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米国生まれの4WDを日本車にしたスバルの手腕

プレジデントオンライン / 2019年12月25日 9時15分

SUBARUが発表した、約5年半ぶりに全面改良したスポーツ用多目的車(SUV)「フォレスター」=2018年6月20日、東京都港区 - 写真=時事通信フォト

スバル(SUBARU)は、前身の富士重工時代に国内で初めて一般向けの四輪駆動車(4WD)を開発した。しかし、アメリカ生まれのいかつい車は日本人にとってなじみがなく、発売当初は苦戦を強いられた。“四駆”は、いかにして日本の人気車種になったのか——。

※本稿は、野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■すべては東北電力の依頼から始まった

「山のなかの送電線の保守作業をしなければならない。そのためスバルの前輪駆動車を四輪駆動にできないか」

日産サニーの受託生産が始まる1968年、富士重工のディーラー、宮城スバルにある依頼が寄せられた。頼んできたのは東北電力である。

新車の開発ではなく、前輪駆動を四輪駆動に改造してくれないかという依頼だった。宮城スバルにとって、東北電力は得意先だ。できうるかぎり要望に応えなくてはならない。

「やってみようじゃないか」と言ったのは当時の宮城スバル整備課長だった。彼はもともと自衛隊で戦車の整備をしていた男でメカニックに詳しかった。

本社に改造についてフィードバックすることなく、ディーラーの整備担当を集めて、既存の知識と技術をもとにFF(フロント・エンジン/フロント・ドライブ)車から四輪駆動車への改造に着手したのである。

四輪駆動(4WD)車とは文字通り、四つの車輪がすべて駆動輪となる自動車のことだ。悪路、とくに雪道に強いので、利用するユーザーが多いのは降雪地帯だ。

■「ジープ」が日本であまり普及しなかった理由

四輪駆動車の歴史は自動車自体のそれよりもやや遅れて始まっている。世界で初めてガソリンエンジンを使用した四輪駆動車は、1902年に生まれたスパイカーで、オランダのスパイカー兄弟によって作られたものだ。

前進が三速で後進が一速のトランスミッションを持ち、現代のフルタイム式4WDと基本的には同じ仕組みとなっている。

その後、第一次大戦、第二次大戦を通じて、戦地の移動用として四輪駆動車は使われた。そして、1941年、アメリカにジープが生まれる。

ジープはアメリカ陸軍の軍用車両として各社が試作したものから始まり、元々はバンタム社が設計したものだった。

しかし、ジープを量産したのは自動車会社としてバンタム車よりも規模が大きいウィリス、フォードの2社だった。

ジープは第二次大戦中、活躍し、戦後は日本国内でも進駐軍が使っている。ただ、日本では普及したとは言えない。車体が大きく、しかも重いので操作性に難があり、乗り心地がよくなかった。

また、悪路を走るだけに壊れやすく、修理しようとしても、部品をアメリカに発注しなければならなかったのである。

東北電力の保守マンたちが欲していたのは、ジープよりも操作性がよく、乗り心地もよく、そして、故障したら部品がすぐに手に入る国産の四輪駆動車だった。

■「走行性能はまあまあだがとにかくうるさい」

宮城スバルの整備課の人間たちはFF車を四輪駆動にするためにジープを参考にした。しかし、最初の試みは大失敗。手作りの四輪駆動の機構を組み込んでみたら、前輪と後輪が逆回転して、車体が引きちぎれそうになったのである。

その後も苦労を重ね、彼らはなんとか頑張って、やっとできた一台の試作車を富士重工の本社に持ち込んだ。

本社の開発担当が試しに乗ってみたところ、「走行性能はまあまあの仕上がりになっていたが、とにかくうるさかった」というのが感想だった。

その後、四輪駆動車については宮城スバルではなく、本社のスバル技術本部が直接、車体設計、サスペンションなどをすべて見直すことにした。

当時、ジープタイプの四輪駆動車は国内でも販売されていたが、女性がスカートをはいたまま乗れるような乗用の四輪駆動車は存在していなかった。

そこで、技術陣は「運動性のいい、誰もが乗れる四輪駆動」を目指したのである。

ただ、そうはいってものんびり開発している余裕はなかった。

東北電力は「早く作ってくれ」の一点張りだったので、1年ほどで作業を行い、1970年にはスバル1300Gをベースにした11台を納車した。噂(うわさ)を聞いて、発注してきた防衛庁にも1台の四輪駆動車を納入した。

■またしても、一般ユーザーにはピンとこない

一方、せっかく百瀬晋六たちが設計したスバル1000、スバル1300は販売面でははかばかしい結果を残すことができなかったので、1971年には新車レオーネが発売される。

そこで四輪駆動の改造を担当した技術開発陣はスバル1300Gからレオーネをプラットフォームにしたものに変え、72年には「スバルレオーネ4WDエステートバン」を完成、市販することにした。

しかし、この車も販売面ではパッとしなかった。今では「乗用の4WD」車はある。しかし、当時はまだ乗用の4WD車がスバルレオーネしか存在しなかった。

一般ユーザーは「どうして、四輪駆動車が必要なのか」「ジープとはどこが違うのか」「得をする点はどこにあるのか」がつかめなかったのだろう。最初のうちはマーケットでは苦戦したのである。

■評論家や「スバリスト」からは熱烈に支持されたが…

四輪駆動車の開発にあたった影山夙(はやし)は当時、次のような感想を抱いた。

「ユーザーは4WDだからジープのように坂を上ったり、水の中に乗り入れようとする。エンジンが壊れてしまうから、それはやめてくださいと言っても、簡単に納得してもらえないわけです。ただし、一方で4WDのよさを宣伝するためには派手なことをしないとアピールできない。ひと目で理解してもらうには階段を上ったり、水に入ったり、ジャンプしたり。営業としてはそんな派手な宣伝をするしかなかったんです」

そうして、スバルレオーネの四輪駆動車もまたスバル360、スバル1000と同じように、モータージャーナリスト、自動車評論家、他社の技術者からの評判は最高だった。

「この技術はスバルでなくてはできない」

そういう声も聞こえてきたのだが、しかし、いかんせん売れなかった。買ってくれたのは北海道、東北の雪道を使う業務の人々、もしくはスバル360、スバル1000で同社のファンになった「スバリスト」と呼ばれるマニアのなかでも、特に熱狂的な人々しかいなかった。

■風向きを変えたのはアウディだった

レオーネ4WDは取り立てて大きな宣伝をしなかったこともあって、70年代は日本のマーケットでも、ごく一部の人たちの支持を得たのにとどまった。

世の中の風向きが変わったのは1980年のことだった。

ジュネーヴのモーターショーで、アウディが「クアトロ」と名づけたスタイリッシュなフルタイム四輪駆動の車を発表したのである。クアトロが出る以前のアウディに乗る人々は、ジープを買う層とはまったく異なる人たちだった。

おしゃれな富裕層というのがアウディの愛好家だったのである。アウディはそういった顧客層に向けて、「うちが出した乗用の4WDはジープとはまったく違う車だ」とアピールした。

「悪路を走破するのが目的ではない。都会の道をハイパワーで走るスポーツカーだ」

ハイパワーを確実に路面に伝えるために開発した技術が四輪駆動なのだ、と訴えたのである。つまり、都市の道路でスピード感を楽しむ、しかも乗り心地のいい車として4WDを定義したのである。

■「人とは違う車に乗りたい」金持ちをくすぐった

しかも、クアトロは量産車では世界初のフルタイム四輪駆動だった。レオーネは市街地の道路はFFで走り、悪路は四輪駆動にして走る。ところがクアトロはどこでも四輪駆動だ。

それまでのジープが農耕馬のような車だとしたら、クアトロはでこぼこ道や雪の道も疾走できるサラブレッドというイメージだったのである。

クアトロという新しい定義の車に真っ先に反応したのは欧米の富裕層だった。それまで富裕層が買う車といえば、ロールス・ロイス、ベントレー、メルセデスといった車か、もしくはフェラーリ、ポルシェ、ランボルギーニなどの高級スポーツカーだった。

ところがクアトロはそのどちらでもない、新しいジャンルの富裕層向け乗用車だった。ロールス・ロイスでもなく、フェラーリでもないという金持ちが「人とは違う車に乗りたい」と思った時の選択肢となったのである。

■90年代のスキーブームで人気に火がつく

クアトロは話題となり、日本でも顧客を獲得した。

そこで富士重工自体は認めてはいないけれど、同社のマーケッターは「クアトロが欲しいけれど、手が届かない」という人々を狙えばいいと考えたのではないだろうか。

レオーネ4WDはFFと四輪駆動をレバーで替える方式だったのをフルタイムの4WDとして発売した。そして、狙い通り、営業成績も上がっていった。これまでは業務用しか売れなかったのが、アウトドア志向でゆとりのある層が買うようになったのである。

また、レオーネ4WDにとって追い風となったのはスキー人口の増加である。1982年に600万人だったスキー、スノーボード人口はピークの98年には1800万人にまで増加している。

苗場、赤倉といったおしゃれなスキーリゾートを目指す人間にとって、最大のあこがれはアウディのクアトロに乗って出かけていくことだったが、レオーネの四輪駆動はクアトロに次いで、スキーリゾートに似合う車だったのである。

この後、富士重工の車はレガシィ、インプレッサ、フォレスターなどと進化していくが、いくつかの車種にはフルタイムの四輪駆動が付加された。

同社の人間にとって、フルタイム四輪駆動は「水平対向エンジン」と並ぶ技術の成果にすぎない。

だが、一般のユーザーにとっては、水平対向エンジンよりも、フルタイム四輪駆動がスバルにおける魅力的な個性だった。今では同業他社も四輪駆動の車を出しているが、86年当時はアウディと富士重工くらいしか選択肢がなかった。

幸運なことにレオーネの四駆はアウディのイメージに引っ張られて売れていった。

そして、クアトロ以降、現在に至るまである種のユーザーの好みは乗用車からSUV(スポーツ用多目的車)、それも四輪駆動車へとシフトしていると言っていい。

■ユーザーの「こんな車が欲しい」から革新は生まれる

富士重工が他社に先駆けてフルタイム四輪駆動を開発していたのは、結果としては正解だった。

ここで、もうひとつ、指摘できることがある。水平対向エンジン、アイサイトといった同社の核心技術はいずれも社内から生まれたものだ。

一方、四輪駆動に関しては東北電力の依頼から生まれている。つまり、ユーザーが「こういうものが欲しい」とメーカーに頼んできたイノベーションだった。

現在、EV(電気自動車)、自動運転といった新しいとされる技術の確立に向けて自動車各社は必死に取り組んでいる。

しかし、将来のマーケットの帰趨(きすう)を握る技術は案外、EVでもなければ自動運転でもないような気がする。

「これがあれば他社よりも確実に売り上げを取ることができる」

そういったイノベーションとはスバルが四輪駆動に出合ったように、ユーザー側から湧き上がってきたものではないか。

企業が考えたものよりも、ユーザーが「こんな車が欲しい」「不便を解消した車に乗りたい」と思ったものの方がかえって一般の人々に受け入れられるのではないか。

■当時の日本経済は円高、輸出業は苦しかった

レオーネのフルタイム四輪駆動がマーケットに出る前年のことだ。

1985年9月22日、米国ニューヨークのプラザホテルに先進五カ国(日・米・英・独・仏)の経済、財務担当相と中央銀行総裁が集まり、国際会議が持たれた。

この会議で決まったのはドル高是正に向けた各国の協調行動への合意であり、いわゆる「プラザ合意」と呼ばれるものだった。

「基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%幅で切り上げ、そのための方法として参加各国は外国為替市場で協調介入をおこなう」

人為的にドル高を是正し、アメリカの輸出競争力を強め、貿易赤字を減らす。プラザ合意はそれなりの効果があったが、一方で、日本経済は急速な円高のため、輸出型産業にとっては苦しい局面になった。

プラザ合意の年、1ドルは240円だったけれど、2年後の87年12月、1ドルは120円になっている。

日本銀行は円高不況を懸念して低金利政策を取った。そのため、輸出型ではない企業は急激な円高で原料が安く入手できたので、結果的には懐が潤った。

消費者もまた輸入品に対して購買力が高まったため、消費が活発になり、国内景気は回復に転じた。その後も、低金利政策は続き、金融機関は余った金を貸し出しに回す。

それによって、不動産・株式などの資産価格が高騰し、バブル景気へつながっていったのである。

■なんといっていいのかわからない恐怖を感じた

しかし、輸出型企業の典型である自動車会社は好景気という蚊帳の外にいた。例え話になるが、2年前まで1台をアメリカに売れば240万円の金が手に入ったのが、円高のため半額の120万円にしかならない。

いくら企業努力や節約をしても、吸収できるような金額ではないから、現地での車両価格を引き上げることになってしまう。すると、「低価格な割に品質がよかった」日本車のメリットはなくなり、とたんに売れなくなってしまった。

トヨタ、日産でさえ円高に苦慮したのだから、下位メーカーの富士重工にとって急速な円高はまさに死活問題だったのである。

当時、アメリカにはスバル・オブ・アメリカという現地資本の販売会社があった。そこに赴任していた人間は事情をこう語っている。

「円高になってから販売が落ちだしたんです。それまでは年に18万台ぐらい売っていましたから、ということは月に1万台以上なんですね。ところがこれが1万台を切り、やがて半分近くに落ちたときは、もうなんといっていいのかわからないような恐怖を駐在員が全員、感じました。これはどうなってしまうんだろうと」

こうした事情は日本の自動車各社にとって共通の問題だった。当時、どの社もアメリカに輸出することで利益を手にしていたのである。

■現地工場を建てるお金はない、出した答えは…

そこで、どの社も為替相場の影響を受けない現地生産に乗り出していくようになる。トヨタ、日産、ホンダをはじめとして主だったメーカーはアメリカに工場を建てることを次々と決定した。しかし、「主だったメーカー」ではない富士重工は逡巡する。

野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

ひとつの自動車工場を建設するのは簡単なことではない。自動車工場とは工場の集積だ。つまりプレス、鋳造、鍛造、エンジン、塗装、組み立てなどの各工場を集めた工場群のことであり、英語では各ファクトリーの集積をプラントと表現する。

ひとつの工場を建てるには少なくとも数百億の金が要る。

だが、富士重工の営業利益はプラザ合意のあった1985年で225億円だ。同社にとってアメリカでの工場建設は簡単には決断できないことだし、とても一度にそんな金を手当てすることはできないのである。

しかし、現地生産しなければ円高が続く限り、車は売れなくなってしまう。現地生産しても日本にとどまっていても、いずれにせよ状況は好転しない。

現地生産はしたいけれど、富士重工単独で進出するには金がなく、興銀は貸してくれそうもなかった。

そこで、経営陣が考えたのが他社と共同で工場を建てることだった。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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