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世界企業P&Gが広告代理店を遠ざけた本当の訳

プレジデントオンライン / 2019年12月3日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/sharrocks

P&Gは1837年創業当時、ろうそくや石けんを作る地方の一企業だった。今では世界最大の消費財メーカーに成長し、その座を守り続けている。その理由は何か。経営学者のハワード・ユー教授は「P&Gは消費者心理を理解していなかったら、これらすべてのことは成し得なかっただろう」という——。

※本稿は、ハワード・ユー著・東方雅美訳『LEAP ディスラプションを味方につける絶対王者の5原則』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■「獣脂ろうそく」と「まつやに石けん」が主力商品だった

ウィリアム・プロクターとジェームズ・ギャンブルは事業のパートナーであるだけでなく、義理の兄弟でもあった。長年、プロクターとギャンブルは自社の石けんとろうそくをブランド化しようなどとは考えていなかった。

ハワード・ユー著・東方雅美訳『LEAP ディスラプションを味方につける絶対王者の5原則』(プレジデント社)

石けんや衣類、ペンキや香水などの日用品は、各地域でつくられ、販売されるものだった。よろず屋でも小型店でも、行商人であっても、商売といえば対面販売だけの時代だった。P&Gは製品にシンプルな、そのものずばりの名前を付けていた。たとえば、「獣脂ろうそく」「まつやに石けん」「ヤシ石けん」「ラード油」などだ。

石けんをつくるために、ギャンブルは朝4時半に工場に来て釜を火にかける。従業員には、肉のかけらや残り物の脂肪、木の灰などを集めて来させ、まず灰汁(あく)をつくる。その煮えたぎったどろどろした液体を木の型枠に流し込み、固まるまで4日から5日ほど置いておく。

ギャンブルも含めて、従業員の誰一人として、石けんの製造にどんな化学が作用しているのかほとんど理解していなかった。しかし正直なところ、製品の裏にある化学を理解したとしても、それで違いが生じるわけではなかった。

何より重要なのは原材料を手に入れることだ。都合がよいことに、シンシナティには優れた食肉加工産業があり、P&Gは動物の脂を安く大量に入手することができた。

■職人技から大量生産、オートメーションへ

大きな石けんの塊をカットするために、ギャンブルは工場の包装ラインに大きな台を設置し、そこに等間隔に張ったピアノ線を据えつけ、一度に石けんを長い板状に裁断できるようにした。

続いて、石けんは90度向きを変えられ、もう一度ピアノ線で裁断される。四角くなった石けんはフットプレス機に送られ、そこで会社のロゴが刻まれる。一度に60個の石けんが箱に入れられ、包装され、倉庫に送られる。

消費者向け製品をこのように工業的な生産方法でつくるのは、当時では珍しかった。2人とも伝統的な職人として訓練され、以前は仕事のほとんどを手作業で行っていた。また、この頃のアメリカの村々では、小規模な生産を行う作業場や工場が主体で、ヘンリー・フォードによる組み立てラインが登場するのはまだ何十年も先のことだった。

1870年代には、P&Gは16の生産施設を持つまでになり、その敷地面積は約6200平方メートル、従業員数は300人以上になっていた。より高度な設備も導入された。いままでにない大規模な設備をつくろうというP&Gの拡大戦略は、明らかに「初期の職人技から大量生産、そしてオートメーションへ」の展開である。

こうして、機械工学が頂点まで達した。何百人ものプロセス・エンジニアが日々工場内を行き来し、製品のフローをチェックしていた。当時、最も差し迫った懸念は、製品の品質と生産能力だった。

■業績回復のための広告を打つ

2代目が事業を引き継ぎ、ハーレー・トーマス・プロクターとジェームズ・ノリス・ギャンブルがトップに立ったとき、同社の主力事業の1つが苦戦していた。

P&Gの有名な「スター・キャンドル」が、ガス灯の出現で打撃を受けたうえに、続くトーマス・エジソンによる電球の登場で致命的な痛手を負ったのだ。キャンドル事業による収入減を埋め合わせるため、P&Gは石けん事業により一層力を入れなければならなくなった。

ハーレー・トーマスは何年ものあいだ、業績を回復させるためには優れた宣伝が不可欠だと、親戚や年長者の説得を試みてきた。そうしたなかで、ジェームズ・ギャンブルが改良してつくり上げた最高の石けんを、シンプルに「P&Gホワイトソープ」と名付けるという意思決定が下され、ハーレーは特に腹を立てた。

「いくつもの会社が『ホワイトソープ』をつくっている」と彼は非難した。「食品店にはホワイトソープがあふれていて、店側も顧客のほうも、特定のものを選ぶ理由がない」。1882年、ハーレーはついにファミリーを説得し、最初の広告キャンペーンに1万1000ドル(現在の価値にして約20万ドル)の予算を確保した。

■「石鹸純度99.44%」のインパクト

ハーレーはニューヨークの独立コンサルタントと組んで、同社製品の純度を科学的に訴えようとした。石けんの品質に関しては定まった定義がなかったが、コンサルタントは資料を調べて、石けんは脂肪酸とアルカリだけで構成されるべきであり、それ以外は「異質で不要な成分」であることを見出した。

このコンサルタントは、P&Gのホワイトソープは他の大手3社の製品と比べると不純物が最も少なく、わずか0.56%であることも示した。その構成は、遊離アルカリが0.11%、炭酸塩が0.28%、鉱物質が0.17%だった。天性のマーケティングの才能を備えていたハーレーは、全体からその不純物の割合を差し引いて、キャッチコピーを編み出した。

それは、「石鹸純度99.44%」というものだった。1882年12月21日に掲載された広告には、「洗濯石けんのアイボリーは、化粧石けん〔顔や体を洗うための石けん〕と同じ高い品質をすべて備えており、純度99.44%です」と書かれていた〔「ホワイトソープ」は「アイボリー」に改名された〕。

宗教雑誌の「インデペンデント」に掲載された広告では、デリケートな女性の手が大きな石けんをくぼみのところで持ち、それを簡単に2つに割ろうとする様子を描写していた。その広告は親しみやすいキャッチフレーズ「水に浮きます!(It floats!)」で締めくくられていた〔石けんが水に浮くと洗濯などの際に見失いにくい〕。

■広告費は2年で3倍、米最大級の広告主に

ハーレーのマーケティング活動は、最高のタイミングで行われた。1840年代と1850年代を通じて、新たな印刷方式である多色石版印刷が急速に広まったのだ。これは、水と油は混ざらないという原則を基に、アーティストがワックスクレヨンなどの油を使った画材で、石灰岩上に直接絵を描く手法だ。

この新しい印刷方法のおかげで、木版や銅板を彫るという、高価で時間のかかるプロセスが不要になった。その効果は目覚ましく、人目をひく大胆な色の広告を手頃な価格で掲載できるようになった。

このとき、新聞社のビジネスモデルも変化した。以前のように販売収入に頼るのではなく、新聞そのものはできるだけ安く売り、その分を広告収入からの利益で埋めるようになったのだ。発行部数が伸びると、それだけ広告主も多くの広告費を支払った。

ハーレーは積極的に攻め続け、P&Gは1886年の広告予算を1884年の3倍にあたる14万6000ドルとした。色鮮やかなクロモ石版印刷の広告が雑誌でも広まるなか、P&Gはアメリカ最大級の広告主となった。

1919年10月には、当時アメリカで最も影響力があり、広く読まれていた雑誌、「サタデー・イブニング・ポスト」に、カラーの全面広告を出した。一方で、P&Gは広告アイデアのコンテストまで開いた。ハーレーはあるとき、「アイボリーの新しく、奇抜で、よりよい使い方」に1000ドルの賞金を支払うというキャンペーンも行った。

■無秩序な広告からの脱皮

無秩序だった広告も、やがてはターゲットが1つに絞られていった。すなわち、白人で、主にプロテスタントの、郊外に住む人々だ。広告は19世紀後半のアメリカを理想化するようなものとなり、伝統的な家庭に女性と子どもと赤ちゃんがいて、純粋さと女性らしさ、家庭の尊重が中核的な価値観として据えられた。それは、急速な工業化が進む時代のなかで、安心感を映し出すものだった。

ハーレーは45歳で引退し、後任には、シンシナティ出身のヘイスティングス・L・フレンチが昇進し、販売部門全体を見ることになった。広告部門トップのハリー・W・ブラウンとともに、フレンチは山のようなデータを凝視し、どんなマーケティング活動がよい結果を出せるのか、そのパターンを見つけようとした。

2人は、マーケティングを厳密でたしかな活動として行おうとするならば、広告の効果も信頼できる方法で測定する必要があると信じていた。個人の知見は引き出されて、繰り返し実施できる方法に変換されなければならない。

■「消費者心理学」に目をつける

データに基づいた意思決定の4つのステップ、すなわち、データ収集、分析、洞察、行動が、P&Gにおける規範となった。そして、データを創出し、集め、パターンを見つけ、原因と結果を探るという広告への科学的なアプローチによって、消費者心理学という急成長中の新分野を活用できるようになった。

1904年1月号のアトランティック・マンスリー誌で、応用心理学者として初めて有名になったウォルター・D・スコットは「広告の心理学」と題する記事で次のように述べた。

「広告をうまく行うには、自社の顧客の心の仕組みを知る必要があり、その心にどう効果的に影響を及ぼすかを理解しなければならない。つまり、広告に心理学をどう応用するかを知る必要がある」

広告百科事典の『ファウラーズ・パブリシティ・エンサイクロペディア』は、通信販売のカタログを企画する人に向けて、「カタログの中身を10人程度の一般の人たちに見せて、その中身を理解してもらえるかどうか試す」ことを勧めた。

これは現代のマーケットリサーチの原始的な形といえる。当時はこうした考え方は革新的で、時代の先を行くものだった。P&Gは熱心にこれらに従った。

ナレッジ・ファネル

■広告代理店まかせにしなかったから得られた知見

注目すべきは、P&Gはマーケティング活動のほとんどを外部の広告代理店に外注しなかったことだ。当時の広告制作には、何人もの専門的なイラストレーターが関わった。製品を可能な限り忠実に描く人、製品が使われる理想的な環境、あるいは夢のような環境を描く人などだ。

有名なイラストレーターの名前があると、宣伝されている製品の格も上がった。しかも代理店が提供したのは、優れた絵と色使いだけではなかった。広告制作面で専門知識を提供し、メディアバイイング〔新聞や雑誌などの広告枠を買うこと〕でも知見を提供したのだ。

また、調査部門や情報部門を持つ代理店もあれば、社会人口学的な市場セグメンテーションを行う企業もあった。さらには、ニューヨークやロンドンにキッチンスタジオを開設し、そこで主婦たちが新製品を試す様子を見られるようにしている代理店もあった。

こうした流れに反して、P&Gは消費者心理学を自分たちでマスターしようと決意した。新たな知識分野を他人にアウトソースしようとは思わなかったのだ。そのなかで、自社で行ったアンケートによって、家事をしている女性はラジオ番組を楽しんでいるということが見えてきた。

1933年にP&Gは大きく賭けに出て、ラジオドラマを昼間に放送するという実験を行うことにした。放送したのは史上初のホームコメディだ。大恐慌に襲われた1930年代、競合企業が広告費を削減する一方で、P&Gはラジオの予算を増やした。

その効果はすぐに表れた。P&Gは他の石けんメーカーの業績をはるかに上回っただけでなく、その利益は1933年の250万ドルから、翌1934年には400万ドルに跳ね上がったのだ。ラジオによってP&Gのメッセージが多くの家庭に届けられ、幹部は新たなメディアを熟知し、ラジオ放送のまったく新しいジャンル、「ソープ・オペラ〔日中に放送される連続もののメロドラマ〕」を切り開いた。

■大量生産技術から消費者心理学へのLEAP(跳躍)

P&Gが消費者心理を理解していなかったら、これらすべてのことは成し得なかっただろう。消費者心理は同社の基盤となる2番目の知識分野となっていった。この分野へのシフトはゆっくりとしたものだったが、ここに重点が置かれていたことは、同社CEOの専門分野と経歴に最もよく表れていた。

アドバタイジング・エイジ誌は1956年にこう報じた。「P&Gが新しい社長を探すとき、同社は前社長が在籍していた部門で人材を探す。つまり、宣伝部門だ」。生産部門でも、営業部門でもないということだ。

P&Gが他の消費財メーカーとはかなり異なる形でイノベーションができたのも、この消費者心理学から得られた知識のおかげだった。同社は何十年にもわたって、新しいメディア、つまりラジオからカラーテレビ、ソーシャルメディアまでを使って広告を行う先駆者となった。

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ハワード・ユー IMD教授
スイス・ローザンヌのビジネススクールIMD教授。同スクールのエグゼクティブ向けコース、AMP(Advanced Management Program)ディレクター。2011年にハーバード・ビジネススクールにて博士号を取得。専門は戦略とイノベーション。

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(IMD教授 ハワード・ユー)

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