラヘラ楽しんでいたら絶対にできない。

そうするためにはもって生まれた天分や素質に加えて、血の滲(にじ)むような努力、鍛錬が必要であろうことは傍で見ていても容易にわかる。そしてそんなことをしてきたなかでも選びぬかれた、えげつない御連中が集結するのが国際大会で、余程の天才でない限り競技を楽しむ余裕などないだろう。

■試合を楽しめば優勝できる、という倒錯

にもかかわらず、「楽しんできます」と言うのはなぜか。

それはそんな競技をやったことのない私はわからないが、推測するに、そうしたものも、そのぎりぎりの肝要を究めれば或いは競技のその最中、瞬間的に自他も生死も超えた涅槃(ねはん)の境地に到達し、「たのしー」と思うことがあり、そうした瞬間を知った人が後日、その瞬間のことを思い出し、「緊張もプレッシャーもなくただただ競技を楽しみました。そしてふと我に返ると一位になっていました」と語ったのを聞き、他の競技者がこれを真似(まね)たのではないだろうか。

しかし、真似はしょせん真似で、いくら楽しもうとしても、実際にはなかなか楽しめず、苦しかったり嫌な思いをする。なんとなれば、諸条件が同じなら同じことをして同じ結果が出るだろう。けれども諸条件が違う。生まれ年も性格も体つきもなにからなにまでひとつとして同じところがない。だから同じことをやっても同じ結果が出るとは限らない。

なのに、「あの人は競技を楽しんで優勝した。ってことは楽しまないと優勝できないということで、ってことは優勝するためには楽しまなければならない、ってことで、それは逆に言うと楽しめば優勝できる、ってこと」と解釈する者がきわめて多いように思う。

■「楽しむこと=善」、「苦しむこと=悪」なのか

しかし当人が、逆に言うと、と言っているとおりそれは話が逆で、原因と結果を逆転させて考えてしまっている。と言うと、まるっきりのアホのように聞こえるがスポーツのみならず他の分野にも此の手の話が多く、既に認められた芸術家が日々やっていることを聞き出し、そっくりそのまま同じことをやれば自分も同じような芸術作品を作ることができる、と信じる芸術家志望の人は多いし、ビジネスの分野で成功した人の経営哲学を学び、その哲学を実践すれば自分も巨富を築き、なに不自由ない生活ができる、と信じる人が少なくない。

けれども言うようにそんなことはまずない。なぜならそれはその人の身の上にのみ起きたことで、同じことをやったとしても別の人の身の上にはまた別のことが起きるに決まっているからである。

それは動いている船の上から水中にものを落とした。慌てて船端に印を付け、確かにここから落ちた、と言って捜すようなことでもあって意味が無い。という風に間違った方法論を信じる人が多いので、この、「楽しまないと優勝できない。優勝するためには楽しまなければならない」という考えは、人々に強い印象を残し、他の分野にも広がっていった。

或いはことによるとこれもまた逆で、そもそも人々のなかに、楽しむこと=善、苦しむこと=悪、という考えが言語化されない形で既に漠然とあって、それが著名な人の口から言葉として出たので急速に広がったのかも知れない。

■「楽しむ」ことを過剰に求められる

とにかく理由はどうあれその考えが急速に広がったことには間違いがないようで、以前とは比べものにならないくらい、「楽しむ」という言葉を人が口にすることが多くなった。

例えば、以前であれば、旅行に出掛ける、となれば、大体は、「道中、お気を付けて」とか「水がかわるから腹をこわさないようにな」など無事と安全を祈る言葉を掛けたものだが、最近は大抵、「楽しんできてね」と言うようである。或いは、コンサートに出演するミュージシャンに声を掛ける場合なども、「がんばってね」と激励するのではなく、「楽しんできてね」と声を掛けることが多い。

もちろんこれは運動競技ではなくて音楽なのでそれでもよいように思えるがさにあらず、実は運動競技と同じような部分がこれにもあって、どういうことかというと、上手な人が楽しんで演奏すると、これを聞く人もそれに比例して楽しくなるのだが、あまり上手でない人が楽しんで演奏すると、これを聞く人はそれに反比例して苦しくなる。

だからほどほどに楽しんでくれればよいし、どちらかというと苦しんでやってくれた方が聞く方としては少しは楽なのだけれども、先ほど申し上げた、楽しむこと=善、苦しむこと=悪という考えが染みこんでしまっているので、ここを先途として楽しんで演奏し、聴衆は塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになってしまうのである。

■楽しまないと敗者、という強迫観念

そしてその考えが広がった結果、人は人生もまた楽しまなければならないと、強迫的観念を抱くに至り、それはやがて、人生を楽しんだ者=勝者、人生を楽しまなかった者=敗者、という考えになり、人は競って人生を楽しもうとし、また、インターネットに写真や動画を上呈することによってそれを他に訴える・主張するようになり、それがまた強迫的な観念を亢進(こうしん)せしめた。

しかしこれがひとつの欺瞞(ぎまん)であるのは間違いなく、なんとなれば本当の楽しさのただ中にあるとき、人は、自分はいまどれほど楽しいか? と考えることはないし、これを記録して証拠を残そうとも思わないはずだし、そんな楽しみは求めて、かつまた、金を払って得られるものではなく、不意に予告なく訪れるものだからである。

しかるにこうして、楽しまないと敗者になる、という恐れから、貪欲に求められる楽しみはそのようなものではないのだが、一度、そう思ってしまうとなかなかそれを拭い去ることができない観念・思い込み、というのがいくつかあって、「人生は楽しいもの、楽しむべきもの」という考えはそのなかでもっとも強固なものであると言えるのかも知れない。なぜならそれは、勝ち負け、損得、という社会的動物としての生存戦略にかかわってくる問題であるからである。

■必要なのは認識改造

しかしそう考えたところで、いやさ、そう考えるからこそ、これを「人生は楽しくないもの」とする認識改造が必要で、なんとなれば、誤った認識に基づいて行動すれば当然の如くに敗北するからである。といって楽しいことを否定する必要はない。生きていれば楽しいこともあるだろう。

町田康『しらふで生きる 大酒飲みの決断』(幻冬舎)

しかし忘れてはならないのは、その瞬間は求めて得られるものではなく、不意に、偶然、訪れるものであり、また、楽しいことが起こるのと同じくらいの割合で苦しいことも起こるということで、つまり苦楽は均衡するということである。しかし楽しい時間は短く感じられ、また、人工的に楽しみを追い求めていると、楽しいことが楽しいと感じられなくなるし、苦しい時間は長く感じられるので、主観的には、人生は苦しいばかり、というのが実際のところなのである。

というと、そんなことを認めると人生があまりに惨めだ、と思い、やはり貪欲に楽しみを追い求めたい。限られた人生を有意義に生きたい、と仰る方がおられることと思う。しかしそれを乗り越えない限り、つまりその認識を改造しない限り、酒はやめられない。

■普通の人間→普通、人生は楽しくない

さてその方法は、というと既に申し上げたように、「自分は特別な人間ではない→つまり普通の人間→普通、人生は楽しい」から、「自分は特別な人間ではない→つまり普通の人間→普通、人生は楽しくない」の過程を何度も繰り返すより他ない。

なぜなら、ともすれば自分は他の人と違う自分である、ということが、普通の人間、という点をつい忘れさせてしまうからで、このエクササイズを繰り返し行うことが認識改造の第一歩であり、何度でもここに立ち戻ること、これがなによりも重要なのである。

----------

町田 康(まちだ ・ こう)
作家、ミュージシャン
1962年大阪府生まれ。町田町蔵の名で歌手活動を始め、1981年パンクバンド「INU」の『メシ喰うな!』でレコードデビュー。俳優としても活躍する。1996年、初の小説「くっすん大黒」を発表、同作は翌1997年Bunkamuraドゥマゴ文学賞・野間文芸新人賞を受賞した。以降、2000年『きれぎれ』で芥川賞、2001年詩集『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、2002年『権現の踊り子』で川端康成文学賞、2005年『告白』で谷崎潤一郎賞、2008年『宿屋めぐり』で野間文芸賞を受賞。他に『夫婦茶碗』『浄土』『ギケイキ』『湖畔の愛』『ホサナ』『スピンク日記』『餓鬼道巡行』『リフォームの爆発』など著書多数。

----------

(作家、ミュージシャン 町田 康)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください