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「軍神」児玉源太郎の児玉神社が落ちぶれた理由

プレジデントオンライン / 2019年11月28日 11時15分

児玉神社(神奈川県藤沢市) - 画像=児玉神社HPより

江ノ島にある児玉神社が競売にかけられている。祀られているのは、日露戦争で名を馳せた軍人・児玉源太郎だ。同じく軍人を祀っている乃木神社(東京)は盛況だ。なぜ明暗が分かれたのか。宗教社会学者の岡本亮輔さんは「近代以降に新たに創建された神社は氏子を持たず、何らかの形で経済基盤を獲得しなければならない。児玉神社はそれに失敗したのだろう」と分析する――。

■神社が競売にかけられた

江ノ島(神奈川県藤沢市)にある神社が競売にかけられている。一般的な観光ルートからは少し外れた場所にある児玉神社だ。神社という宗教施設が競売にかけられることに驚く人は多いだろう。競売に至った経緯は不明だが、今年だけでも台風15号、19号で本殿の回廊が破損するなどの被害を受けており、その修繕だけでも多額の費用を要するはずだ。

しかし、より根本的なのは、今日、多くの神社が直面する経済基盤の問題ではないだろうか。児玉神社の祭神は、明治期の軍人・児玉源太郎(1852~1906)である。司馬遼太郎『坂の上の雲』などを通じて、近代日本が国運をかけて戦った日露戦争での児玉の活躍は知られている。児玉は参謀として戦略を立案し、奇跡的な勝利に貢献した。

日露戦争後間もなく児玉は亡くなるが、3回忌を機に墨田区向島に児玉神社が創建された。建立したのは政界のフィクサーで、作家・夢野久作の父としても知られる杉山茂丸(1864~1935)だ。親友を祀る神社を私邸の中に造り、一般にも公開したのである。

■戦後の混乱期には境内が「荒廃の極みに達し」た

そしてしばらく後、ゆかりのある江の島にも、児玉を祀る神社が造られた。この社が、現在競売にかけられているというわけだ。日露戦争当時、静養も兼ねて、児玉は毎週日曜日に江の島にこもっていたことから、この地に建てられた。社殿設計は築地本願寺などで知られる第一人者・伊東忠太である。児玉の13回忌(1918年)には芝の青松寺で法要が行われ、山縣有朋、寺内正毅、木戸幸一などが列席した。法要後、列席者は皆で新橋から列車に乗り、江の島の児玉神社に参拝している。

1935年の朝日新聞に、児玉神社で宮守を務める男性Y氏のインタビューが掲載されている。もともとY氏は朝日新聞創刊時の本社社員であったが、児玉との面識を得たことで、台湾総督の桂太郎、乃木希典の秘書官を務め、最終的には児玉本人にも仕えた。インタビュー当時、Y氏は71歳。本人によれば「もう社会の仕事をしても人に迷惑をかけるだけ」だという。だからこそ、神主ではないが宮守となり、児玉神社とその対岸に建てられた乃木将軍像に奉仕して余生を過ごすことに決めた、と語っている。

児玉神社は、傑出した軍人であった児玉をしのぶため、要人たちが奔走して建立・運営されていた。後藤新平らの働きかけで13回忌の時期に政府から公認神社とされている。しかし、新たに創建されたため、氏子という経済基盤を持たず、その意味ではプライベートな性格の強い神社だったと言える。同社のウェブサイトでは、第2次大戦後の「混乱期には境内が荒廃の極みに達し」たと記されている。

■乃木神社も同様の危機を味わった

明治期以降に創建され、軍人を祀った神社は同じような危機を味わっている。先に名前の出た乃木希典(1849~1912)を祀った神社も同様だが、現状には大きな違いがある。乃木のキャリアと神社の設立経緯から見てみよう。

写真=筆者提供
乃木神社 - 写真=筆者提供

乃木も児玉と同じく日露戦争の英雄であり、「聖将」として語られることすらある。しかし、こうしたイメージは乃木の死後、時間がたってから作られたものだ。児玉も乃木も、キャリア初期、西南戦争(1877年)に参戦している。だが、児玉が熊本城籠城戦で活躍したのに対し、乃木は致命的なミスを犯す。連隊を率いていたが西郷軍に急襲され、旗役が戦死したことで連隊旗を奪われてしまったのだ。後日、連隊旗は再授与されたが、乃木にとっては痛恨の記憶となった。

■乃木の殉死には当時否定的な見解もあった

その後、ドイツ留学を経て軍歴を積み重ね、日清戦争では旅団長、そして日露戦争では旅順要塞攻囲戦の司令官となる。だが、旅順要塞はコンクリートで固められ、江戸期には考えられないような火力で防備されていた。203高地争奪などロシア軍との死闘は制したが、未曾有の被害が出る。日露戦争後、靖国に祀られた中でもっとも多かったのは乃木の配下の将兵であったという。乃木の息子の勝典、保典も戦死し、乃木家の血筋も絶えてしまう。そして、よく知られているように、乃木は自らの最期として自死を選択した。1912年、明治天皇の大葬の夜、乃木は妻・静子にとどめを刺してから十字に切腹して果てたのだ。

しかし乃木の殉死は、当時、必ずしも美談として語られていただけではなかった。一部では、乃木の奇矯さの果ての出来事と見なされていたようだ。殉死の3日後、大隈重信が批判的な談話を出している。乃木は旅順攻撃で多くの兵士を殺し、息子も失った。そのため乃木には家庭の楽しみがなく、世の中に期待することも満足することもなく、寂しく自死を選んだのだろうというのだ。

さらに、乃木の自死は大学教授の辞職も引き起こす。大阪朝日新聞紙に、「乃木の死はいかにも芝居がかっており、好感が持てない」という京都帝国大学教授・谷本富(とめり)の談話が掲載されたのだ。谷本家には投石が行われ、結局、大学を辞職するに至った。谷本とほかの教員の学内での対立といった背景もあったようだが、乃木の死をめぐり、否定的な見解があったことがわかる。

■東京市長の呼びかけで邸宅に神社を建設

その後、聖将としての乃木のイメージを決定づけたのは教育だった。当時問題になったのは、乃木の自死を子供たちにどのように教えるかであった。法律では殉死はすでに禁止されており、乃木の死は容易に肯定できない。だが、古武士的性格を持ちつつドイツ留学もしていた乃木は、近代日本にとって理想的な人間像として教育界において読みかえられてゆく。そして殉死は、乃木の清廉と勇猛のあらわれとして語られるようになったのである。

写真=筆者提供
境内に置かれた「乃木大将と辻占売少年像」 - 写真=筆者提供

自死から2年後、乃木邸前の幽霊坂は乃木坂と呼ばれるようになっていた。そして、自死現場となった邸宅が一般に公開される。公開初日は朝から青山1丁目の停留所が混雑し、乃木邸の入り口では絵はがきや「乃木ずし」まで販売された。さらに、東京市長の呼びかけで邸内に神社が建設され、1923年に鎮座祭が行われている。

■神前結婚式ブームをうまくつかんだ

乃木神社は、第2次大戦の空襲で焼失してしまう。東京に立地していただけに、戦災は児玉神社よりも大きかっただろう。1962年になってようやく本殿や拝殿が復興され、その後は、氏子を持たないにもかかわらず、都心の神社として広く知られる存在になっている。児玉神社と何が違ったのか。

実は乃木神社は、早くから新しい経済基盤の獲得に乗り出していた。鎮座祭の翌1924年、乃木神社は結婚式場という神社にとっての新たな市場を掘り起こしていたのである。

この時期は、神前結婚式という新しい作法が急速に広まった時期であった。1900年5月、のちの大正天皇の婚礼が宮中で催された。これをきっかけに神前結婚式の形式整備と普及が始まった。日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で模擬婚礼が行われ、新郎新婦の三々九度を中心とする神前結婚式が発明されたのである。

現在では、神前結婚式は伝統的な格式ばったものというイメージがあるが、当時は合理的な形式とみなされていた。それまでの婚礼は自宅や料亭で行われ、宴会が数日間続くこともあった。一方、神前結婚式は費用が安く、時間も1時間程度で終わる。また椅子が導入されるなど、実践的な面でも合理的だった。そして、こうした合理性が軍人や官僚といった新たに勃興しつつあった都市のエリートたちに受け入れられたのである。

この時期の神前式人気ぶりを伝える読売新聞1926年1月14日の記事によれば、日比谷大神宮への挙式申し込みが300件を超え、断トツで多い。だが前年から結婚式を受け付け始めたばかりの乃木神社にも40件以上の申し込みがある。神田明神は20件であり、神社の規模を考えると、乃木神社が高い人気を誇っていたことがわかる。

■結婚式場を運営すれば良かったというわけでもない

乃木神社は、結婚式場として自社を宣伝するために新聞広告を出しているが、そこには以下のような文言が並ぶ。

質実厳粛
式料実費
乃木軍神御結婚ならびに長男勝典氏御誕生ノ聖地

さすがに殉死には触れていないが、現代の「ゼクシィ」的なものとは対極な乃木の生きざまが反映されたコピーになっている。しかしこの当時からの結婚式場としての利用が、現在まで続く乃木神社の活路になっているのである。

新たに創建された神社は、何らかの形で経済基盤を獲得しなければならない。児玉神社も旅順で使用された砲弾を飾るために奉賛を求めたり、児玉が台湾総督を務めた縁から中国語でも社殿改修のための寄付を募ったりしていたが、神社経営を大きく改善するまでには至らなかったようだ。

とはいえ、結婚式場を運営すれば良かったというわけでもない。2007年、青森県の弘前東照宮が多額の負債で境内の土地と建物が競売にかけられているが、原因はバブル末期に始めた結婚式場の運営の失敗であった。不変のように見える神社も、その時々の需要や立地を勘案し、神社イメージすら作り変えながら続いてきているのである。

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岡本 亮輔(おかもと・りょうすけ)
北海道大学大学院 准教授
1979年、東京生まれ。筑波大学大学院修了。博士(文学)。専攻は宗教学と観光社会学。著書に『聖地と祈りの宗教社会学』(春風社)、『聖地巡礼―世界遺産からアニメの舞台まで』(中公新書)、『江戸東京の聖地を歩く』(ちくま新書)、『宗教と社会のフロンティア』(共編著、勁草書房)、『聖地巡礼ツーリズム』(共編著、弘文堂)、『東アジア観光学』(共編著、亜紀書房)など。

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(北海道大学大学院 准教授 岡本 亮輔)

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