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なぜ人はとりあえずパワースポットに行くのか

プレジデントオンライン / 2019年12月17日 11時15分

榛名神社の随神門=2015年11月、群馬県高崎市 - 写真=時事通信フォト

パワースポットと言われる場所は全国各地にあるが、どんな場所なのだろうか。ノンフィクション作家の髙橋秀実氏は「旅行も『パワースポットに行く』となればお得感が高まる。『とりあえずパワースポットに行く』という人たちは、日本文化の伝統に連なっている」という――。

※本稿は、髙橋秀実『パワースポットはここですね』(新潮社)の一部を再編集したものです。

■癒やされ、リラックスでき、穏やかになり、幸せに…

「パワースポット」について話していると、近くにいた人も「僕もそこ行きましたよ」と割り込んできたりする。口ぶりにパワーがある。話しているだけでパワーが波及していくようなのである。

「パワーがもらえるんです」

50代女性も力強く言い切った。

——もらえるんですか?

「もらえる」

何やらタダで「もらえる」お得情報のようなのだ。

——パワーを、ですか?

「そう。だってパワースポットですから」

パワーがもらえるから「パワースポット」ではなく、「パワースポット」だからパワーをもらえるらしい。一種の言霊か、と私は思った。

そこで巷のガイドブックを読んでみると、「パワースポット」とは「心と身体と魂が何らかの変化やメリットを受けることができる場所」(若月佑輝郎著『日本全国このパワースポットがすごい!』PHP文庫 2010年)などと定義されている。

どんな変化やメリットをもたらすのかと他の本も見てみると、「もやもやした心の迷いを、晴らしてくれるような場所。やさしく包みこんでくれる、心地よい空間」(『全国パワースポット完全ガイド』枻出版社 2010年)、あるいは「そのような場所にいると、癒され、リラックスでき、穏やかになり、幸せを感じていきます」(『日本のパワースポット案内』笠倉出版社 2010年)……。

何やらエステティックサロンの広告のようで、具体的にどこがパワースポットなのかとページをめくると有名な神社ばかり。これでは実質的に神社巡りと同じではないか。

■おしゃれ、お守り、旅行の口実…

「パワースポットは社殿ではないんです」

そう教えてくれたのは月刊誌『ムー』(学研プラス)編集長の三上丈晴さんだ。

同誌はオカルト系の人気雑誌。1979年の創刊以来、UFO、超能力、怪奇現象などを探究し、「ミステリーゾーン」「心霊スポット」などの言葉を世に広めてきている。「パワースポット」についても「隠れパワースポット」「ダークスポット」など細やかに紹介し、いうなれば「パワースポット」の発信源なのである。

「例えば、明治神宮も本殿ではなく、境内にある清正井(きよまさのいど)。奈良の大神(おおみわ)神社も御神体ではなく、参道の脇にある岩。そこがミソ。一種の変化球なんです」

——変化球?

「つまり『そこではない。ここなんだよ!』ということです。『そこに行ったことあるかもしれないけど、ここは行ってないでしょ』と人にも言えるじゃないですか」

「そこ」ではなく「ここ」。ピンポイントで指し示すということで、指先にパワーが込められるのだろうか。

「それに、社殿となると宗教くさくなりますよね」

確かに社殿に注目すると御祭神や由緒が気になる。そこで由緒書きを読むのだが、大抵は文章の主述関係が混濁し、何かを誤魔化しているようで意味不明なのである。

「その点、パワースポットはおしゃれ感覚にもマッチしています」

——おしゃれ、なんですか?

「写真を撮って、スマホの待ち受け画面にすれば御守りになるし、フェイスブックにもあげられる。それに『パワースポット』と言えば、旅行の口実にもなるじゃないですか」

■「そこ」ではなく「ここ」にある

旅行も「パワースポットに行く」となればお得感が高まるのだ。彼の話を聞きながら、私は「四国八十八ヶ所巡礼」を思い出した。巡礼ものの元祖で今も定番のコースになっているのだが、その火付け役となったのは江戸時代に大ヒットしたガイドブック『四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)』(眞念著 稲田道彦訳注 講談社学術文庫 2015年 以下同)である。

同書は巡るべき仏像の名前と大きさ、御詠歌などが記されている薄い本。著者本人が「佛神のふしぎ愚意の及ふ事にあらず」と宣言するくらいで、教義はもとより排除されている。

簡潔に札所から次の札所へ行く道のりを案内しているのだが、よくよく読んでみると、距離や宿、茶屋を紹介しつつ、途上にあるスポットをさりげなく織り込んでいる。

例えば、十一番札所と十二番札所の間にある湧き水を「大悲の水わき出」、つまり慈悲の水だと解説し、その「加持(加護保持)力」が柳を育んでいるという。近くを流れる川は「こり(垢離)とり河」。穢れをとる川だと紹介しているのである。

他にも「明白(みょうびゃく)なる鏡石あり」「四方岩にまんだら大師御ほり」「池中に恠異(けい)(不思議)の石」などと岩石類を指し示し、「諸病によしとて諸人もちさる」とそそのかしている。これらも言ってみればパワースポット。眞念もお決まりの札所を案内しつつ、「そこ」ではなく実は「ここ」だと誘っていたのではないだろうか。

■華道家の假屋崎省吾さんの自宅、港区のラーメン屋…

私は再び群馬に出かけることにした。今回は世界遺産ではなくパワースポットへ。まずJR高崎駅の観光案内所で「パワースポットはどこですか?」とたずねると、女性職員が即答した。

「一番は榛名神社です」

——そこが一番、効くということなんでしょうか。

「効きま、す、……ね」

妙な音節だと思い、「なぜ、効くんですか?」と質問すると、「やっぱり有名ですから。有名さが他とはぜんぜん違いますから」。

有名はパワーの証し。有名だからパワーがあるのか。そういえば、以前目にした雑誌にもパワースポットとして華道家の假屋崎省吾さんの自宅や港区のラーメン屋が紹介されていた(『サンデー毎日』2016年1月24日号)。

有名人の家、有名人がよく来る店はパワースポット。有名人のパワーにあやかる、というより、「有名」と聞いただけで「キャー」と絶叫する、あのパワーが引き出されるということなのか。

「やっぱり榛名神社ですね。私も行きましたから」。別の女性(OL/23歳)はうれしそうに語った。

——行ってどうでした? 何か感じたんですか?

そう訊いてみると、彼女は首を傾げる。「ぶっちゃけ、ないです」

——ない? ないのになんで?

「ヒマだったんで。あんまりヒマだったので、友人と『上毛かるた』を引いたら『登る榛名のキャンプ村』と出まして。それで行けばいいんかなと思いました」

■とりあえず行って、パワーをもらう

「上毛かるた」とは群馬県民が幼少期から愛好するカルタ。札には「紅葉に映える妙義山」「ねぎとこんにゃく下仁田名産」「理想の電化に電源群馬」などと身近な風物が詠み込まれ、遊びながら郷土意識を身につけるのである。

「パワースポットって、はっきり言って、ただの自己満ですから。本当に超自己満」

微笑む彼女。自己満足でしかないと念を押すのである。

——でも、願掛けとかしたんでしょう。

「縁結びとか?」

——そうです。

「しないですね。とりあえずパワーをもらえればいいと思ったんです。悩みって恋愛だけじゃないでしょ。とりあえず限定しないほうがいい。で、とりあえず行ってみたんです」

どうやら基本は「とりあえず」らしい。とりあえず行ってみて、とりあえずパワーをもらう。確かに「御利益」というと「良縁成就」「無病息災」「家内安全」などと限定されるが、「パワー」には汎用性があり、とりあえずチャージすればよいことになる。

——何かいいことはあったんですか?

彼女は「ないですね」と首を振り、思い出したようにこう言った。

「その後、結婚しましたね」。

——結婚されたんですか?

「彼氏ができて、結婚しました」

——じゃあ、パワーが効いたってことじゃないですか。

「あくまで結果として、ですよ。だってその後、妙義神社にも行きましたから、そっちの御利益かもしれないし。一緒に行った友人もまだ未婚ですし」

否定しているのか肯定しているのかよくわからないが、それぞれの御祭神も「パワー」として考えれば連携するかのようである。

「そういえば宝くじも当たりましたよ。10万円」

私が「10万円も」と驚くと、彼女はさらりと続けた。

「それも結果として、ですよ」

■とりあえず行って分かったこと

パワーをもらった後に起きたことも「とりあえず」の結果らしい。とりあえず行ってみたら、とりあえずいいことがあったということで、私もとりあえず榛名神社に向かうことにした。

高崎駅から路線バスに揺られて1時間余り。バス停を降りると、そのまま参道に通じる坂道で、5分ほど歩くと榛名神社の鳥居である。一礼してくぐり抜けると、かつて仁王像が置かれていたという「随神門」。さらに進むと鮮やかな朱塗りの「みそぎ橋」。渡って榛名川のせせらぎを聞きながら、整備された山道を歩く。

清々しい。私は思わず深呼吸した。早朝で人気もないせいか空気が澄んでおり、気持ちがよい。気持ちがよいということは、やはりパワースポットなのか。

実際、山道の脇には様々なスポットが点在していた。洞穴状の岩石が水滴で削られて橋の形になったという「鞍掛岩」。岩と岩の間を毛筆で線を引くように滝が落ちていく「瓶子(みすず)の滝」。御神水が汲める「萬年泉」。

周囲には「シシ岩」「カメ岩」「大黒岩」「袖スリ岩」……、まるで自然がつくった庭園のようで、そもそも榛名神社の本殿は、「御姿岩(みすがたいわ)」という巨大な岩なのだ。

「ここは昔から雨乞いに来る神社なんです」

地元の梨農家の古老が語った。今も乾燥する時期になると、皆さんで「萬年泉」に祈願するらしい。

「ところがいつだったか、榛名神社が東京から見ると吉方位に当たる、とかなんとか言われて、その年にものすごい人が参拝に来ましてね。その時、みんなで『毎年吉方位だったらいいのにね』と話していたんです」

■人々の思惑に合わせて形を変えていく

——人が来るから、ですか?

「そう。そしたら平成19年くらいにパワースポットブームですよ。平日でも参拝客がどどっと来られるようになりまして。おかげさまでそれまで静かだった門前町もにぎやかになりました。門前そば、なんて始めちゃったりして」

門前には食事処や土産屋が軒を連ねている。昔ながらを再現した風情ある街並み。世界遺産の富岡製糸場と違って活性化にも成功したようで、これもパワースポットのパワーというべきか。

郷土誌によると、榛名山はかつて地元の人々の祖霊が登っていく山として信仰されていた。やがて『延喜式』(927年)にも記載される格式高い神社が建立されたのだが、密教(修験道)の行者たちが修行する場ともなり、神仏が習合する。

神が実は仏の化身であるとされたわけで、近世になると「満行宮榛名寺」などと呼ばれ、寺として上野の寛永寺の配下となる。ところが明治初年の神仏分離令によって廃仏毀釈運動が起こり、仁王像などの仏具類は破壊され、再び榛名神社に戻った。神社→寺→神社。その名残りで今も境内には、三重塔や仁王門(現在は「随神門」)が残されているのである。

時代の要請に合わせて形を変えていく。

考えてみれば、これも「とりあえず」ではないだろうか。国語学者の大野晋によると、日本語の「仏」とは、もともと「精妙な美しい像」(『日本人の神』河出文庫 2013年 以下同)を意味し、それを「立派な堂舎に安置」することが仏教だったという。

■なんでもかんでも神にする

教えではなくあくまで形。教義を理解することは「到底一般の人には不可能だったはず」で、当初の神社もとりあえず仏教の形を借りて建立していたらしい。

とりあえず仏教でとりあえず神社。元来の山に対する信仰についても、本居宣長は日本人はなんでもかんでも神にすると指摘していた。鳥、獣、人、雷、海、山、木、草、さらには「凡人にも負るさへあり」(『古事記伝(一)』岩波文庫 1940年 以下同)、つまり凡人にも劣るものまで崇めてしまう。

バカげているように思えるが、「凡て人の智は限りありて、まことの理はえしらぬものなれば、かにかくに神のうへは、みだりに測り論(い)ふべきものにあらず」。人間の知恵には限界があり、本当の理などわからないのだから、とにもかくにも神のことを推し量ったり、あれこれ言うべきではない。そして彼はこう戒めるのである。

たゞ其ノ尊きをたふとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき。

我々はただ、尊さを尊み、畏きを畏むだけ。神さえも飛ばした同語反復で、これはまさに「とりあえず」の境地ではないか。

とりあえずこじつける。振り返れば、神社の「神道」も江戸時代に儒教(朱子学)にこじつけることで正統性を帯びたのではないだろうか。その立役者である林羅山は朱子学にならって「神道人道一理」(「神道伝授」/『近世神道論 前期国学 日本思想大系39』岩波書店 1972年 以下同)を唱えた。

■パワースポットだからパワーがもらえる

「神ト人ノ心ノ神ト本ヨリ同理」、つまり神と人の心は同じ「理」に従っている。心を清めれば神も清まるわけで、「人有テコソ神ヲアガムレ、モシ人ナクバ誰カ神ヲアガムル。然バ民ヲ治(をさむる)ハ神ヲウヤマフ本也」。

人民を統治することと神を崇めることを一体化させ、全国各地の神社を整理したのだ。そして御神体について次のように秘伝を綴っていた。

筥(はこ)ノ内ニ物ナク空ナルヲ幾重モ包ミ、又イレコニシテシメヲハリ、内陣ニ納時(をさむるとき)、此物ハ木ニテモアラズ、金ニテモアラズ、土ニテモアラズ、中ニ神ノマシマスト口ノ中ニ小声ニ唱(となふ)。神ハ形ナキ故ナリ。高天原ニ神止(とどまる)ハ魂気ハ天ニ還(かへる)ノ義也。

中に何もなくても「中に神のまします」と唱えれば、そこに神はいる。「ない」からこそ「いる」というのである。「パワースポットだからパワーをもらえる」と同じで、唱えることが実在を生み出すのだ。

林羅山は何もないことを天に帰ったと神話にこじつけており、その周到なこじつけぶりに私は感銘を受けた。おそらく「世界遺産登録」もこじつけの伝統の一環にすぎないのだろう。

■いい予感を味わえる

本殿の御姿岩に参拝し、私は山道を下った。途中、土産物屋の女性に「梅まんじゅうはいかがですか?」と声をかけられる。店に入ると、籠の中には最後の1個。「残りものには福がありますよ」と勧められて、私はそれを買った。

「みそぎ橋で食べてくださいね」

——そうなんですか?

「そこで食べると、宝くじが当たります」

——本当に?

「本当に。もし当たったら、また報告に来てくださいね」

髙橋秀実『パワースポットはここですね』(新潮社)

彼女はにっこり微笑んでそう言った。当たるわけないだろう、と思ったのだが、せっかくなので私はみそぎ橋まで行って、橋のたもとで梅まんじゅうを食べた。

社殿ではなく、ここがパワースポットということか。空腹のせいか甘さが体に染み入る。そして鳥居を抜けると達成感を覚え、なぜか「いい予感」がした。

いいことがあるような気がする。

結果は別として、とりあえず今は予感を味わおう。とりあえずパワースポット。勘違いかもしれないが、私は日本文化の鉱脈を発見したような気分になったのである。

※本文の旧字は一部、新字に改めました。

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髙橋 秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔! 「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』『悩む人 人生相談のフィロソフィー』など。

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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実)

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