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幼保無償化の「便乗値上げ」に怒るのは筋違いだ

プレジデントオンライン / 2019年11月26日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/clumpner

今年10月から始まった幼児教育と保育の無償化に合わせて、助成金を目当てに利用料を引き上げる「便乗値上げ」の動きがある。大阪府立大学の吉田直哉准教授は「値上げがあっても保護者の負担は増えない。便乗値上げに国が不快感を示すのは間違っている」という――。

■待機児童は保育の「量」の問題

10月1日、「幼保無償化」が施行されたとの報道が、列島を駆け巡った。現在、就学前の子どもを育てている保護者にとっては「福音」とも受けとめられる一方で、子育ての「当事者」でない多くの国民にとっては、「なぜ、今なのか」という唐突な印象を抱かせたニュースではなかっただろうか。このように、今回の「無償化」が、国民にさまざまな感想を抱かせたとしたら、それは、幼児教育・保育が抱える「問題」に対する国民それぞれの認識の焦点が多様だからである。

2010年代以降、相次ぐ国政選挙の中で、主要政党が子育て施策、保育政策を選挙公約の中に明示することが常態化した。その施策とは、第一に「待機児童」対策であった。この点について、主要政党間で大きな見解の相違は見られず、超党派的な暗黙の合意が成立しているように思われる。しかし、この「待機児童」問題というのは、都市部特有の現象であり、そこで「待機」させられているのは0歳から2歳の低年齢児である。「待機児童」問題とは、「都市部における、低年齢児保育の受け皿を拡大せよ」という「保育の量の拡大」への世論からの圧力に、政治がどこまで応えられるか、という問題だったのである。

■無償化は「保育の質」にアプローチする

それに対して、今回の「無償化」は、「待機児童」問題の頻発する低年齢児に関しては、住民税非課税世帯、つまり低所得層への無償化にとどまっている。ほぼ「無償化」されたのは、3歳から5歳までの高年齢児に対する、保育所、幼稚園、認定こども園における保護者負担分であった。当然のことながら、「無償化」対象は都市部には限定されていない。つまり、「無償化」は、「待機児童」対策として打ち出されたものではないのである。その「無償化」に、消費税増税分の税収など7000億円以上の公金を充当するという。

つまり、「無償化」の背景には、「待機児童」問題という、「保育の量を拡大せよ」という保育の「量」に関する議論とは別の文脈があるということである。その文脈とは何か。ひとことで言えば、保育の「質」に関する議論という文脈である。「待機児童」という、イメージしやすく世論の関心を集めやすい社会問題の影に隠れ、子育ての当事者、保育の当事者以外にはめったに議論されることのなかった文脈だ。

■安全性や快適さは「カネがなければ高められない」

保育が、福祉・教育の一部をなす対人サービス業の提供である以上、「質」が議論されうる。ところが、保育の「質」の高さとは何か、というのは、一面的には語れない。私たちにとってイメージしやすい「質」の高さは、例えば、保育士が子どもに愛情を持って丁寧に接するというようなものだろう。だが、このような「プロセス(過程)の質」以外の「質」がある。

その一つが、「ストラクチャー(構造)の質」である。「ストラクチャーの質」とは、例えば、子どもの発達を促しやすい遊具・教材があること、保育室・園庭の適切な広さ・安全性・使用しやすさ・快適さ、保育士の学歴・知識・技能の高さなどが含まれる。つまり、保育士の個人的な努力だけではどうしようもない質が、「ストラクチャー(構造)の質」である。端的に言ってしまえば、「カネが無ければ高められない」質である。

今回の「無償化」は、保護者負担分を、国・地方自治体が肩代わりするということであり、当たり前のことながら、決して、それによって保育に関するコストがゼロになるわけではない。

■これまでも保育には公金が使われてきた

「無償化」を契機として、幼稚園や認可外保育施設で保育費用の「便乗値上げ」が行われていることが報じられた。厚生労働省と文部科学省は、少なくとも、全国33施設で起きていたと発表している。つまり、保護者負担額がゼロになる範囲内で、保育所・幼稚園・認定こども園などの保育施設が、保育費用を「値上げ」した(つまり、「値上げ」分を、保護者にではなく、国・地方自治体に請求した)というのである。

むろん、このこと自体は違法ではない。ところが、この「便乗値上げ」が、「無償化」で恩恵を受けるはずの保護者の反発を引き起こしているという。つまり、「何のための値上げなのか」「値上げをした分がどのように使われるのか」という、保護者の疑問、もっと言えば不信感をかき立てる事例が全国で報告されているのである。

今回の「無償化」は、全く図らずも、「保育のコストは、保護者による負担分だけではまかないきれない」という当然の事実を、白日の下に晒すことになった。「無償化」以前も、保護者の負担分(保育料と呼ぶ)以外にも、公金は注入されてきた。

例えば、東京都23区では、1日当たり11時間の保育を必要とする乳児(0歳児)の公定価格(法令上基準とされる必要経費の月額)は18万6000円ほどである。保護者の支払う保育料の月額は収入によって変動するが、世帯年収が800万円の場合、3万円ほどである。となると、都内の認可保育所が1カ月間、1人の乳児を保育した場合、そこには15万円以上の公金が投入されているということである。保護者ですら意識的でなかったこの事実を、子育て当事者意識のない国民が、どれほど知ってきたか。

■「便乗値上げ」という違和感の正体

つまり、保育は、「無償化」されようがされまいが、公金が注入されてきた「公的事業」なのである。それを維持しているのは、他ならぬ私たち納税者としての国民である。自らが納税者として維持している公的事業が、どれだけのカネを、どのような目的に使い、その結果、どれだけの社会的利益・効果を生み出したのか。知りたいし、知らされるべきであるというのが、財政民主主義の主体としての国民のまっとうな感覚であろう。

「便乗値上げではないのか」という保護者の違和感は、公金の投入先である保育施設が、自らの事業の計画とその結果、つまり、「値上げ」された分だけ、保育の「質」が高まるのかについて、十分に説明責任を果たしえていない、という不信感の表れと言えるのではないか。現状は、確かにその「不信感」は、子育てに関する当事者意識を持つ「保護者」において局地的に見られるにすぎないが、これが今後も局地的現象にとどまり続けるとは考えにくい。

■教育への公的資金の投入が少ない日本

OECD(経済協力開発機構)などの国際機関は、日本の教育費用が主に家庭によって担われてきたこと、教育への公的資金の投入が極めて少ないことを指摘し続けてきた。2011年の日本の就学前教育段階における公財政教育支出の対GDP比は、OECD加盟国中、最下位であった。日本においては、教育は、各「家庭」において行われる「私的」な行為であり、「公的介入」の必要性は低い、それゆえ公金を投入する必要はないと考えられてきたのである。つまり、教育は「政治」ではない、と考えられてきたのだ。

今回の「無償化」は、就学前教育の費用負担における国・地方自治体の責任と役割を明確化したという点で、「子育ては、親(だけ)がするものである」という日本人の子育て常識を、「子育てと、子育てへの支援は、国民が共同して運営・維持するべき公的事業である」とする共通認識へと転換させるターニングポイントを画する。

OECDは、2000年代に入り、教育のうち特に就学前教育、つまり乳幼児期の教育への投資が、数十年後の社会的便益を生み出すというコストパフォーマンスの良さを強調している。手厚い就学前教育、つまり「質」の高い保育への投資が、それを受けた子どもに、数十年にわたって、社会政策という観点から見ればポジティブな影響を与え続けることが、長期的な「ランダム化比較試験」に基づくエビデンスと共に、OECDの報告書で示されている。

■「手厚い保育」の効果は数十年続く

アメリカの経済学者ジェームズ・ヘックマンがしばしば言及し、日本でもさかんに紹介される就学前教育の効果の追跡調査のエビデンスとして、「ペリー就学前プロジェクト」や「アベセダリアンプロジェクト」がある。質の高い就学前教育を受けた子どもたちと、受けなかった子どもたちのその後を調査したものである。これらの「質」の高い就学前教育の子どもに対するプラスの効果は、その後数十年にわたって持続しているという。その就学前教育を受けた子どもの群は、受けなかった子どもの群と比較して、学歴が高く、持ち家率が高く、生活保護受給率が低く、逮捕率が低かったという。

そして、そのようなエビデンスが、各国の保育政策を、就学前教育、保育の「質」の充実に注力させる説得性の強い材料となっている。就学前の子どもへの手厚い保育は、その子どもが自らのライフコースを切り開いていくにあたって有益な「社会情動的スキル」、つまり多様な他者と良好な関係を構築し協同的な仕事ができるスキル(日本で「コミュニケーション力」と言われているものに相当する)や、自分自身の状態を客観的に認識し、感情をコントロールし、意欲を維持できるスキルなどを獲得するのに有益だとする知見が示されている。

「子育ては、子どもの親だけが責任を持ってすればよいし、するべきである」というのは、育児を私的行為・私事なのだとする認識だ。これを乗り越え、子育てと子育て支援は、多額の公金を投入し、納税者が共同的に支え、その実施と結果に関心を持ち続ける事業であるという、「育児=公的事業」観への転換の起爆剤になりうるのが、今回の「無償化」である。

■「質の高い保育」で社会全体が得をする

育児を私的行為、私事であるとしている限り、保育は家庭で行われている育児の延長にすぎず、保育士は単なる親替わりにほかならないと見なされつづける。しかし、「質」の高い保育は、高度な知識・技能を有するプロフェッショナルである「質」の高い保育士・教師によって、そして「質」の高い施設環境でこそ可能なのである。そのような保育は、親による子育てとは別の意味を持つ、高度に専門化されたプロジェクトであり、それを運営・維持するためには、公金による下支えが不可欠である。家計負担だけに頼るわけにはいかないのである。

家計負担だけに依存すれば、豊かな家庭に生まれた子どもは「質」の高い保育を受けられるが、貧しい家庭に生まれた子どもは「質」の低い保育を受けざるをえなくなるか、あるいは保育そのものから排除されるか、のいずれかになる。一部の子どもを、「質」の高い保育から排除したことのコストは、社会全体が負わなければならないことは、「ペリー就学前プロジェクト」の追跡結果が何より雄弁に物語っていよう。

■誰もが「育児や保育の当事者」

「公的事業としての子育て」を支える主権者として、私たち国民にはまず、保育に投入される公金のゆくえを追い、それが子どもたちにどのように還元されていくのか、その還元のされ方は適切なのか、つまり保育の「質」を高めるために資するのか、関心を向けていくことが求められる。子育てをしていようが、いまいが、である。

「無償化への便乗値上げ」問題の裏側には、事業者側に安易な「値上げ」を許す制度上の不備があり、その不備が、保育サービスの享受者、当事者としての保護者の怒りと不信を買った。ただ、ここまで述べてきたように、「質」の高い保育がもたらす便益を享受するのも、「質」の低い保育や保育からの排除がもたらすコストを負担するのも、日本社会の構成者としての国民全体である。

「便乗値上げ」について、保護者だけが怒っている、というのが現状である。しかし、「育児や保育は、社会共同の公的事業である」ということへの国民の認識が熟していけば、その「怒り」は決して保護者という当事者だけには留まらないだろう。私たち国民全てが、育児や保育の当事者であるし、未来もそうあり続けるはずだからである。ただ、そのことへの国民の意識は、いまだ十分に喚起されているとは言いがたい。私たち日本国民は、良い保育を喜び、そうでない保育に怒る、そういう成熟を遂げる画期を迎えている。

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吉田 直哉(よしだ・なおや)
大阪府立大学大学院准教授
1985年静岡県生まれ。東京大学教育学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程、神戸松蔭女子学院大学専任講師等を経て、2018年4月から現職。博士(教育学)。保育士。専攻は教育人間学、保育学。

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(大阪府立大学大学院准教授 吉田 直哉)

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