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地方の繁華街になぜか「パクリ銀座」が多い背景

プレジデントオンライン / 2019年12月12日 9時15分

写真=AFP/時事通信フォト

かつて銀貨鋳造所があった東京・銀座の名を冠した地名は全国に約20カ所ある。銀が採れない場所にもなぜ「銀座」は広まったのか。地図研究家の今尾恵介氏は「銀座は戦前からすでに『ブランド地名』だった。町で1番の繁華街に名付けることで『あやかり銀座』は増えていった」と指摘する――。

※本稿は、今尾恵介『地名崩壊』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■銀座の正式名称は「新両替町」だった

ブランド地名とは何だろうか。端的には「不動産が高く売れる地名」であり、また「観光客を誘致できる地名」であろう。具体的には商業地では東京の銀座であり、住宅地なら同じく23区内では田園調布や成城、市名で言えば兵庫県芦屋市あたりも知られている。リゾートであれば軽井沢といったところだろうか。勝手な印象で「定義」するよりも、人気のある地名ゆえにエリアが拡大する傾向をもつブランド地名の動向を把握することにより、その実態を浮かび上がらせてみようと思う。

まずは東京の銀座である。周知の通り江戸幕府の銀貨鋳造所である「銀座」が置かれていたことに由来するが、慶長17(1612)年に駿府(現静岡市)から銀座を江戸に移し、座人の居宅と鋳造所のために京橋の南側4町が与えられたのが始まりだ。この4町は現在の銀座一丁目から四丁目のうち中央通りに面した部分で、このあたりの街区は南北幅がちょうど1町で設計されているので、その4ブロック分であった。今もこの南北の寸法は基本的に変わっていない。

寛政12(1800)年に鋳造所が日本橋蛎殻(かきがら)町に移転してからは銀座の所在地ではなくなったが、そもそも江戸期の「銀座」は通称で、正式には新両替町と称した。これが正式な町名として銀座に決まるのは明治2(1869)年のことで、当初は拝領当時と同じエリアの一丁目から四丁目までであった。

■商店街が生まれ、新聞社が入り、流行の街に

そもそも銀座通りは日本橋から続く天下の大道・東海道の一部にあたり、明治13(1880)年頃には柳並木が整えられ、同15年には市街の軌道交通機関としては日本で初めての東京馬車鉄道が走り始めている。明治5(1872)年2月の丸ノ内から銀座を経て築地に至る大火の教訓から道路が拡張され、その両側に西欧風の「銀座煉瓦街」ができた。

気候風土に合わず使い勝手が悪かったらしく、徐々に改築などで洋風建築は消えていくが、この地には洋食屋、パン屋、時計商、洋服店など文明開化の時代にふさわしい新しい店舗が進出し、魅力的な商店街に変貌していく。同時にいくつもの新聞社が社屋を構えたことにより、その広告を扱う代理店、印刷所なども集まり、進取の気性に富む独特な地域となった。すでに大正の前半には魅力的な店を巡って歩く「銀ブラ」の言葉が用いられるようになる。

東京市中心部の多くを焼失させた関東大震災では銀座も大きなダメージを受けるが復興も早く、大正13(1924)年に松坂屋、同14年に松屋、昭和5(1930)年に三越と百貨店が相次いで進出、地価の高さもこの頃には日本橋を抜いて全国一となった。このようにして戦前にはすでにブランド地名としての銀座が確立していたのである。

■震災復興で「銀座エリア」は3倍近くに拡張

その震災復興事業では銀座が早速拡張された。この頃は復興事業に伴う町名地番整理事業が東京市内の都心部を中心に進められており、それまで四丁目までだった銀座に、昭和5年から新たに五丁目~八丁目が加わった。

しかも銀座通りの東西の狭い範囲、具体的には西は1ブロック、東は2ブロックのみ(四丁目のみ1ブロック)だったものが東西すべて2ブロックずつ、新たな五丁目以南にもそれが適用されたため、尾張町一~二丁目・三十間堀一~二丁目・南紺屋町・元数寄屋町・弓町・鎗屋町・南鍋町二丁目・出雲町・竹川町などが消えて銀座になった。この結果、震災前の旧銀座エリアの約7.5ヘクタールは一気に3倍近い21.0ヘクタールに広がっている。

それだけでなく、この時に銀座の西側は「銀座西」という新たな町名が創設され、南紺屋町・弓町・新肴町・弥左衛門町・西紺屋町・元数寄屋町一~三丁目・滝山町・惣十郎町・南鍋町一丁目・南佐柄木町・加賀町・日吉町・八官町・丸屋町・山城町・山下町の一部ないし全部が消えた。多くは江戸時代以来の歴史的町名なので、実に惜しいことをした。さすがに広域すぎて「銀座」には入れてもらえなかったのだろうか。

■「あやかり銀座」の先駆けとなった戸越銀座商店街

『角川日本地名大辞典』DVD‐ROM版の「銀座」の項によれば、昭和5(1930)年の銀座大拡張あたりから「モダンな繁華街の代表として有名になり、各地に銀座名を付した商店街が多くなった。ちなみに現在全国の銀座数は500余あるという」としている(昭和53年発行『角川日本地名大辞典 13東京都』の記述と同じ)。

東京では品川区の戸越銀座商店街が「関東有数の長さを持つ商店街」として有名だ。東急池上線に戸越銀座駅もあるが、そもそも大正後半から人口が急増していた当地に商店が集まりつつあった時、関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京の銀座で出た大量の煉瓦の瓦礫を引き取って水はけの悪かった地面に敷き詰めた。この縁に加えて銀座の繁栄にあやかろうとして戸越銀座が命名されたというが、町名はあくまで戸越であった。

全国各地に叢生(そうせい)したという多数の「銀座」の中でも正式な町名となったケースはそれほど多くない。実は銀貨鋳造所にちなむ銀座は京都市伏見区にもあって、こちらは東京以外で唯一現存するホンモノの銀座であるが、それ以外の「あやかり銀座」は、「銀座町」や「銀座本町」「銀座北」なども含めた数でいえば『角川日本地名大辞典』によれば18にのぼる。

■山口県に有楽町、新宿通、代々木通がある謎

このうち最も古いのは長野県飯田市銀座で、昭和27(1952)年に誕生した。元は飯田市大字飯田のうちで、通称地名としては昭和5年から見えるとのことで、戦後に正式町名になっている。『角川日本地名大辞典』では「旧飯田町の中で最大の繁華街を形成した。正式町名となって以降も各種商店が軒を並べ、盛況な町筋として発展した」としている。やはり町一番の目抜き通りに「銀座の称号」は与えられるのだろう。

次が栃木県鹿沼市銀座で、同29年から。「繁華街であったので銀座と名付けられた」とする。同32年には愛知県半田市に銀座本町が誕生している。同35年には山口県徳山市(現周南市)に銀座ができた。徳山海軍燃料廠の所在地として太平洋戦争時の空襲がひときわ激しく、復興地区に命名されたものには東京の地名がなぜか多い。同年には有楽町、新宿通、代々木通も誕生している。

私が徳山のある飲食店で昼食をとった際に、東京の地名がなぜこれほど多いのか質問したら、「長州藩は近代日本の基礎を作ったから、本当は(町名も)こっちが先なんだ」という答えが返ってきて絶句した覚えがある。後で徳山の市史を調べたら、当然ながら戦後の地名であることが明記されていたが。

■世田谷区の「成城」はかつて新宿区にあった

東京では世田谷区の成城もブランド地名である。東京市牛込区(現新宿区)にあった成城第二中学校が昭和2(1927)年の小田急線の開業の2年前に北多摩郡砧村大字喜多見の台地上に移転したのがきっかけだ。

一帯はその後、成城学園を中心とした計画的な学園都市として整備されていく。明治町村制当時の地名は砧村大字喜多見字東之原(駅の所在地)であったが、宅地開発が進んでいた昭和5(1930)年には大字喜多見のうち学園都市エリアのみ学校名をつけた「喜多見成城」として分離、小田急線から北側を字北・南側を字南に分けた。

昭和11(1936)年に砧村が東京市世田谷区に編入されてからは成城町と改称、喜多見から「完全独立」した。そして昭和45(1970)年からは住居表示実施の規程により「町」を外して現在の世田谷区成城に至っている。

新宿から各駅停車で24分(昭和3年5月改正ダイヤ)と便利で環境も良いため、作家や大学教授など「文化人」が多く住むようになった。また東宝撮影所(当初は写真化学研究所=東宝の前身・現東宝スタジオ)が昭和7(1932)年に南端に開設された後は映画関係者なども住み、独特な文化的住宅地のイメージが定着していく。

■現住所よりブランド地名に寄せたがるマンション

ブランド地名としての威力は大きい。北に隣接する調布市入間町の南部は成城学園前駅から1キロ内外であることもあって、成城を名乗るマンションやアパートが目立つ。入間町三丁目だけでもグレイスガーデン成城、アーバンヒルズ成城、メゾン成城、メゾンK成城、サンビレッジ成城、サミール成城、アーバンハイム・成城、ラ・メール成城、成城2番館、成城3番館などなど、キリがないほど多い。むしろ現地の正式町名である「入間町」を名乗るものを探す方が難しく、やっと1つだけ見つけたのは「都営入間町三丁目アパート」。都営なら「成城」をアピールする理由がないということだろう。

これらの成城を名乗るマンションに住む人は、居所を尋ねられたら「成城です」と答えるのだろうか。失礼ながら、怪しい防火用品などを売りつける訪問販売人が「消防署の方から来ました」と言うのに通じるけれど、いつも成城学園前駅を利用しているのなら、あながち虚偽とも言えない。

■「エグゼクティブ」たちの優越感をくすぐる

8棟から成るある大規模マンションは、そのうちの1棟がほぼ狛江市内に入っているにもかかわらず、その棟の住居表示を「世田谷区成城」とするのに成功した。一般に工場や会社などで複数市区町村にまたがる場合はどれかを代表地番として表示することは以前から行われており、この場合も8棟を「一体とした建物」と解釈したのだろう。ちなみにこの棟の住民は世田谷区民であり、同区に住民税を払う一方で、固定資産税の方は狛江市にも払っているという複雑な立場らしい。

今尾恵介『地名崩壊』(KADOKAWA)

成城に限らず「マンション名は地価の高い方に流れる」傾向はあり、たとえば国立駅北口から徒歩5分の国分寺市光町のマンションの大半は「国立」を名乗るし、多摩市関戸にあるマンションは、京王線の特急停車駅である「聖蹟桜ヶ丘」を冠するのがふつうだ。

昭和40年代以降の住居表示実施で広域町名になった23区内では、最近ではさらなる「差別化」のため、あえて旧町名その他を持ち出して特別感を与えようとしている。たとえば港区赤坂の檜町、品川区上大崎の長者丸、岡山藩池田家の下屋敷の通称「池田山」を品川区東五反田のマンションに冠したりといった類だ。「殿様がかつて住んだ場所に高級マンションを買うステータス」(下屋敷に殿様は住まないが)といった「エグゼクティブ」たちの優越感をくすぐる命名であろう。

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今尾 恵介(いまお・けいすけ)
地図研究家
1959年横浜市生まれ。明治大学文学部ドイツ文学専攻中退。(一財)日本地図センター客員研究員、日本地図学会「地図と地名」専門部会主査を務める。『地図マニア 空想の旅』(第2回斎藤茂太賞受賞)、『今尾恵介責任編集 地図と鉄道』(第43回交通図書賞受賞)、『日本200年地図』(監修、第13回日本地図学会学会賞作品・出版賞受賞)など地図や地形、鉄道に関する著作多数。

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(地図研究家 今尾 恵介)

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