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信長が革新的な発想を実行できた本当の理由

プレジデントオンライン / 2020年1月12日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kieferpix

■孤独で成功する男vs失敗する男

歴史の世界には「40年周期説」というものがあります。民族は40年周期で発展と衰退を繰り返しているというものです。

明治維新が起きる1868年を起点として日本は発展し、1905年には当時最強と呼ばれたロシア帝国に日露戦争で勝利し、近代日本における最高峰とも呼べる年を迎えました。それから40年後の45年に日本は太平洋戦争で惨敗し、すべてを失いました。

そこから明治維新のときと同じように、日本は発展していき、85年からはバブル経済に突入していきました。そして次の40年後には2025年を迎えます。「40年周期説」に従えば、今、日本は衰退への道を進んでいるのです。

そんな中でも、我々は生きていかなければなりません。たとえ生活レベルが落ちたとしても、日々の中で喜べることを見つける必要があります。

心の豊かさと物質的な豊かさは違います。心を豊かにし、毎日を豊かに生きるためには、孤独な時間をつくり、自らと対話する必要があると、私は考えています。孤独と向き合うことができる人間こそ、これからの時代を豊かに、幸せに生きていくことができるのではないでしょうか。

戦国時代、孤独にならざるをえなかった戦国武将から、そのヒントを学んでいきましょう。

▼織田信長
(1534~1582)今川義元を桶狭間の戦いで破り、歴史の表舞台に躍り出る。室町将軍の足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼしたのち、中国地方から関東地方にまたがる大勢力を築き上げるが、天下統一を目前に、本能寺で明智光秀によって討たれる。

■孤独の中で生まれた常識破りの発想

信長の孤独は、父親であり唯一の理解者であった信秀を失ったことから始まります。信長は父の葬儀で位牌に抹香を投げつけ、彼なりに父の死を悲しみましたが、そんな悲しみ方は理解されるはずもなく、周囲は彼を「尾張の大うつけ」と呼ぶようになりました。

それは親族も同様で、信秀の死後、信長の母は弟である信行を連れて家を出ていき、家督争いの殺し合いを行うほどのものでした。

ですが、桶狭間の戦いに始まり、鉄砲三段撃ち、楽市楽座など、常識破りの発想が生まれたのも周囲の人間の顔色を窺うことなく、自分が正しいと思ったことを行ったからです。また、そんな信長は無能なはずもなく、自らが周囲から理解されないことをわかったうえで、うつけと呼ばれるような振る舞いをしていたのではないでしょうか。

我々からすれば革新的な信長の発想は、当時の人々からすれば「非常識」なものでした。その最たるものが、金ヶ崎の戦いでの撤退行為です。

天下布武最後の障害となる朝倉家との戦闘中、同盟関係にあった浅井長政の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕した戦国史上有名な撤退戦です。

戦国時代の武将は、逃げることより玉砕することが名誉と考えられていました。もし、ほかの武将であれば、戦って死ぬことを考えたでしょう。しかし、信長はあっさりと一番恥ずかしい選択である逃亡を選んだのです。

当然ですが敵前逃亡したことに対する反発は多く、1度は信長を評価してきた人間であっても「なぜ死ななかった」「それでもおまえは大将なのか」などといった罵詈雑言を信長は浴びせられ、自分を認めてきた人間たちは、手のひらを返して離れていきました。

再び、信長は孤独となりましたが、もともと他者の評価を気にしない信長にとっては関係がありませんでした。

信長は家臣の「すぐに復讐戦を行うべきだ」という意見に左右されることなく、敵方である浅井家の切り崩しに始まり、勝つための時間を惜しむことなく着々と政略を進めました。勿論、時間がかかれば味方の不満は溜まりますが、それに急かされ、短慮な行動を起こすことはありませんでした。

そして、姉川の戦いで信長は勝利し、天下布武に王手をかけることができました。これは言うまでもなく、当時の価値観に流されることなく撤退という苦汁の判断を行い、生き延びたからこそ成しえたことです。

信長の強さは、自分のことを最後まで信じぬくことができたところ。孤独に徹し、ぶれない強さを得たとき、信長のような目覚ましい成果をあげることができるのかもしれません。

【信長のここに学べ!】自分が正しいと思ったことは、反対されても絶対に曲げない

▼明智光秀
(1528?~1582)織田家家臣として、金ヶ崎の戦いや比叡山焼き討ちで活躍する。その功績を認められ重臣として取り立てられる。のちに本能寺の変を起こし信長を討つが、中国大返しにより戻った羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで討たれる。

■孤独で紐解かれる本能寺の真相

本能寺の変で知られる明智光秀は、孤独と向き合うことができなかったために、破滅したと言っても過言ではありません。裏切りや殺し合いが日常だった戦国時代において、光秀は幸か不幸か本当の意味で、孤独になることができませんでした。

光秀は戦国時代の武将にしては珍しく側室をつくらず、正妻の煕子と細川ガラシャを含めた子どもたちに囲まれた家庭を持っていました。

ですがある日、若い頃より苦楽をともにした煕子を失い、その前後に、光秀自身も大病を患います。心身ともにボロボロとなった光秀は、これまでプラス思考で乗り越えられてきたこともマイナス思考となり、苦境を乗り越えることができなくなったのです。

そんな状態の光秀にとっては、信じられない出来事が起きました。大坂・本願寺の戦いを担当していた織田家の重鎮・佐久間信盛が、信長により高野山に追放され、さらに追い打ちをかけるように、光秀は九州戦線の指揮官となることが決まったのです。

九州の戦争が終われば、朝鮮や明へ行かされるかもしれない。さらに、佐久間信盛のように追放されるかもしれない、と光秀は不安になりました。

心の拠り所であり、つらい気持ちを共有できた煕子夫人が生きていた頃であれば、光秀もこの一連の出来事も違う見方ができたのではないでしょうか。

気持ちを共有する相手を失った光秀は、物事を悪いほうへと考え込むようになりました。それが本能寺の変へと続いていくのです。

本能寺の後も光秀の不幸は続きます。光秀の天下をかけた山崎の戦いで、配下の大名だった筒井順慶と、娘・ガラシャの夫である細川忠興に援軍要請を行いますが、彼らは光秀に味方しませんでした。光秀はそれを認めることができず何度も使者を送りました。孤独を知らなかった光秀は、孤立無援でも戦うと、覚悟を決めることができず、秀吉の前に敗れてしまいます。

晩年の光秀は、何度も孤独と向き合う機会はありましたが、家族に依存しすぎていたため、強さを持つことができませんでした。本当の意味で孤独を知り、自分と向き合うことができていれば、マイナス思考になり始めたとき、危うい思考になっている自分を客観視してブレーキをかけられたはずです。

現代人にも家族を心の拠り所にする人は多いですが、家族に依存しすぎると、光秀のようになってしまう可能性があります。家族と過ごす公の時間も大切かもしれませんが、自分自身のために時間をつくり、己を顧みる心のゆとりを持つことも大切なことなのではないでしょうか。

【光秀のここに学べ!】家族と同様に、自分とも会話せよ!

▼徳川家康
(1542~1616)今川義元が織田信長に討たれたことをきっかけに、幼少期からの人質生活を脱する。信長の盟友として勢力を拡大するも、後に豊臣秀吉に臣従。秀吉の死後は関ケ原の戦いに勝利し、江戸に幕府を開く。以後、天下に泰平の日々をもたらす。

■家康は怒りっぽかった!?

家康は『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』の歌にあるように、我慢強いイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。しかし一番家康の気質に近いのは『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』です。

家康が生まれた松平家(のちの徳川家)は激昂の家系でした。家康の祖父である松平清康、父親の松平広忠はともに、激昂して暴言を吐いたことが原因で家臣団に殺されました。家康の長男・信康も家臣に対しての罵詈雑言が原因で信長に切腹を命じられています。

そんな血筋の家康が『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』と歌われるほど我慢強い天下人になっていったルーツは、弱小大名だった松平家の人質として織田家、今川家をたらい回しにされてきた12年間に及ぶ幼少期の人質生活にあります。

味方のはずの家臣からも「何の能力もないただの子供」と見下され、のけものにされていた状況下で、何もできない自分が生き残るためにはどうしたらいいのかと考え抜き、たどり着いた結論が『我慢』でした。

我慢を覚えた家康は、怒りをコントロールして様々な人を許したのです。三河の一向一揆では家臣の半分が離反しましたが、すべてを不問としたのです。その結果、人質時代を知る信長からも信頼厚い同盟国の当主とみられるまで成長しました。

しかし、ときには抑えがたい徳川の血が爆発するときもありました。

三方ケ原の合戦で、武田信玄が侵攻してきたとき、家康の浜松城を無視して、上方の織田軍と決戦するという噂が流れました。周りは織田軍と挟み撃ちできると安堵したのですが、家康は自らが無視されたことに激昂。周囲の反対を押し切り突撃を行ったのです。

家康は、桶狭間の戦いを真似ようとしたのでした。しかし、家康は信長ではなく、相手も勝利することを確信し、慢心していた今川義元ではありません。

当時無敵と呼ばれた武田信玄に対して頭に血が上った状態で組み立てた作戦で挑み、家康は大敗を喫します。

このとき家康はわざわざ絵師を呼び、自分の惨めな姿を描かせました。その『しかみ像』を家康は激昂しそうになるたびに眺め、怒れる自分を抑えようとしていたのではないでしょうか。

そして関ケ原の戦いでは「大垣城を無視して佐和山城を攻める」と噂を流し、石田三成を野戦へ引きずり込み、勝利を収めました。これは、かつて家康が信玄にされたことと全く同じです。

自分の欠点や敗北を認めるためには、自分と向き合う時間が必要です。家康が天下人となれたのは、自らの恥部と向き合ったからにほかなりません。

【家康のここに学べ!】自らの欠点を認め、欠点と対峙する孤独な時間を持て!

▼黒田官兵衛
(1547~1604)竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の軍師として知られ、秀吉の天下統一のために手腕を振るう。小田原征伐では北条氏政・氏直父子を小田原城に入って説得し、無血開城に成功。秀吉の天下統一を完成させた。

■天才軍師に訪れた転機とは

ある日突然、孤独な境遇に追い込まれたら、あなたはどうしますか。

そんな境遇を語るうえで欠かすことができないのが、豊臣秀吉が天下人への道を大きく踏み出す第一歩となった中国大返しの立役者、黒田官兵衛です。

黒田官兵衛は、非常に賢く口がうまい人間で、小寺家に仕えていた頃には口先だけで、主君・小寺政職を織田家の傘下に入るよう説得したほどでした。

若くして頭角を現していた官兵衛は、自信家で自惚れがありましたが、その自惚れが官兵衛を窮地に招きます。

織田家司令官の荒木村重が謀反を起こしたときです。官兵衛は「自分の弁舌をもってすれば、この謀反もすぐに解決する」と交渉に向かいますが、話し合いは決裂。官兵衛は荒木方によって、牢獄に囚われることとなります。

いつ出られるかもわからない、今日処刑されるかもしれない牢獄のなかで官兵衛は否が応でも孤独と向き合うこととなりました。しかも、囚われた牢獄は、湿地帯近くの劣悪な環境で、これが原因となり官兵衛は皮膚病や、片足と目に障害を負うこととなりました。

常人であれば、武士らしく死のうとするでしょう。しかし、官兵衛は武器を取り上げられており、自刃もできない。ならば生き恥を晒してでも生き抜くと決意をしたのです。

生き残るため官兵衛は、牢番と交渉を行います。荒木村重のときのような言葉だけの交渉ではありません。誠心誠意の交流を行い、牢番を懐柔することができたのです。

これをきっかけに官兵衛は、駆け引きばかりを行ってきた自身を反省して、天下泰平のためには、何をすべきか考えるようになったのです。

その後、官兵衛は秀吉の軍師として、すぐれた手腕を発揮していきます。特に毛利家の拠点である備中高松城攻めで行った交渉は見事でした。

水攻めを行っている最中に、本能寺の変が起きたのです。

主君、秀吉に敵討ちを成し遂げてもらうため、急いで毛利家と和睦する必要がある。しかし、信長が討たれたことを知られれば、毛利が攻めてくるかもしれない。絶対に失敗が許されない状況下で、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊と交渉を行いました。官兵衛は、牢番と行ったときのような真摯さを見せ、和睦を成立させました。見事中国大返しを成功させたのです。

官兵衛は、劣悪な牢獄のなかで孤独を受け入れ、真摯さという交渉の極意を手に入れました。牢獄のなかで自暴自棄となり、腐るのは簡単です。しかし、官兵衛が腐っていたら、後の豊臣政権は存在しませんでした。官兵衛の正しさは歴史が証明したといえます。

【官兵衛のここに学べ!】逆境は、新たな強さを身につける好機!

▼大友宗麟
(1530~1587)二階崩れの変をきっかけに大友家当主となる。フランシスコ・ザビエルを通じてキリスト教を知り、後に洗礼を受けた。九州6カ国を支配していたが、耳川の戦いで島津義久に敗北。晩年は秀吉傘下の一大名となった。

■モチベーションを保てなかった武将

孤独というものは、外的要因に起因するもの。それを打ち負かすため、何をすべきか独り考えることによって、己を高めることができます。例えば、信長は常に新たな敵を求め、打ち負かすためには何が必要かを考えることで、モチベーションを保っていましたが、モチベーションが保てなくなったとき、人はどうなるのでしょうか。

その最たる例が、大友宗麟です。宗麟は織田信長が母親とそうであったように、父親である大友義鑑と不仲でした。父は跡継ぎに宗麟ではなく、側室の子である塩市丸を選ぶほど冷え切った関係。これを不服とした大友家の家臣たちが起こした二階崩れの変によって、どうにか宗麟は大友家の当主となることができましたが、父親から認められることはありませんでした。

そんな宗麟は、父親が国内の内紛を収束させることしかできなかった現状に甘んじることなく、九州統一の野望を胸に積極的な領土拡大を行いました。全盛期には、九州9カ国のうち6カ国を支配し、「九州の覇王」と呼ばれるようになっていたのです。

そして、宿敵となる毛利元就が北九州に侵攻してくるとそれを阻止するべく、長期にわたる戦いを行いましたが、強敵・元就が没し、毛利家が東に意識を向けるようになると、宗麟はモチベーションを失い、転落が始まります。

宗麟の心のなかには、「幼少期は父に愛されず、元服(成人)してからは戦に明け暮れる日々で、つらかった」という気持ちがあり、伝来したばかりのキリスト教にすがろうとしたのです。キリスト教は、宗麟のつらさに対して、明確な答えを与えてくれました。

宗麟はキリスト教にのめり込んでいき、九州統一の野望はやがて、宮崎の日向にキリシタン王国を建国することへと変わっていったのです。

キリスト教を優遇するころには周囲の心は宗麟のもとを離れており、九州統一に王手をかけた耳川の戦いで島津義久にまさかの敗戦。支配していた6カ国のうち5カ国も島津家に奪われ、九州の覇王と呼ばれていた頃の面影もなく秀吉に助けを求め、秀吉傘下の一大名として人生を終えます。

自己との対話は、内なる自分を敵に置き換えて自分を叱咤激励することです。しかし、宗麟は神に救いを求めたことで、いつか神が救ってくれると自分を甘やかすようになったのでしょう。

張り詰めた弓が折れやすいように、ときには緩めるため自分を甘やかすことも大切です。しかし、自分自身を顧みるときには、孤独に徹して、厳しい評価をする必要があると肝に銘じるべきです。強弱ではない、孤独の楽しさを知る感覚が重要です。

【宗麟のここに学べ!】救いは自らのなかにある。孤独を恐れず、楽しむべし

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加来 耕三(かく・こうぞう)
歴史家・作家
奈良大学文学部研究員を経て、大学・企業の講師を務めながら著作活動を行う。著書『日本史に学ぶ一流の気くばり』『前島密の構想力』のほか多数。剣術にも明るく、タイ捨流の免許皆伝を許されている。

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(歴史家・作家 加来 耕三 構成=網田和志)

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