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なぜオウムも創価学会も"富士山"に集結したか

プレジデントオンライン / 2019年12月25日 9時15分

オウム真理教の施設(サティアン)の跡地を整備して作られた富士ヶ嶺公園=2019年4月13日、山梨県富士河口湖町 - 写真=時事通信フォト

富士山の麓は、かつてさまざまな宗教の信者が集まる“宗教都市”だった。政治学者の原武史氏は、「オウム真理教のサリン製造工場や、創価学会のかつての総本山は富士山の麓にあった。それには理由がある」という——。

※本稿は、原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

■富士山に登頂すれば罪やケガレが祓われる

日本で代表的な宗教都市といえば、天理教の本部がある奈良県天理市や、金光教の本部がある岡山県浅口市(旧・金光町)などがすぐに思い浮かぶだろう。JR桜井線の天理駅には、ふだん使われない信徒の団体専用ホームまである(JR山陽本線の金光駅にも団体専用ホームがあったが、現在は撤去されている)。

これらはいずれも、明治以降に西日本で発展した新興宗教にほかならない。江戸時代にまでさかのぼれば、より多くの庶民が集まる宗教都市が東日本にあった。富士山麓の上吉田、現在の山梨県富士吉田市である。

古来、富士山は霊峰として信仰の対象になってきたが、江戸時代になると富士講と呼ばれる民間信仰が盛んになり、江戸末期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど庶民の間に広がった。上吉田の町には自宅を宿泊所として提供し、富士信仰を広める役割を果たす御師の家々が並ぶようになった。ここに泊まった信者たちは、翌朝に富士山の神とされたコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫命)をまつる北口本宮冨士浅間神社に参拝し、山頂を目指した。

彼らの目的の一つは、山頂で「御来光」を拝むことにあった。山頂には極楽浄土があり、登頂すれば罪やケガレが祓(はら)われ、生まれ変わると信じられていた。彼らにとって、富士山とは単なる仰ぐべき山ではなく、たとえどれほどの困難が伴おうと登頂すべき山だったのだ。

■富士山は人々に宗教的インスピレーションを与えた

明治以降、富士山は桜と並んで、日本という国家のシンボルとして浮上する。1929(昭和4)年に鉄道省が東京─下関間を走る特急の愛称名を初めて募集したとき、第1位となったのは「富士」であった。

戦中期の1942(昭和17)年には、日本建築学会が開催したコンペ「大東亜建設記念営造計画」に出品した丹下健三の「忠霊神域計画」が、第1位を獲得している(井上章一『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』、朝日選書、1995年)。これは、「日本の最も崇高なる自然である富士の裾野」に戦死者を英霊としてまつる忠霊塔をつくり、東京と道路で直結させるというものであった。

この年、吉田口(北口本宮冨士浅間神社)からの富士登山者数が初めて20万人を超えている。明治以前の富士講と戦中期に高揚したナショナリズムがあいまって、空前の人出となったのである。

戦後になると、登山者数はいったん減少する。しかし登頂しなくても、美しい富士山の山容は古くから人々にさまざまな宗教的インスピレーションを呼び起こしてきた。計画倒れに終わった「忠霊神域計画」もその一つといえようが、山梨県から静岡県にかけて、背後に富士山を望む「麓」に多くの宗教団体が集まり、本部や道場や施設を置いてきたことからも、このことは明らかだろう。

■「地下鉄サリン事件」のサリンは富士山の麓で作られた

信仰は時として狂信となり、とてつもない災厄をもたらすことがある。最もよく知られているのは、静岡県富士宮市に富士山総本部を置き、山梨県西八代郡上九一色村(現・富士河口湖町)に施設を建設したオウム真理教だろう。

89年から上九一色村に進出したオウム真理教は、富士山を望む富士ヶ嶺地区に「第1上九」から「第7上九」まで7つの拠点をつくり、サティアンと呼ばれる出家信者を収容する施設やサリン製造工場、倉庫などを配置した。95年3月20日に起こった地下鉄サリン事件では、ここで製造されたサリンが使われた。

その2日後、サティアンで警視庁の強制捜査が行われ、教団の幹部が次々と逮捕された。同年5月16日には、グルと呼ばれた教祖の麻原彰晃(1955~2018)が、第6サティアンで逮捕されている。

サティアンはことごとく取り壊され、現在では何も残っていない。富士講は廃れてもなお博物館が建てられ、御師の家が保存されるなど、信仰が盛んだった時代をしのぶことができるのとは対照的である。

■創価学会員が富士山麓に押し寄せた時代もあった

静岡県富士宮市の大石寺もまた富士山麓にある。「多宝富士大日蓮華山」を山号とする日蓮正宗の総本山であり、正応3(1290)年に日蓮(1222~82)の高弟六老僧の一人、日興(1246~1333)により開創された。身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗同様、日蓮を宗祖とするが、日蓮宗が日蓮を「日蓮聖人」と呼ぶのに対して、日蓮正宗は「日蓮大聖人」と呼んで区別している。

大石寺への参詣者数が激増するのは、創価学会が日蓮正宗の最大の信徒組織へと発展した戦後になってからだ。第2代会長の戸田城聖(1900~58)が、1950年代前半から「月例登山」(登山は参詣を意味する)を奨励し、学会員がこぞって参詣するようになった。

さらに第3代会長の池田大作(1928~)は、大石寺の境内に「大御本尊」を安置するための正本堂を72年に完成させる。だが巨大化した創価学会は、91年に日蓮正宗から破門され、98年には正本堂も解体された。

■宗教の指導者たちにとっての富士山とは

施設が解体されたり、信者が来なくなったりする教団がある一方で、新たに本部を富士山麓に構え、世界中の信者を呼び寄せる教団もあった。98年には、「世界人類が平和でありますように」と書かれたピースポールで知られる白光真宏会が、本部を千葉県市川市から、オウム真理教の富士山総本部があったのと同じ地区の富士宮市人穴に移している。白光真宏会はここを「富士聖地」と称し、一年を通してしばしば大きな行事を開催している。

なぜ、富士山に吸い寄せられるようにして、さまざまな教団が集まってくるのか。麻原彰晃や池田大作をはじめとする教団の指導者たちは、富士山をどのように見ていたのか――「麓」と宗教の関係を探るべく、富士吉田市の富士講と旧上九一色村のオウム真理教の観点から富士山の山容を眺めつつ、山の北側から西側にかけての「麓」に点在する施設やその跡を車で回ることにした。

■まずは富士講を知るため「ふじさんミュージアム」へ向かう

2018年10月29日月曜日、快晴である。小林順『本の旅人』編集長が運転する車は、中央自動車道を西に向かっている。それとともに、富士山がどんどん大きく見えてくる。七合目あたりまで雪に覆われた山容が青空に映えている。

河口湖インターで降り、富士パノラマラインを経由して「ふじさんミュージアム」を訪れる。正式名称は「富士吉田市歴史民俗博物館」である。富士山を信仰の対象とする山岳信仰「富士講」について知るためには、まずはこの博物館を見学する必要があったからだ。寒くはなかったものの、周辺の木々はすでに半分ほど紅葉していて、朝晩の冷え込みを実感させられる。

富士講の展示はとても充実していた。だが肝心の客がいない。富士急行の富士山(もとの富士吉田)駅からも遠く、バスの便も少ないことが災いしているのだろうか。しかも富士講の実態を知ることができ、ミュージアムの付属施設にもなっている御師の家(旧外川家住宅)は、ここから離れている。

見学を早々に切り上げ、車で富士パノラマラインを戻って富士吉田市の中心、上吉田に向かう。江戸時代に富士講の信者であることを示す白装束の行者が街道を埋めつくし、街道の両側に御師の家々が所狭しと並んでいた宗教都市の面影は、なおも残っている。旧外川家住宅もそうした家々の一つで、重要文化財に指定されている。

■裏座敷では行者たちが祝詞や御神歌を唱和

赤い屋根の中門をくぐると、細い水路を渡る。富士山の伏流水のせいか水は透きとおり、勢いよく流れている。ここには小さな滝がつくられ、外川家に宿泊した行者たちが水垢離(みずごり)を行う禊(みそぎ)場となっていたようだ。

靴を脱いで母屋に上がる。明和5(1768)年築の建物で、上吉田に現存する家々のなかでも古いほうに属する。ここに行者が宿泊していたが、廊下を介して万延元(1860)年に裏座敷ができると、母屋は家族生活の場となり、行者は裏屋敷に泊まるようになった。

裏座敷には、御師の家に特有の「御神殿」と呼ばれる場所があった。コノハナサクヤヒメなど富士山の神霊をまつる神殿が設けられ、行者たちが神前に座り、祝詞や御神歌を唱和した。御師の家は、宿泊施設であるとともに宗教施設でもあったことがよくわかる。

正午には少し早いが、旧外川家住宅から比較的近い「桜井うどん」で昼食をとることにする。

山梨県の大学に3年間勤めていたことがあるので、この県の麺文化にはなじみがある。全県で広く食べられているのは、小麦粉を主材料として季節の野菜を加え、味噌(みそ)で煮込んだ「ほうとう」で、甲府盆地やその周辺には蕎麦(そば)屋も多い。一方、富士吉田では織物産業が盛んだった昭和初期から、機械を動かしている女性に手間をかけさせないよう、男性がうどんをつくっていた。富士講の信者にも、登山前に「湯盛りうどん」を振る舞っていたという。

■鳥居の向こうに富士山が鮮やかに見えるロケーション

まだ昼前なのに、「桜井うどん」の店内はにぎわっていた。メニューらしきものはなく、温かいうどんか冷たいうどんのどちらかを選べという。温かい方を注文すると、きざんだ油揚げと、ネギの代わりにキャベツが薬味として盛られたうどんが運ばれてきた。

手打のうどんは角張っていてコシが非常に強い。シンプルにして味わいがある。値段もわからず食べたが、これで400円だという。あまりの安さに驚く。

よく見ると、キャベツを別皿で注文している客や、「替え玉」を注文している客がいる。メニューがないから、そんなことができるとは知らなかった。きっと地元の常連客なのだろう、背広で正座しながら、「替え玉」を丼に流し込む男性の仕草に思わず笑ってしまった。

御師の家々が両側に並んでいた街道は、現在「富士みち」と呼ばれ、「金鳥居(かなどりい)」が立っている。鳥居の向こうには、富士山が鮮やかに見える。このロケーションは、行者たちの富士登山に対する思いをいやが上にも高めたに違いない。金鳥居は、富士山の「一の鳥居」であり、北口本宮冨士浅間神社の参道入口を示す鳥居でもあった。

数百年の杉並木と石灯籠に挟まれた浅間神社の参道を進み、木造では日本最大の鳥居とされる「冨士山大鳥居」をくぐり抜け、神楽殿や本殿を見学する。

■境内は外国人観光客でごった返していた

三島由紀夫の長編小説『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』(新潮文庫、2002年)には、主人公の本多繁邦らがこの参道を歩く場面がある。「一行はついに高さ六十尺にちかい朱塗りの大鳥居に到り着き、これをくぐると朱の楼門の前に、高く積まれた汚れた雪が取り囲む神楽殿にぶつかった。神楽殿の軒の三方には七五三縄(しめなわ)が張りめぐらされ、高い杉の梢から、一条の歴々たる日ざしが、丁度床の上の白木の八朔台に立てられた御幣を照らしていた」。雪の季節にはまだ早いが、神社の光景そのものは変わっていない。

先に見た「ふじさんミュージアム」とは対照的に、境内は観光客でごった返していた。その多くは外国人だ。本殿の右手奥には、かつて行者が山頂を目指すために通った吉田口の登山門もあった。

富士山麓の鳴沢村にある別荘に滞在していた武田百合子(1925~93)は、1966(昭和41)年1月3日、夫の泰淳、娘の花子とともに初詣のため車で浅間神社に参拝したことを日記に書いている。

浅間神社の境内には雪がそのまま残り、小暗い参道を白装束の富士講が七、八人帰ってくる。鈴の音がひびく。(『富士日記』上、中公文庫、1997年)

■富士講の行者の姿を見られたのは半世紀前まで

このころにもまだ富士講の行者がいたことがわかる記述である。しかし、それから半世紀あまりが過ぎた現在、白装束に金剛杖と数珠をもち、菅笠をかぶった行者の姿は見られない。いまや富士講は、博物館やその付属施設で往時をしのぶものになってしまったのだ。

富士パノラマラインを西に進むと、富士吉田市から富士河口湖町を経て鳴沢村に入る。右手には河口湖や西湖が迫っているはずだが、住宅地や山々が邪魔をしていて見ることはできない。

ひばりが丘という交差点を左折し、山梨県道71号に入る。その途端に富士山が見えなくなり、右も左も一面の原始林に覆われる。青木ヶ原樹海に入ったのだ。行政区画上は鳴沢村から富士河口湖町にまた戻る恰好になる。

この樹海を抜けると、いよいよオウム真理教の施設が点在していた旧上九一色村の富士ヶ嶺地区へと到達する。

■今やあずま屋とトイレがあるだけのサティアン跡地

だが言うまでもなく、オウムの施設があった場所を具体的に示す看板は立っていない。2009年に一度レンタカーで富士ヶ嶺地区を訪れ、サティアンの跡を探したことがあったが、正確な場所は結局わからなかった。

ありがたいことに、いまではネットに「富士・上九廃墟探訪or聖地巡礼用地図」(当時のURL。現在は移転している)が公開されている。これを見ると、どこにどういう施設があったかがつぶさにわかる。この地図を手掛かりに、まずは第2、3、5サティアンがあった「第1上九」の跡を目指すことにする。

第2サティアンはもともと麻原の家族が住んでいたところで、秘密地下室があり、死体を焼却し隠蔽(いんぺい)するための焼却炉が置かれていた。第3サティアンは作業所や物置、第5サティアンは印刷工場に相当した。

信号のある交差点を右折し、しばらく行くとさらに右折する。道はどんどん狭くなるが、舗装はされている。車の通行はなく、人の姿も全くない。

遠くで牛が放牧されている。目指す跡地は、富士ケ嶺公園という町立の公園になっていた。あずま屋とトイレがあるだけで、あとは一面の野原になっている。もはや一つの建物すら残っていないのに、ただの公園と呼ぶにはおよそ似つかわしくない空気が漂っている。

■麓にサティアンを建設した理由は「戦争のとき助かるため」

公園の片隅に慰霊碑が建っていた。

馬蹄形の石碑に「慰霊碑」とだけ刻まれていて、それ以外の説明文はない。碑の右隅には、「南無妙法蓮華経」と書かれた卒塔婆が一本だけ立て掛けられている。左右には枯れかけた花が供えられ、その前にはラベルのないペットボトルが2本立っている。

慰霊碑の後方には、澄み切った空をバックに富士山がそびえていた。視界をさえぎるものは何ひとつない。裾野から頂上にかけて稜線がなだらかな弧を描き、圧倒的な存在感をもって迫ってくる。ただ富士吉田に比べると南西側に当たるせいか、雪の量はやや少なく見える。

なぜオウム真理教は、この地にサティアンを建設したのか。麻原彰晃は、地下鉄サリン事件が起きる3カ月近く前の94年12月25日にこう述べている。

わたしたちの道しるべとなっている経典、特に仏教の経典においては、未来を予知した予言的な経典が存在しています。この経典では「最終戦争は起きる。そしてそこから逃れた人がそののち、しっかりと法則を守り、戒律を守り、そして新しい人類を築くんだ」と説いています。では、どのような人が助かることができるのか。これはまず「山に逃げた人が助かる」と説かれています。しかも「岩間の陰等に隠れた人が助かる」と書かれています。まあ、こういう理由があってオウム真理教の道場が富士山周辺にあるとお考えになったら非常にわかりやすいと思います。
では、いったいなぜ、山に逃げたならば助かるのか。例えば原爆にしろそうだし、あるいは、他の爆薬兵器、細菌兵器もそうですが、そんなに広範囲に影響を与えるものではない。(中略)したがって、皆さんが現世を捨て、そして出家し、そして富士山周辺で暮らすならば、それだけでも皆さんが生き残る確率というのはかなり高くなるものではないかと考えられる。(『日出づる国、災い近し』、オウム、1995年)

麻原は、「仏教の経典」をもとに、世界最終戦争が近い将来に到来することを説いている。サティアンというのは、オウムの信者が世界最終戦争を生き抜き、「新しい人類を築く」ために建設されたというのだ。

仏教と世界最終戦争を結びつけた人物としてよく知られているのは、満洲事変を仕掛けた軍人の石原莞爾(1889~1949)だろう。

法華経の熱心な信者であった石原は、1940(昭和15)年に発表された「最終戦争論」(42年に『世界最終戦論』として新正堂から刊行)のなかで、「日本を中心として世界に未曽有の大戦争が必ず起る。そのときに本化上行(ほんげじょうぎょう)が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ」という日蓮の予言をもとに、世界最終戦争が「数十年後に切迫している」とした。麻原の言葉は、石原の「最終戦争論」を下敷きにしているように見えるのだ。

■麻原にとって、富士山は信者が生き残るための方便

しかし他方、麻原は第3次世界大戦を意味する言葉として、ハルマゲドンという言葉も使っている。この言葉は「仏教の経典」ではなく、『新約聖書』のヨハネ黙示録第16章に出てくる。終末的な戦争が行われる場所、転じて世界の命運を決する最終戦争を指す。90年代にはオウム真理教のほかにも、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)のようなキリスト教系の新興宗教が、同様に近い将来におけるハルマゲドンの到来を唱えていた。

原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)

ベストセラーとなった五島勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社、1973年)には、1999年7の月に人類が滅亡するという解釈が示されていた。麻原の言葉が信憑性を高めていった背景として、世紀末が迫りつつあった時代状況があったことを見逃してはなるまい。

麻原にとって、富士山は「未来を予知した予言的な経典」に出てくる世界最終戦争が起こったとき、そこから逃れるための「岩間の陰」になりさえすればよかったのだ。富士講とは対照的に、麻原は富士山そのものには宗教的な意味を見いだしておらず、せいぜい信者が生き残るための方便としかとらえていなかった。

こうした麻原の思想は、窓がないために富士山を望むことができず、外部とのつながりを一切遮断したかのようなサティアンの建物によく示されていた。

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原 武史(はら・たけし)
政治学者
1962年生まれ。放送大学教授、明治学院大学名誉教授。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中退。日本政治思想史を専門とし、特に近現代の天皇・皇室・神道に造詣が深い。著書に、『「松本清張」で読む昭和史』(NHK出版)、『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)など多数。

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(政治学者 原 武史)

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