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3000人のハンセン病患者を隔離した"島"の大罪

プレジデントオンライン / 2019年12月24日 11時15分

国立療養所 長島愛生園=2018年9月18日、岡山県瀬戸内市 - 写真=時事通信フォト

岡山県瀬戸内市にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。ハンセン病患者を隔離する目的で1930年に開設され、いまも長島に残る。患者に対する差別や偏見を助長してしまった隔離政策とその施設は負の歴史を持っている。当時の患者たちはどのような心境で暮らしていたのか。政治学者の原武史氏が取材した――。(第2回/全3回)

※本稿は、原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■「日本のエーゲ海」の向こうには、かつての隔離施設があった

2018年8月20日月曜日、新横浜を9時29分に出た「のぞみ19号」は、岡山に12時27分に着いた。12時55分発のJR赤穂線上り播州赤穂ゆきの普通電車に乗り換える。赤穂線は山陽本線の相生と東岡山の間を結んでいて、東岡山までは山陽本線と同じ線路を走る。

東岡山でようやく山陽本線から分岐する。赤穂線は山陽本線よりも海側を走るが、車窓から瀬戸内海を望むことは全くできない。長島愛生園がある瀬戸内市の中心駅、邑久に着いたのは13時19分。赤穂線は単線のため、中心駅と言っても上下線共用のホームが1つしかない。

瀬戸内市の観光の目玉は、「日本のエーゲ海」と称される牛窓だろう。牛窓は古くから港町として栄え、江戸時代には将軍の代替わりなどに際してソウルから派遣された朝鮮通信使が立ち寄ったことでも知られる。牛窓に比べると、これから行く長島は観光のイメージが皆無と言ってよい。

愛生園まで行くバスもあるが、本数が少ないため駅前に停まっていたタクシーに乗る。どこまで行ってものどかな農村の風景が広がるばかりで、市名に反してなかなか瀬戸内海が見えてこない。20分あまり走ったところで、ようやく前方の視界が開け、橋が見えてきた。本州と長島の間にかかる邑久長島大橋である。

■島から脱走しようと命を落とした患者もいた

1988年5月に開通したとき、この橋は「人間回復の橋」と呼ばれたという。本州と陸続きになり、「島」という隔離された環境ではなくなったからだ。海峡の幅は一番狭いところで30メートルほどしかなく、泳げばすぐに渡れそうにも見えるが、潮の流れが速く、脱走を試みて命を落とした患者も1人や2人ではなかった。

橋を渡ると、すぐに国立療養所邑久光明園が見えてくる。長島愛生園同様、ハンセン病の療養所で、1938(昭和13)年4月に第3区府県立光明園として開設され、41年に国立療養所となった。患者数は最大で1100人あまりに達したが、現在の入所者数は100人にも満たず、新たに民間の特別養護老人ホームが建てられている。

長島というのは、その名の通り東西に長い島である。邑久光明園からさらに3キロほど進んで行くと、右側の視界が開けて瀬戸内海が広がった。この海を見下ろす高台の上に、長島愛生園の事務本館が建っていた。時計の針を見ると、午後2時前を指している。

■夫婦単位で住める「6畳2間の住宅」は強制隔離の象徴

1931年3月に光田健輔が81人の患者とともに東村山の全生病院から長島愛生園に移ったときには、極秘に列車が運転された。患者を乗せた列車は貨物列車に増結され、東村山から西武線や中央線や東海道本線などを経由し、港に近い大阪の桜島まで走った。さらに大阪港から長島まで船が運航されたが、結局長島までは2日あまりを要している(『愛生園日記』、毎日新聞社、1958年)。

園長として赴任した光田を迎えた事務本館は、現在、歴史館として公開されており、その横に現在の事務本館がある。歴史館の見学は後回しにして、先に愛生園内を散策し、史跡を見学することにした。

まず事務本館裏手の丘を上る。芝刈りに来ている業者を除いて人の姿を見かけない。丘の斜面に10坪住宅と呼ばれる狭い木造家屋が残っていた。夫婦単位で住めるよう光田が考案した6畳2間の住宅は他の療養所には見られず、強制隔離を象徴する建物となった。だが空き家になって久しく、いつ壊れてもおかしくない状態にある。

気温は30度ぐらいだろう。海から風が吹くせいか、それほど暑さを感じない。聞こえてくるのは、ツクツクボウシの蝉時雨と、園内の随所に設置されたスピーカーから流れてくる、高校野球を実況中継するラジオのアナウンサーの声だけだ。スピーカーは、目の不自由な人に場所を知らせる盲導響と呼ばれる装置ではないか。

■患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した歴史

さらに坂道を上ると、「恵の鐘」と呼ばれる鐘楼堂が現れた。標高40.2メートルの「光ケ丘」にある。さすがに見晴らしはよく、近くには干潮時に歩いて渡れる手掛島(弁天島)が、遠くには小豆島が眺められる。手掛島には、光明皇后をまつる長島神社がある。

鐘の表面には、第1回で紹介した皇太后節子の「つれづれの~」という和歌が刻まれている。だがここは、36年に患者たちが待遇改善を求めて鐘を乱打した「長島事件」の舞台でもある。890人の定員を上回る1000人あまりの患者を受け入れたことで、患者の不満が爆発したのである。

これ以降も患者数は増え続け、ピークの43年には2021人に達した。邑久光明園と合わせて、長島全体で3000人あまりの患者がいたことになる。

丘の尾根に沿うようにして遊歩道が整備されている。谷に当たる部分には、黄色や橙色の屋根も鮮やかな平屋建の集合住宅がいくつも並んでいた。

反射的に多磨全生園を思い出した。全生園にも似たような平屋建の住宅があるからだ。だが、似ているのはあくまでも住宅だけで、あとは全くと言っていいほど違う。全生園は隔離されているとはいえ周辺は住宅地で、自由に出入りできる。実際に園内に入ると、散歩やジョギングをしている人たちをよく見かける。

一方、愛生園はたとえ本州と橋でつながっても、交通が不便な離島にあるという環境そのものが変わるわけではない。全生園のように、近隣住民が気軽に園内を通り過ぎることはあり得ないのだ。

■いまなお続く偏見で故郷に戻れない遺骨が眠る

愛生園の入所者数は、2018年8月20日現在で161人にまで減った。平均年齢は85歳。住宅は、病気にかかった人が入る病棟、介護が必要な人が入る特養棟、健常者が入る一般棟の三種類に分かれている。丘の周辺に点在しているのは一般棟だが、空き家が目立っている。ちなみに職員数は400人で、入所者よりずっと多い。

丘を下ると園の北側に出る。カキの養殖イカダが浮かぶ海を望む高台に納骨堂がある。ハンセン病に対する差別や偏見はいまなお消えず、故郷に戻ることのできない3600柱を超える遺骨が眠っている。2005年10月23日に愛生園を訪れた現上皇と現上皇后は、納骨堂に献花し参拝している(中尾伸治「天皇・皇后両陛下を長島にお迎えして」、『愛生』2005年1月号所収)。

海岸沿いには、隔離された患者を最初に収容して消毒を行った収容所や、逃走を試みた患者や風紀を乱した患者を収監した監房が残っていた。光田健輔は懲戒検束権をもっていたため、裁判を行うことなく独断で患者を監房に送り込むことができた。ここは日本でありながら日本の法律が適用されない治外法権の地だったのだ。

収容所の近くには、1939(昭和14)年に建設された収容桟橋も残っていた。この桟橋は患者専用で、職員などは別の桟橋を利用した。見送りに来た家族も、この桟橋から島内に入ることはできなかった。

■初代園長・光田の評価は簡単には下せない

散策を終えた私たちは、歴史館を見学することにした。1955年当時の園長室が復元されている。壁を背にする形で大きな机と椅子があり、机の上には顕微鏡が置かれている。その背後には本棚がある。壁には歴代園長の肖像写真が掲げられているが、初代園長だった光田健輔の在任期間は26年間と最も長かった。

ここに患者が立ち入ることはできなかった。「指令室」と呼ばれたこの部屋からは、日本全国のハンセン病療養所に指令が発せられたばかりか、国策にも影響を及ぼす指令が発せられた(『宿命の戦記 笹川陽平、ハンセン病制圧の記録』、小学館、2017年)。

園長室に隣接して、「先駆者の紹介」のコーナーがあった。光田健輔については、「愛生園の初代園長で、ハンセン病研究の第一人者です。彼の『全患者の強制隔離』という考えは、日本の政策に大きな影響を与えましたが、彼の評価は当時の社会状況も考えなければなりません」「彼の評価は時代背景や医学水準、社会状況などを総合的に判断して行わなければならず、その判断は分かれるところです」という説明がなされていた。

強制隔離が間違っていたことは否定できないが、現在の高みに立って全面否定することもできないという相矛盾した評価がうかがえた。

■長島愛生園に通った精神科医・神谷の功罪

神谷美恵子(1914~79)に関する展示もあった。

神谷は1943年に長島を訪れ、初めて光田に会った。「光田健輔先生という偉大な人格にふれたことが、その後の一生に影響をおよぼしている」(「らいと私」、『神谷美恵子著作集2 人間をみつめて』、みすず書房、1980年所収)と述べるほど、その出会いは決定的であった。

1957年から72年まで、神谷は精神科医として、兵庫県芦屋の自宅から片道5時間あまりをかけて、長島愛生園まで通い続けた。66年に出版され、皇太子妃(現上皇后)にも影響を及ぼした『生きがいについて』は、愛生園での医師としての体験に根差した作品であった。79年に死去したが、園内には遺金によって「神谷書庫」が設けられ、ハンセン病関連の文献が収蔵された。

しかしジャーナリストの武田徹は、神谷の姿勢をこう批判している。

本人の意志とは無関係に神谷もまた「社会的貢献」をしている。神谷の生きがい論が療養所をふたたびユートピアとして描いたため、隔離政策を省みる真摯なまなざしの成立が遅れた事情は否めない。(『「隔離」という病い 近代日本の医療空間』、中公文庫、2005年)

療養所をユートピア=良き場所と見なす点において、神谷美恵子の視点は光田健輔に通じるとしたわけだ。

■隔離施設での生活を望む「光田派」の患者もいた

実際に神谷は、光田に対する批判が強まってからも、「いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景からくる制約を免れうるであろうか。何をするにあたっても、それは初めから覚悟しておくべきなのであろう」(「光田健輔の横顔」、前掲『神谷美恵子著作集2』所収)と述べるなど、光田を擁護し続けた。けれども展示には、神谷のそうした側面については触れられていなかった。

館内の見学を一通り終えてから、受付談話室で学芸員の田村朋久さんに面会した。私は田村さんに、見たばかりの印象を率直にぶつけてみた。

——光田健輔に関する説明文は、ちょっと矛盾していると言いますか、評価を避けているような苦しい文章になっていますが、これはなぜなのですか。

「光田が園長だった時代には、光田派の患者と反光田派の患者がいました。いまでは強制隔離が間違っていたことがわかっていますが、当時は社会の差別や偏見が強く、患者のなかには差別や偏見を耐え忍んだまま一生を過ごすよりも、自然豊かな愛生園で生活の保障を受けられるほうを望む人たちがいたこともまた確かです。そうした人々から、光田は感謝されていたのです。説明文には、光田派の患者もいたという事実が踏まえられています」

■負の歴史として、人権教育の場へ

——しかし、光田が進めた「無らい県運動」は、ハンセン病が恐ろしい急性伝染病だという誤った情報を広めることで、差別や偏見を一層強めてしまいましたよね。彼は病理学者として、ハンセン病がきわめて伝染力の弱い病気であることを知っていたはずなのに、真逆なことをした。しかもプロミンが開発されてからも、強制隔離を改めようとしなかった。もし戦後直ちに過ちを認めていれば、差別や偏見は薄まったのではないでしょうか。

原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)

田村さんがうなずいた。私は話題を変えた。

——入所者数が161人となり、平均年齢が85歳ということは、近い将来、入所者がいなくなることも予想されます。そのとき、長島愛生園はどうなるでしょうか。

「人権教育の場として残すべく、世界遺産の登録を目指しています。現在でも、歴史館には年間1万2000人が訪れています。4割が学校関係者です。世界遺産に登録されれば、この数はもっと増えるはずです」

長島愛生園は、後世にきちんと記憶されなければならない負の歴史をもっている。その歴史を伝える建物や施設もきちんと保存されている。世界遺産登録をひそかに応援したい気持ちになった。

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原 武史(はら・たけし)
政治学者
1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。日本政治思想史を専門とし、特に近現代の天皇・皇室・神道に造詣が深い。著書に、『「松本清張」で読む昭和史』(NHK出版)、『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)など多数。

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(政治学者 原 武史)

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