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本人よりすごい"アインシュタインの上司"のIQ

プレジデントオンライン / 2019年12月19日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/virtualphoto

相対性理論で有名な物理学者アインシュタインに上司がいたことをご存じだろうか。上司の名はエイブラハム・フレクスナー。彼が才気あふれる部下たちと接する中で感じた、「天才の特徴」とは——。

※本稿は、ロバート・フロマス、クリストファー・フロマス『アインシュタインズ・ボス』(TAC出版)の一部を再編集したものです。

■もともとは高校教師で博士号もなし

アインシュタインの上司と聞いて、すぐにその名前が浮かぶ人は少ないかもしれない。仕事のためにアメリカへ渡ったアインシュタインの直属の上司は、エイブラハム・フレクスナーという人物だった。フレクスナーはすぐれた管理者だったが、天才ではない。もともとは高校の教師で、博士号も持っていなかった。物理学者でも数学者でもなかった。学術論文は一本も書いたことがなかったという。

アルベルト・アインシュタインは、そのフレクスナーが1930年に立ち上げた高等研究所で、最初に雇った科学者のひとりである。アインシュタインの加入により、高等研究所はまたたくまに学術機関としての信頼を勝ち得た。

だが、フレクスナーがいなければアインシュタインは高等研究所に来なかっただろうし、アインシュタインがいなければ研究所の成功はなかったかもしれない。創立初期の1930年代から40年代にかけて、アインシュタインが研究所の対外的な顔を務めていたからだ。まもなく、もう十数人の傑出した数学者と物理学者が加わり、フレクスナーはその科学者たちを結束の強いチームに仕立てた。

彼はアインシュタインほど賢くなかったが、天才部下を率いるときに大事なことはわきまえていた。みずから徹底した自己評価をおこなうことで、成功するチームを作ったのである。

■科学者が研究に専念できる環境を作った

高等研究所はノーベル賞受賞者を33人、非凡な数学者に贈られるフィールズ賞(数学のノーベル賞と称される)受賞者を42人、優秀な科学者を称えるウルフ賞とマッカーサー賞の受賞者を多数輩出している。

フレクスナーが集めた天才のチームは、20世紀最高の科学的進歩をいくつか成し遂げたことで有名だ。すぐれた科学者が自由な環境で存分に創造性を発揮できたからだが、そのためには所員に給料が払われているか、冬場に暖房が行き渡っているか、電気がつくか、個性豊かな天才たちがチームとして目標を達成できるかを、だれかが確かめる必要があった。その人物が、高等研究所の初代所長エイブラハム・フレクスナー、アインシュタインの上司だったのだ。

そんなフレクスナーの築いた高等研究所は、歴史上類を見ないほど優秀で生産性の高い科学者の集団になった。

フレクスナーは「器よりも中身が大事」だと主張し、ともに働く人々に助力を惜しまなかった。私財を投じて、当時のどこの大学よりも高い給料と、授業負担のない終身在職権(テニュア)を提供した。おかげで高等研究所の科学者は、自分の時間を好きなだけ研究に費やせた。

フレクスナーは多くのリスクも負って科学者たちを支えた。大恐慌時代としては異例の、所員の年金基金を作ったのだ。支給が始まるころには景気が上向いていると踏んだようだが、あいにく最初の支給時期が来ても、その基金では月々の支払いをまかなえなかった。資金不足を解消すべく、フレクスナーはあちこちの夕食会に出向き、慈善贈与(つまりカンパ)を集めてまわった。

■一度入所を断った物理学者も、寛容な心で迎え入れた

フレクスナーは思いやりと忍耐の人でもあった。度が過ぎると言ってもいいほどに。彼がチーム作りをしていたのは、ヒトラーが権力を握ろうとしていた時代である。

そのころフレクスナーは、ドイツの物理学者でユダヤ人の妻を持つヘルマン・ワイルに、高等研究所の教授のポストを申し出た。ワイルはその申し出を断り、祖国ドイツにとどまることを選んだ。

だが、ヒトラーがドイツでユダヤ人の組織的な虐殺を始めると、ワイルは取り返しのつかない間違いを犯したことに気づいた。そしてフレクスナーからの再度の申し出を受け、妻とドイツを逃れて、アインシュタインのいる高等研究所に加わった。フレクスナーは憔悴(しょうすい)していたワイルに会い、一度は断わられながらも、ワイルが求めるものを差し出したのだった。

■イノベーションの肝は「井戸を掘る」こと

フレクスナーは天才それぞれのモチベーション[訳注:やる気を起こさせる心理的な誘因、または動機づけ]が違うと気づき、相手に応じてスカウトの仕方を変えた。

たとえば、革新的な経済学者のエドワード・アーリーは結核を患っていたが、フレクスナーはアーリーの才能と人柄を高く買い、病気で仕事を失っていた彼に教授のポストを提供した。

数年後、快復してアインシュタインやワイルの同僚になったアーリーは、フレクスナーへの恩義から研究に励み、経済学で大きな業績を挙げた。さらにアーリーは、気難しく頭に血が上りがちな天才たちの仲介役も買って出た。健康が危ういときに親身になってもらえたことで、感謝と忠誠心を抱くようになったのである。

高等研究所の創設にあたって、フレクスナーは数学と物理学をまず中核ミッションに選び、のちに経済学と歴史学を加えた。今日も高等研究所には、数学、歴史学、社会科学、自然科学の四部門しかない。多くのことで適度に秀でるよりも、少しのことで世界トップレベルになろうというもくろみだ。

こうした集中的なアプローチは、イノベーションの創出に欠かせない。進歩は万人の知るありふれた知識からではなく、極端に偏った知識から生まれるからだ。

イノベーションの肝は「井戸を掘る」ことであり、「畑を耕す」ことではない。以前、ある化学者に言われたことがある。「問題だらけの課題をどうにかしたければ、焦点を絞るべきですよ」と。

■積極的な交流で新たな発明を促した

フレクスナーは才能ある人々をどんどん高等研究所に招き、教授たちと交流させたり、研究を評価してもらったりした。いつもと違う顔ぶれが出入りすれば、常任のメンバーがマンネリや自己満足に陥らずにすむだろうと考えたわけだ。そうして招かれた科学者には、ノーベル賞受賞者のニールス・ボーア、数学者のジョン・フォン・ノイマン、理論物理学者のポール・ディラックなどがいた。

古い問題に新しい手法で取り組むことも、フレクスナーは恐れず支持した。問いさえまだ立てられていない未知の分野への挑戦を勧めた。刺激を与え合ってすごいことが起きるかもしれないと、物理学者、経済学者、数学者、歴史学者、考古学者を積極的に交流させ、実際にそれを起こした。

たとえば招聘(しょうへい)者から常任教授になったジョン・フォン・ノイマンは、初期のコンピュータに魅せられ、研究棟の地下室でコンピュータを自作した。

フレクスナーはノイマンに理論物理学者になれとも、真空管を扱う電気技師になれとも言っていない。ただノイマンの好きなようにさせたところ、記憶装置を有する最初のコンピュータが生まれたのである。

■反ユダヤ主義の風潮の中ユダヤ人を多く採用した理由

創立当初のフレクスナーはあらゆる重要な決定について、とりわけ採用について教授陣によく相談した。科学者でない彼はチームの意見を大事にしていた。教授会をたびたび開き、所の方向性や課題について話し合った。異なる意見に寛容だったし、相手の話を聞く耳も持っていた。

フレクスナーが望んで作り上げたのは、能力主義の文化だ。彼は教授のランクを、地位や立場ではなく業績によって決めた。多くの社会的障壁を破り、出自にかかわらず最もすぐれた人物を採用した。

アメリカの大学で反ユダヤ主義が横行していたときに、高等研究所の教授の多くがユダヤ人だったのはそのためだ。

高等研究所と密接な関係にあったプリンストン大学には、ユダヤ系の学生を一定以上受け入れないとする正式な規定があり、ユダヤ系の教員の数も内々に決められていた。

フレクスナーはその規定も性別の壁も無視した。終身在職権を持つ女性研究者がいなかった時代に、考古学者のへティ・ゴールドマンを終身地位で雇った。

フレクスナーがこのような規格外のチームを作ったのはなぜか。人種や性別などの先入観を介在させたくない、という思いがあったからだ。彼は慣習によらず、また偏見に惑わされることなく、最もすぐれた人物を採用した。能力主義の環境を作り、創造性を発揮できる自由を与えた。

■「規則なし、試験なし、成績なし、通知表なし」の学校

天才とはいったいどういう人々なのか? それがわかる天才の特徴を、フレクスナーは教育者だったキャリアの初期に見出している。

フレクスナーの父モーリッツは帽子商人だったが、1873年の恐慌で仕事を失った。その打撃から経済的にも精神的にも立ち直れず、わが子に教育を授けられなかった。代わりに、薬局を経営する兄ジェイコヴの援助を受けて、フレクスナーはジョンズ・ホプキンズ大学に通った。「生まれつき知的な人が天才になるのに教育は必要か」とフレクスナーが考えだしたのは、このころのことだ。

その後、大学院への進学を希望するも奨学金を得られず、学費を工面できなかったため、フレクスナーは故郷のケンタッキー州ルイヴィルに戻った。そしてそのルイヴィルで、大学進学を目指す男子生徒のための進学準備校を始める。自分を援助してくれた兄に倣い、別の兄(世界的病理学者のサイモン・フレクスナー)と妹の学費も出した。

ルイヴィルの進学準備校で、フレクスナーは「脅しや強制は生徒のやる気をほとんど引き出さない」と気づいた。そんなことをしても、生徒の知的水準は上がらない。むしろのびのびと楽しくやらせるほうが、生徒はみずから学ぶようだった。生徒にとっては、成績よりも知識のほうが魅力的だったのだ。

フレクスナーは、学校の方針を「規則なし、試験なし、成績なし、通知表なし」に変えてみた。すると生徒が遅くまで居残り、週末も学校に来て勉強するようになった。彼らが大学入試で好成績を収めたとき、フレクスナーは自分の仮説の正しさを確信した。

■妻のブレイクが人生の転機となった

フレクスナーの生徒は全米トップクラスの大学を狙えるほどめきめきと力をつけた。フレクスナーの教育に懸ける情熱が、そうした結果に大きく寄与していたことはまちがいない。だが、教育を通じて生徒に自信を与え、試験よりも学ぶことに集中させた彼の判断こそが、決定的な違いを生んだのである。

いつしかフレクスナーは、自分の考えでアメリカの教育を改革する夢を持ち始めた。だが現実はそううまくいかず、家族を支えるためにルイヴィルにとどまった。

妻のアン・クロフォードがいなければ、フレクスナーは鬱屈したまま地元で一生暮らし、高等研究所はこの世に存在しなかったかもしれない。

あるとき、ルイヴィルの女性向け創作サークルに出たアンは、作家のアリス・ヒーガン・ライスによる貧しい未亡人の物語を耳にした。不遇のときを過ごしながらも明るく家庭を守る女性を描いたその小説を、妻のアンは『キャベツ畑のおばさん』という舞台劇に仕立てた。それは1904年にブロードウェイ公演が延長されるほど評判を呼び、シリーズものの映画にもなった。初上演の年、アンは1万5000ドルを手にした。当時としてはひと財産だ。

39歳にしてついに、フレクスナーは全米の大学と大学院の教育を改革する計画に乗り出す。進学準備校を売却すると、妻子を連れてマサチューセッツ州ケンブリッジに移り住み、ハーバード大学で修士号を取った。それから2年かけて、一家でヨーロッパの大学をまわった。

どこへ行っても劇作家のアンは大人気で、さらに彼女の天性の人懐っこさも手伝い、フレクスナーひとりでは望みようのない門戸が次々に開かれた。彼はアンを介して、アメリカとヨーロッパの一流の作家や思想家に何人となく会ったのだった。

■フレクスナーが見出した天才に共通する特徴とは

フレクスナー一家は、当時の科学活動の中心だったベルリンに引き寄せられた。ベルリン大学の教育は、世界一の水準を誇っていたことで有名だ。

フレクスナーは高名な科学者の講義に足を運び、のちの彼のキャリアを支えることになる、非凡な知性の特徴について考えを深めた。なかでも感銘を受けたのは、ドイツを代表する心理学者のカール・シュトゥンプだ。

シュトゥンプは、きわめて複雑な問題を簡潔に生き生きと語れた。ノーベル賞受賞者のアーネスト・ラザフォードはこんなふうに語っている。「物理法則はカフェの女給が聞いてもわかるものでなければならない」

ゲオルク・ジンメルというすぐれた社会学者は、話があっちこっちに飛ぶのがお決まりだったが、どの話題も新しく、フレクスナーに未知の可能性を見せてくれた。「頭脳明晰(めいせき)な人々は、仕事が遊びになったときに自分が正しい場所にいると悟る」とフレクスナーは結論づけた。

フレクスナーが見出した、天才に共通する特徴とは何か。それは、厳密さを求めるが自由な心を持ち、複雑な問題をわかりやすく解きほぐし、人々を新たな世界の探求にいざなえる能力だったのである。

■天才の集中力の源は「心からの喜び」だった

フレクスナーは、天才の知性が輝くには適切な教育と刺激的な環境が必要であると見抜いた。社会学者の多くも同意するこの特徴を体現していたのが、アインシュタインだ。

アインシュタインは高校の数学で落第し、大学にぎりぎりの成績で合格したとされる。20代後半にベルンで理論物理学の研究を始め、打ち込めるものを見つけたとき、彼本来の途方もない知性が目覚めたのである。

フロリダ州立大学の心理学者アンダース・エリクソンは、天才になるための「10年ルール」を提唱している。「生まれながらの才能だと思われていた資質の多くは、実のところ、最低10年かけて十分練習すれば身につけられる」というのだ。

ロバート・フロマス、クリストファー・フロマス『アインシュタインズ・ボス』(TAC出版)

エリクソンによれば、長期間集中して熟達に励むことで、長期記憶への自動的・無意識的なアクセスが可能になり、並み外れた創造性を発揮しやすくなるという。

私の専門分野の天才たちと話していても、大きな発見を遂げるのに「苦労した」という言葉は出てこない。代わりに聞くのは、それがどんなに「楽しかった」かだ。

文芸批評家のジョージ・シアラバが、アインシュタインの言葉として挙げた(実際はアインシュタインの言葉ではなかったのだが)こんな格言がある。「創造性とは、楽しんでいる知性のことだ」

私のまわりの天才たちは、明らかに仕事を楽しんでいる。そこから私はこんなふうに考えた。「生まれつき有能で勤勉な人は、さらに“心の喜び”があって、初めて天才になるのかもしれない」。

心が喜ぶから、天才は、平均して1万時間もひとつのことに集中できる。その喜びは、楽しみや興奮や感動と読み替えてもいい。私が出会った天才はみな、そうした内側から湧き出るような輝きを放っていた。

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ロバート・フロマス 医学博士
理学修⼠、アメリカ内科学会フェロー。テキサス⼤学サンアントニオ健康科学センターのロング医科⼤学院⻑。前職はフロリダ大学医科大学院の内科学部長で、医師の臨床研修プログラム副責任者も兼務。

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クリストファー・フロマス 学術博士
フロリダ大学ヘルスのプロジェクトマネージャー。フォーダム大学で博士号取得後、同大で倫理学と人間論を教える。過去の役職に、フォーダム大学大学院協議会役員、フォーダム大学哲学会会長など。

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(医学博士 ロバート・フロマス、学術博士 クリストファー・フロマス)

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