吉良邸討ち入りにかかった費用は8400万円
プレジデントオンライン / 2020年1月8日 11時15分
■忠義だけでは首は取れない
――「忠臣蔵」で知られる赤(あ)穂(こう)事件。元禄15年12月14日(1703年1月30日)に播磨国(はりまのくに)(現・兵庫県)赤穂藩浅野家の家臣47人が、主君・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の仇(あだ)として、江戸市中本所の吉良上野介(きらこうづけのすけ)屋敷に討ち入りを行い、首を取りました。
【山本】赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が遺した『預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)』(以下、『金銀請払帳』)という史料には、討ち入りまでのお金の出入りがその来歴や使途とともに記されています。赤穂藩が取り潰しになってからのお金の使い方をみていくと、浅野家再興のための仲介役を江戸に送り込むなど、内蔵助が当初、討ち入りではなくお家再興を目指していたのは明らかです。その道が途絶えたために、最終手段として討ち入りを選んだ。リーダーとして、優先順位を決めて実行していったわけです。
――山本先生はその読み解きをご著書『「忠臣蔵」の決算書』にまとめられたわけですが、『金銀請払帳』には討ち入りまでに使用された金額が約700両(1両=12万円換算で約8400万円)と記されています。小谷さんは会計の専門家として、どのような点に興味を持たれましたか。
【小谷】『金銀請払帳』は支出の記録であり、決算書のようなものです。現代のビジネスでは、まず予算があり、それに基づいて活動をして決算をします。しかし、討ち入りまでのお金の使い方には、計画性がなく、結果オーライの面が強かったように感じました。江戸時代には予算を組んで計画的にお金を使う習慣はなかったのでしょうか。
【山本】おっしゃる通り、幕府の財政自体に予算を組む習慣はありませんでした。もちろん、必要な金額はおおよそ把握していましたが足りなくなれば借りればいいという考え方で、予算内に収めるという発想はなかったようです。
――それは借金ということですか。
【山本】そうです。当時は米を換金する札差(ふださし)という仲介人がいましたが、高利貸しも営んでいました。武士はお金が足りなくなると、札差から借りて翌年の給料で返せばいいと考えていました。
【小谷】しかし、浅野家には取り潰しの沙汰が下りて、新たに資金調達をする手段がありません。約700両の軍資金はどのように捻出したのですか。
【山本】藩の財産を処分しました。そこから藩士へ退職金を支払ったり、藩の借金を返済したりして残ったお金です。また、浅野内匠頭の正室である瑤泉院(ようぜんいん)が嫁入りしたときに「化粧料」として持参したお金の一部も含まれています。もともとは化粧料の1000両を赤穂の塩田に貸し付けて、利子を私的な支出に使っていたのですが、赤穂を退去する際に内蔵助が元金を回収し、700両を瑤泉院に返納、残りの300両を預かりました。大雑把にいえば、軍資金約700両のうち半分弱が瑤泉院の化粧料、残りが藩の財産を処分した余り金となります。
■資金面で「全員での討ち入り」はできない状況だった
【小谷】元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかり、内匠頭は即日切腹となりました。それから1年4カ月後に行われた京都・円山会議で討ち入りを決めたわけですが、お金は相当減っていたのでしょうか。
【山本】百数十両残っているだけでした。同志が120人ほどいましたが、すでに全員を討ち入りに連れていくことはできない状況だったでしょう。
【小谷】なるほど。討ち入りの人数には予算的な制約もあったのですね。『金銀請払帳』を見ると、武具をあまり買っていないようですから、お金に余裕がなかったことがうかがえますね。
【山本】討ち入るにしては武具の購入費が少なすぎるように思われます。『金銀請払帳』は、討ち入り直前に内蔵助から瑤泉院に提出されたものですが、内蔵助の最後の手紙を見ると、瑤泉院の化粧料300両だけではなく、それを運用した利子収入も預かっていたと推察できます。しかし、利子収入については記録が残っていないので、金額がわかりません。利子という「隠し金」の使途が明らかになると、瑤泉院に累が及ぶ可能性があるため記録しなかったとしたら……。その隠し金は武具購入に回されたと私は推測します。
【小谷】討ち入りのような不確実性の高いプロジェクトにおいては、予算を計画管理するよりも、バッファーを持って管理するほうがよかったのでしょう。利子を隠し金というバッファーにしたのは、会計的にもうまいやり方ですね。このようにお金を上手に使いつつ、人の気持ちも掌握しなければいけなかった内蔵助は苦労が多かったでしょうね。
■討ち入りは「資金的なタイムリミット」でもあった
【山本】たとえば、江戸に詰めていた剣豪・堀部安兵衛(ほりべやすべえ)が「すぐに討ち入る」と意気込みましたが、内蔵助が2回にわたって人を送り、最後には自身まで出向いて思いとどまらせています。マネジメント的にもコスト的にも大変だったと思います。
【小谷】その際の旅費や滞在費はどのくらいかかったのでしょうか。
【山本】上方・江戸間の旅費は片道3両(約36万円)もかかりましたし、江戸滞在費も必要です。帰りの費用まで合わせれば100万円は超えていたでしょう。そのほかにも、内蔵助は軍資金を浪士の住まいの家賃補助などにも使っています。また、父に代わり、18歳で討ち入りに参加した矢頭右衛門七(やとうえもしち)には、個別に10両を渡して支援しています。もしこの資金がなければ、生活に苦しい浪士は計画から脱落していったでしょうし、途中で暴発する者も出てきたでしょう。
――討ち入りは、内匠頭の切腹から1年9カ月後に行われました。
【山本】資金的なタイムリミットでもあったでしょうね。『金銀請払帳』を見ると討ち入りのひと月前には資金がほぼ尽きてきます。不足分は、隠し金で賄ったと考えられますから。
【小谷】赤穂藩に求心力だけではなくお金がなければ、討ち入りという大プロジェクト自体がなかったかもしれません。
【山本】あとは内蔵助が自腹で支払った分もあるでしょう。
【小谷】そうですね。敵の目を欺くために使った遊興費は自分で出していたようですし。
【山本】内蔵助は1500石(約7000万円)の年収がありましたからそれなりの蓄えはあったはずです。ちなみに勘定方(かんじょうがた)として経理の実務を担当していた矢頭長助(やとうちょうすけ)の年収は200万~300万円程度でした。
■石田三成が出世したのは、算勘の能力があったから
――当時の武士の職種は、戦を担当する「番方(ばんかた)」と、行政や経営を担当する「役方(やくかた)」に分かれ、役方の中に会計を担当する勘定方があったという理解でよろしいですか。
【山本】そうです。計算が得意な勘定方が、使いすぎないように支出を管理していましたが、番方は従ってくれない。仕方なく、収入を増やす方法を考えていたのです。
――儒学者、軍学者であり、赤穂藩士の教育に深く携わった山鹿素行(やまがそこう)が「勘定のできない武士はでくのぼう」という言葉を遺していたようですが。
【山本】当時は家柄社会で、上級武士は「そろばん勘定などはいやしいこと」と考えていました。お金を扱っていたのは下級家臣でしたから、数字に強い人が多く登用されていました。当時の資料では「算勘」の能力と記されています。
【小谷】そろばんで勘定をする能力のことですね。当時は戦のない時代ですから、算勘に優れた人が重用される気もしますが。
【山本】やはり武士の世の中ですから、戦はなくても武道の練習をしているほうが上。勘定方は下に見られていたようです。とはいえ、大名であっても算勘の能力が欠かせなかったのは事実です。石田三成にしても出世したのは、算勘の能力があったからです。万人単位で兵を動かしたときにどれだけ米と味噌が必要で、それをどう運ぶか、計画を立てられるところが豊臣秀吉に気に入られて重用されたのです。ただ、世の中が安定して戦がなくなると、逆に算勘の能力の必要性が薄くなり、先祖に武功があった人が大きな顔をするようになっていったのです。
【小谷】戦がないから、命がけのお金のやりくりは必要なくなったのですね。
【山本】しかし、藩の財政を仕切るためには優秀な人材が必要です。能力の高い人を家老などに登用し、藩の財政再建を担当させることがあったのです。
――小谷さんは公認会計士として活躍されていますが、江戸時代にも「お金のスペシャリスト」がいたのですね。
【山本】元禄期には、算勘の能力だけでさまざまな藩を渡り歩く人がいました。勘定の能力があれば、一種の専門職としてあちこちの藩に仕官できたのです。
■内蔵助の下の「部長クラス」は半分以上も抜けてしまった
【小谷】組織の面では、番方と役方は対立構造にあったのでしょうか。
【山本】仮に役職を上級、中級、下級に分けたとすると、勘定などを行う役方の多くは下級です。中級以上は、基本的に番方です。その中で優秀な人が上級の町奉行や留守居役、勘定奉行になる。番方、役方というよりも、事務方として苦労している人とあまり苦労していない武士との対立はあったでしょうね。
【小谷】では、同じ役方の中でもキャリアとノンキャリアのような対立もあったのでしょうか。
【山本】身分制の時代なので、それは当然のことと思っていました。
【小谷】そう考えると当時の藩は、さまざまな立場の人が混然一体となって動いている地方自治体のような行政機関だったと考えられますね。
【山本】おもしろいのは、赤穂藩の場合、討ち入りした人は、番方の中にもいたし、役方のキャリアにもいたし、ノンキャリアにもいたことです。上層から下層までまんべんなくいました。
――会社経営に置き換えると、社員全体の意識が高くてすばらしい組織といえそうです。
【山本】そうですね。ただ、内蔵助は自分に次ぐポジションから多くの脱落者が出たことを残念に思っていたようです。内蔵助を役員とすれば、部長クラスが半分以上も抜けてしまいました。彼らはなまじ資産があるため、お家取り潰し後もやっていけたわけです。その分、課長や平社員クラスが「討ち入ります!」と言っていたのですね。
【小谷】さまざまな層が討ち入りに参加したのはよかったですね。何かを成し遂げるときには、人材の多様性が必要です。同じ層の人材ばかりが集まると、考え方にも偏りが生じます。その意味では、堀部安兵衛のような急進派をはじめ、さまざまなメンバーがいることでうまく態勢ができ、討ち入りに成功したのでしょうね。
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東京大学史料編纂所教授
東京大学文学部国史学科卒。著書『「忠臣蔵」の決算書』を原作とした映画「決算! 忠臣蔵」が2019年11月22日より全国の劇場で公開される(松竹配給)。
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公認会計士
1987年京都大学卒業後、旧三井銀行(現・三井住友銀行)入行。旧中央監査法人などを経て2000年、日本総合研究所入所。08年から同所リサーチ・コンサルティング部門主席研究員。
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(東京大学史料編纂所教授 山本 博文、公認会計士 小谷 和成 構成=向山 勇 撮影=岡村隆広 写真=AFLO)
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